第七章 ディアンヌは再び戦いに臨む

最後の竜騎士

 布陣してからふた月。山間の地ははやくも夏の盛りを過ぎ、朝晩は息が白くなるまで冷え込む日もある。今朝は濃い霧が谷に立ちこめている。

「もとより長期戦は考えてねえんだろ?」

 朝飯代わりというのか、干し肉をかじりながらトーマスが訊いた。「それならそうと、南の方の集落や、山沿いのちょっとした屋敷なんかも接収すればよかったんだ」

「もとより短期決戦のつもりです。本格的な篭城戦となればモンフェルメ軍の思うつぼですからね」

 だから今日は、全軍に朝食をしっかり摂るように伝えた。一昨日は投石機の完成試験という程度の戦いだったが、今日は徹底的な攻撃を長時間にわたってすることになるだろう。

 その要となる二台の投石機は,今や完全に調整されて出番を待ち構えている。肝心の弾丸となる巨石や網にいれた石も、次々に集められている。一日に二〇回も撃ち込んでやればいいだろう。準備を整えている工兵達の間から、褐色の僧服を纏った小柄な影が進み出てくる。

「図面の数字が汚れて消えかけておりました。それで腕の取り付け角が深くなりすぎたのです」

 陰鬱な顔で淡々と状況を説明するのは、投石機の設計者であり工事監督でもあるジェローム・バスティネリだ。ドミニコ会修道士でありトゥールーズの司教でもある。

「先ほどの動作を確認いたしました。最初の一撃は壁を越えはしますが、目標からの誤差の修正には二三回の試射が必要です」

「上々です。やっていただきましょうジェローム師」

 表情を変えぬまジェロームは一礼して投石機の方に向かった。

「忠実な神の僕にして民の導き手が人殺しの道具作りに精を出すってのはどうなんだ」

「我々も忠実な神の僕にして、その神の栄光のために異端を殺す。問題がありますか」

「人を殺すことに問題はねえ。神の名のもとにってところだろ、問題は」

 おや、とベランジェはトーマスを見直した。

 このザクセンの傭兵騎士はことさら粗野で無教養なもの言いをするが、時々、妙に本質をついたことを言う。この戦いが終われば報酬と戦利品を手にロンバルディアにでもゆくのだろうが、もっとゆっくり話をしてみたいとも思う。

 投石機の被害が甚大となれば、モンフェルメ軍は必ずやなけなしの騎士を出撃させてくるだろう。それを迎え撃つための準備もできつつある。投石機に誘い込むように左右両翼に歩兵と騎兵を配置し、それぞれトーマスと、ベランジェ自身が指揮を執る。

「早く晴れねえかな、この霧」

 空を見上げてトーマスが呟いた。薄い雲のような霧を透かして青空が見える。霧と同じくらいに晴れない表情でさらにトーマスが言った。

「兵士達が、妙なことを言ってる。一昨日の夜、竜が飛んでいるのを見たってんだ」

「竜が?」

 ベランジェは驚きを覆い隠すために、首をかしげてみせた。「モンフェルメの竜は全て灰になったはず。我々の目の前でね」

「最後の一匹が灰になったのを見たって言ってるのは、あのギルベールだけだ。俺は見てねえ」

「まあ、それはそうですが、竜が残っているなら、もっと早く出していたでしょう」

「一人や二人ならフクロウかコウモリでも見間違えたんだろうで済むんだろうが……何度か、陣地の上で旋回して、山の方に消えたって言うんだ」

「……その兵士たちは夜更かしして賭博でもしていたんですかねえ」

「お前らしくもねえな。少しは警戒すると思ったが。……まあいい」

 もし、モンフェルメに本当に竜が残っているのだとすれば、もはや、それはそれで一興ということになるかもしれない。ベランジェは、つい、そんな罰当たりなことを考え、その妄想を悪魔に見透かされたりしないかと、柄にもなく十字を切った。

「では、トーマス殿。そちらはおまかせした」

「あいよ。お前も気を抜くなよ。竜はともかく、まだまだ何がおきるかわかんねえぞ」

「ご忠告痛み入ります」

 その言葉は本心だ。敵は五騎もの竜を擁していた魔法の都市。異端審問官の怪しげな『奇蹟』で竜は灰になったとしても、それだけで終わるのだろうか。いや、それは『危惧』というよりは『期待』に類するものかもしれない、とベランジェは自分の思考を戒める。思わず、北の空に目を遣り、そんなことはない、ない方がいい、と頭を振った。

 その異端審問官ギルベールは投石機の傍らで、職人や兵士達の作業を眺めている。彼の仕事も、もうすぐ始まることになるだろう。

 大きな戦いの始まりに向かって、騎士や兵士達の気持ちが少しずつたかまってゆく。その緊張感に堪えかね、思わず深呼吸をした、その時だった。

「モンフェルメ軍が城門を出ました!」

 またうっすらと残る霧の向こうから、兵士の声が響いた。

 なんと、もう出撃した、というのか。

「予想通りです。うろたえるな。投石機は準備でき次第攻撃を開始。左翼、右翼とも手はず通り敵を誘い込み、粉砕しなさい」

 伝令役の兵士が走る。ベランジェも自分の馬を見つけて駆け寄り、うち跨る。従者が手渡す大兜を被り、盾を鞍に掛け、槍を携える。自分達の出番はまだ先だろうと、下馬して待機していた他の騎士達も次々に装備を整えた。

「進め!」

 四〇騎の騎兵の一六〇の馬の蹄が、ざん、と一斉に地面を蹴った。防具や武具がぶつかりあう不穏な音を響かせながら、三〇〇名を越える歩兵を伴って移動を開始する。霧は思ったよりも濃く、しかも晴れそうでなかなか晴れなかった。

 嫌な予感がする。もし、敵に竜がいれば、上空から戦場を俯瞰し、味方の部隊を誘導して、うまくすれば各個撃破も可能かもしれない。いや、敵の身になってどうする。念のため斥候を出し、ばかげた同士討ちや不意打ちに備える。

 しばらくして進軍が停まる。川にかかった橋に先頭がさしかかったのだろう。今の時期、水かさが少なく、流れは速いが馬や徒歩で渡れない川ではない。ここで敵を待つか、先に進むか。

「敵はまだ見えませんか?」

「見えません!」

 今のところ問題は起きていない。慎重を期すならここで敵を待てば良いし、右翼のトーマスと川の手前で合流しても良い。迷った挙げ句、進軍しろ、と声が喉まで出かかったときだった。

「竜だ!」

 複数の叫びが陣中を走った。

「陣形を乱すな。落ち着け!」

 叫びながらも、まさか、という懸念を抑えつつ、もちろんベランジェも空を仰いだ。

 そして、低い雲の切れ間に、見つけた。

 竜ほどに大きくはないが、あれほどの大きさの鳥はいない。

 首もなければ尻尾もない。直線でかたち取られたまっすぐな翼は羽ばたくことはなく、かすなかな虫の羽音のようなうなりとともに、ベランジェの視界から消えた。

 なんだあれは?

 ベランジェがその正体に思いを巡らせるより早く、困惑と騒乱は一気に全部隊に広がった。

「竜だ! まだ竜が残っていたんだ!」

「逃げろ、いや、引き返せ、本陣が襲われるぞ!」

 谷の入り口で、モンフェルメの竜騎士団に被った攻撃のすさまじさは、まだ兵士達の記憶に生々しかった。

「あれは竜ではない!」

 ベランジェの叫びが打ち消される。舌打ちし、傍らの従騎士にトーマスの隊への連絡をまかせ、斥候を引き戻す。

「全軍、転進。本陣を守るぞ!」

 その明確な指示はどうにか理解された。モンフェルメ軍に先陣を切るのはトーマスに任せることにする。

 投石機を中心とした本陣にむけて騎士達が馬の鼻面を向け終わったとき、ぶおん、と空を切る音が聞こえ、続いて、木と木がぶつかりあう音が谷にこだました。

 投石機の最初の一撃が放たれたのだ。


 擬竜は竜というより凧のようなものだ、とディアンヌは思った。竜騎士の訓練の最初には凧を揚げることになっているから、本質は同じかもしれない。ちょっとした風にも煽られて姿勢が乱れ、経路が目標からずれる。飛ぶ速度は本当にヴォルケの半分以下で、空に浮かんでいられるのが不思議なほどだ。ヴォルケよりよっぽど『魔法』に近いと思える。竜窟を飛び出し、エクトール達の騎士団が城門を出てから、しばらく町の上を周回してこつをつかむと、騎士団を追うようにして北に針路を取った。

 地表にはミルクをこぼしたように霧が立ちこめている。そのミルクの雲の上に頭を出している二台の投石機や、力なくしおれた軍旗の群れで、敵陣の様子がわかる。その霧も少しずつ晴れてきているようだが、モンフェルメ側にとってはすでに上々の効果をもたらしてくれていた。

「敵の主力は二手に分かれた上に、両方ともモンフェルメの騎兵部隊に向かってるわ。これならいける!」

 もちろん、擬竜はヴォルケのように話を聞いてくれないことはわかっている。だが、話しかけずにはいられなかった。

 モンフェルメの軍はゆっくりとした速度で進んでいる。その上空を通過しながら、前方の敵の状況を気流籏で教えてやる。騎兵と歩兵のほとんど全員が槍や剣をディアンヌに向けて振ってくれている。エクトールの姿を見分けることはできなかった。

 二隊に分かれた敵の半分が川を渡っていた。もう一隊は少し遅れていて、まだ川の向こうでぐずぐずしている。その向こうに見える投石機は二台とも投射準備が整っているように見えた。周囲の工兵達が投石機から離れてゆく。え、撃つの? 今? 

 本能的な恐怖に突き動かされて、ディアンヌは大きく舵を右に切った。

 ディアンヌの擬竜を狙ったはずもないが、最初の一撃は一瞬前までディアンヌがいた空間を突き抜けて飛んだ。その巨石の行方を確認する余裕はないが、雷鳴に似た響きを背後に聞き、ディアンヌは歯ぎしりした。どこに落ちたのだろうか。人は死んだだろうか。そして、もう一台の投石機がもっと大きな石を打ち出す。太い木を何本も束ねた腕がむちのようにしなり、突風に煽られた大木のような音をたて、その風圧はディアンヌのところまで押しよせて擬竜の機体を煽った。その石は城壁を越えることはできず、壁に命中していくつかに砕けた。 

 二射目を撃つために投石機に群がる工兵や人足達。十人以上の人足が滑車にかけた紐を引っ張って腕を引き下ろし、他の一団がテコを使って次に飛ばす巨石を運んでくる。だが、その中の一人が、ついにディアンヌを見つけ、指さし、叫んだ。「竜だぁ!」

 弾丸の巨石を、腕木を巻き上げていた綱をほうりだし、蜘蛛の子を散らすように投石機の周囲から逃げ出す人足や兵士達。わずかに数尺下ろされただけの腕木が、それでも大きな音をたてて跳ね上がった。逃げた兵士達に戻れ、と叫ぶ騎士、口をあんぐりと開けてこちらを見ている修道士。一瞬、ウイリアムかと思ったがそうではなかった。

 ディアンヌは仕事にとりかかる。周りにオモリのついた投網を引き出して左手にぶら下げる。これも、もともと敵の将帥を生け捕りにするための竜騎士の装備だ。擬竜を投石機の真上に誘導する。跳ね上がったままの腕木が邪魔だったが、角度が浅めだったのでなんとかなりそうだ。腕木を支える軸の部分に覆い被さるよう、慎重にタイミングをはかる。網の予備はない。しくじったらおしまいだ。風はない。擬竜の速度と高度差を考えて、今だ!

 ディアンヌの手を離れた網はバネ仕掛けでふわりと広がり、見事に投石機の支柱に覆いかぶさった。よし、いける。今度は足下に固定していた陶器製の火種壺を開き、そこに火矢の先端を差し込む。火がうつるにはしばらく時間がかかったが、やがて矢の先にくくりつけた布は炎を上げ始めた。問題はこれからだ。ヴォルケと違って、擬竜は常に手綱を引いていなくては機体が安定しない。そこでディアンヌは鞍を支える支柱に弓の持ち手をくくりつけておいた。左手で手綱を引き、右手で火矢を引く。支えが無いので力がはいらない。もっと接近しないと届かないかもしれない。

 つい、機体を傾けすぎた。急に高度が下がり始める。だが、ここで手綱を引いては駄目だ。それは竜騎士の訓練で何度もたたき込まれたこと。まずは速度をつけ、それから引き起こす。

 そうして、ちょうど投石機の支柱が真横に位置したとき、ディアンヌは矢を放った。火矢は狙い違わず投網に絡め取られ、そしてあらかじめ大量の油をしみこませてあった網に燃え移った。

「やった! やったよ」

 問題は霧の出るほど湿っていた木材にうまく燃え移るかというところだったが、すぐに支柱から黒い煙が上がり始めた。木材に防水塗料を塗るという丁寧な仕事がしてあったらしく、それがディアンヌには幸いした。

 投石機から逃げて遠巻きにしていた工兵や職人達が戻ってきた。火を消せ、と叫んでいる者もいる。運んできたバケツで下から水をかけようとしている者もいる。

「馬鹿なやつら!」

 ディアンヌは高らかに嘲笑し、投石機によじ登ろうとした兵士に狙いを定めると、矢を放った。それは見事に兵士の肩に突き刺さり、自分の身長ほどの高さから転げ落ちる。

 よし、もう一台だ。霧が晴れてきた。敵をひきつけているエクトール達が包囲されてしまっては元も子もない。彼らが逃げ回っている間に投石機を破壊してしまうのだ。

 ディアンヌはもう一枚の網を引っ張り出し、隣の投石機に向けて再び高度を下げ始めた。

 突然、ディアンヌと擬竜の周囲に矢とやじりが降り注いだ。そのうちのいくつかは太鼓を叩くような音をたてて翼にあたって跳ね返ったが、一つの鏃は翼に小さな穴をあけた。

「うそ、敵が戻ってきたの?」

 地上に目を転じると、騎士と兵士達の三百名を優に超える一団が本陣にむけて駆け戻ってくるところだった。川を越えていなかった連中だ。無事な方の投石機をとりかこむように弓や弩を持った兵士達が散らばり、騎士達は槍を構えてディアンヌを睨みつけている。

「もう、エクトールは何をやってるのよ!」

 いや、それはわかっていたのだ。敵の別働隊でさえ、モンフェルメの全軍を優にしのぐ数なのだ。隊を二つにわけた敵の判断は正しく、それが機能したということだろう。そして、敵のもう一隊は今頃エクトール達と剣を交えている頃だ。

「ええい、やってやるわ。ここでひきさがったら何にもならないもんね」

 ディアンヌは決意を固めた。高度を下げながら旋回し、騎首を投石機に相対させる。ずらりと並んだ兵士達の矢がこちらを睨んでいる。嫌な予感が頭を横切る。ディアンヌをぴたりと狙った矢は一つもない。これはまさか……。だが悩んでいる余裕はディアンヌにはなかった。

「突撃!」

 自分を鼓舞する叫びは、しかし、周囲を埋め尽くすばかりの矢の羽音にかき消された。矢のほとんどは頑丈な翼にはね返されたが、弩の鏃のいくつが翼に穴をあけた。そしてディアンヌの跨った鞍に能った鏃の一つはそれを突き抜け、ディアンヌの太ももの裏に突き刺さった。

「あぐぅ」

 その痛みで、思わず左手に持った網を取り落としそうになる。辛うじて支柱に編みを引っかけ、騎体を傾がせながらもどうにか敵の陣の真上をすり抜ける。

 攻撃は失敗だった。足の傷は深くはないが、その痛みは手綱に向ける集中力をそぐほどに激しかった。下穿きと綿入れが血を吸い取ってゆく感覚がある。大丈夫、出血は止まる。すぐ停まるはずだ。

 痛みをこらえ、はぎしりするほどに口を噛みしめて、ディアンヌはもう一度機首を投石機に向けてぞっとした。敵の陣形が変わり、小型の投石機(カタパルト)までが引き出されているではないか。それが、ディアンヌの進入方向に長く並び、効果的に射撃ができる配置をとっている。これは、血気盛んなだけの盗賊騎士なんかとは全然違う。いや、この指揮官は竜との戦い方を知っている、最初の戦いで感じたその感覚がよみがえる。

「まずい、まずい、まずい……」

 このまま突っ込むか? いや、突っ込めばさっきよりも激しい矢の雨の中を飛ぶことになる。幸運を使い果たせば、ディアンヌもこの擬竜も傷つくことになるだろう。でも引き返すのは嫌だ。引き返したところで、もう長いこと飛んではいられないだろう。

 どうする? どうすればいい?


 まがいものの竜を操っているのは、間違いない、生き残りの竜騎士の娘だ。そして思い出す。何日か前に陣中を通り抜けていった若い騎士と女の二人連れ。たしかに、騎士には見覚えがあると思っていたが、それが竜騎士の娘だったのだ。いったいなぜ、包囲を抜けて町を出て、また戻ってきたのか。何か重要な連絡役を託されていたのか。

 思いにふけったのはわずかに数瞬だったが、それで射撃の指示を出すのが遅くなった。もっとも、竜のまがい物も射程外で旋回したので効果は無かっただろう。一応、脅しを兼ねて弩の斉射を命じる。

 どのような原理で飛んでいるものなのかわからないが、本物の『魔法』や『奇蹟』でもなければ、永遠に飛び続けることはできまい。そして、ベランジェは『奇蹟』はともかく『魔法』は信じてはいなかった。竜のまがいものには、しばらく弓兵で牽制しておけばいいだろう。

「残った投石機は町に対する攻撃を続行しろ。竜にはかまう必要はない」

 ベランジェの指示に従い、再び工兵達が集まってきて、腕木を巻き下ろし始めた。恨めしそうに南の方に離れて旋回していた偽物の竜がまた戻ってくる。

「弓兵、構えろ」

 剣を持った腕を大きく振り上げたときだった。

「司令官殿!」

 トーマスの部隊に連絡に出していた従騎士が、大層な勢いで駆け込んできた。

「どうしました? こっちも取り込み中です。しばらくはそっちでなんとかしてくれと言ってもらえませんか」

「そ、それが、トーマス副司令官の部隊がみつからず……」

「……なに?」

 ベランジェは頭を抱える。お使いもできないようなひよっこを出してくるとは、なめられたものだ。

「わかりました……ヴィクトール殿!」

 ベランジェは別の騎士の名を呼んだが、その若い従騎士は、いや、お待ちください、と気丈にも食い下がった。

「あなたの仕事ぶりは十分だったとオージェ伯にはお伝えしますよ。それで……」

「そうではないです! 敵が来ます! モンフェルメ軍が、すぐそこに!」

 自然に背筋がのびた。耳をそばだてると、多数の人馬の足音が聞こえる。しかも、その間にもどんどん大きくなる。

 なんということだ。まさか、トーマスが半分の敵に敗れたというのか? 

 ベランジェは大きく息を吸い、叫んだ。

「敵がくるぞ!」

 寄せ集めとはいえ、フランス軍の練度と士気は低くはなかった。突然の敵襲にもかかわらず、有力な騎士を中心に、投石機を囲んでいた兵達が集合しつつあった。

 しかし、対応の遅れは致命的だった。

 もはやすっかり薄くなった霧の中から濃紺の軍衣を纏ったモンフェルメの騎士団の姿が浮かび上がる。その後に歩兵の一群を従え、鬨の声とともに突撃してきた。

「ゆけ、押し返せ、敵の数は少ないぞ!」

 ベランジェ自身は周囲の数騎とともに駆けだしたが、初速がつかず、三列に馬を並べた敵の先頭に当たるにはあまりに心許ない。最初の突撃で槍をへし折られ、隣を走っていたヴィクトールは落馬して十尋あまりの距離をはねとばされた。ベランジェは素早く剣を抜き、群がる歩兵の槍や矛を払いのけながら、混戦から抜け出す。

 騎兵を先頭とした敵の一団はそのまま勢いを減じることなく、すでに態勢をくずしつつあった投石器の周囲の弓兵達の中に躍り込み、蹴散らし、切り倒した。しかし、とどまって包囲されるような愚を犯すはずもなく、フランス軍の本陣をすり抜けて行く。

「ディアーンヌ!」

 遠ざかる敵の集団の中から空に向けて、そう呼ばわる若い声を聞いたような気がした。

 まるでそれに答えるように、ゆっくりと舞い戻ってきた黒い翼が投網のようなものを投石機の上にかけた。

 ベランジェは矢継ぎ早に指示を出す。

「敵は戻ってくるぞ! 陣形を整えろ!」

「別働隊に連絡を出せ! 至急戻れ、と伝えるんだ」

「竜を投石機に近づけるな。あの網を切り払え!」

 兵士も騎士も、士気は落ちていなかった。だが、最初に攻撃を受けて火をつけられていた投石機が、轟音とともに崩壊し、燃えさかる木材となって崩れ落ちると、いくつもの悲痛な叫びが周囲の兵士達から上がった。もう駄目だ、竜に食い殺される、という声まで上がる。愚かな、まだまだ我らには敵の二倍の兵力があり、偉大な投石機の一台も残っているというに。

 しかし、ここが戦の分水嶺というものかもしれないな、と、ベランジェは妙に冷静に考えていた。失った砦の数や倒された兵士の数で戦いの結果は決まらない。ある局面で、一方が勝ったと思い、一方が負けた、と感じたとき、その戦いの帰趨は決まるのだ。

 つまらない戦いだが負けてしまっては意味がない。なにより、ベランジェはこの戦いで勝つ必要があった。地に落ちたガイヤールの家名に輝きを取り戻し、そして故郷ウェールズに誇りをもたらすためには、ベランジェはフランス王に勝利を報告しなくてはならないのだ。

 そのためには、結局のところ、一族の凋落の原因ともなったあれに頼ることになるのか。

「司令官殿」

 喧噪の中にあって、その声は大きくも鋭くもないのに、ベランジェの耳に易々と届いた。見下ろすと、すぐ脇に立っていたのは異端審問官ギルベールだった。

「あの擬竜から投石機を守るのは私が請け合いましょう」

「なんですと……」

 考えている余裕はなかった。竜を灰に変えた『奇蹟』があのまがい物の黒い翼に効くとは思えなかったが、逆に一瞬の懸念がベランジェの頭をよぎる。しかしギルベールはこう言って、ベランジェの決心を固めさせた。

「あの擬竜のようなものこそ、この世界から消し去らなくてはなりません。そのためには閣下の行いはかのモノとともに赦されることでしょう」

 ベランジェは頷いた。「では、頼みます」

 馬の腹を蹴り、一散に戦場を離脱する。腰を浮かせ、馬を急がせて向かう先は谷の北西の森だ。時間がない。首にかけていた鎖をたぐり、胸元から小さな銀細工の笛を取り出す。短く三回、長く三回。しかし、その音は普通の人間には聞こえない。大声で叫ぶ。

「カラドボルグ!」

 前方の森の木々が、風も無いのに大きく揺らぎ、そして揺らぎの中心から数本の樹木が左右になぎ倒された。その間から現れたのは、褐色の肌に完全に武装を整えた一頭の巨大な竜だ。

「カラドボルグ、行くぞ!」

(いつでもゆけます。閣下)

 ベランジェは人の聞こえない声で返された竜の答えを完全に理解する。

 くだらない戦いだが、ゆるしてくれ、カラドボルグ。せめてお前を同族と敵として相まみえさせなかったことを謝罪として受け入れて欲しい。


「なるほど、あれがウェールズの竜か」

 赤髪がいくらも残っていない頭には兜も被らず、鎧すらも身につけていない。モンフェルメ軍とフランス軍が剣を交える戦場からいくらも離れていない小高い丘で、フェデリコあるいは神聖ローマ皇帝フレデリクス二世は上空に舞う二つの黒い影をみやった。

「結局ここまで来たのか。まったく、無駄に手間をかけるじじいだな」

「手間をかけたのはともかく、あんたに爺呼ばわりされる筋合いはあらへん」

 アレマン語の悪態にはシチリア語で返しながら、フェデリコはトーマス・フォン・ルートヴィッヒをにらみつけた。

 トーマスは、ベランジェの部隊に嘘の伝令を送ると、モンフェルメの部隊とは一戦も交えず、預けられた五百名の部下ごと戦場を離脱した。そして、本来の戦場からだいぶ離れた場所で、本来の部下であるドイツ騎士団(チュートニック)から選りすぐった精鋭五十人を残りのフランス軍の兵士から分離し、ここまで逃げてきたのだ。元はと言えば、異端審問官に消される前に竜騎士と話してみたい、竜と会ってみたいという皇帝のわがままをかなえるために、というか、そのためにモンフェルメに与えられる『支援』として、トーマスは神聖ローマ帝国宮中伯兼ドイツ騎士団副団長の身分を隠してフランス軍に潜り込んだのである。

「で、どうだ、感想は。満足したか」

「竜は、まあええわ。それより何や、あの小さな鳥のようなもんは」

「よく知らん。モンフェルメの竜遣いどもが作ったんだろう。モンフェルメには天地創造以前の知恵が残っているというからな」

「人が造ったのか? 乗っているのはあの竜騎士の娘か? ディアナとか言うたな。ああ、飛んでおるな。まるで凧のようや……ああ、あぶない!」

「竜だって人が造ったものなんだろ? おんなじじゃねえか」

「竜は悪魔が創ったもんや。そんな変なことを言うと異端審問官に捕まるぞ、トーマス。……おお躱した! うまいもんやなあ。あの娘、本物の竜でウェールズの竜と戦わせたかったなあ」

「だいだい、イタリアをほっぽり出して、こんなところで物見遊山してる場合なのか? 教皇はリヨンで着々と皇帝包囲網を構築しとるぞ」

「いいや、奴はリヨンを追い出されてクリュニーに逃げ追ったわ。それに儂はもう、皇帝やないし」

 何言ってやがる、やっぱり老けこんでるんじゃねえか、そう毒づきながらトーマスがフェデリコを見やると、視線はその向こうに届かない何かを見るように、戦いの舞を舞う二つの黒い影を追い続けている。

「教皇との戦いは、ほんまに骨がおれる」

 ぼそり、とフェデリコは言った。「正統の繁栄のためという名目のもと、諸侯や王同士を争わせ、異教徒と戦わせ、ヨーロッパに戦乱と混乱を巻き起こす張本人、それが教皇や。だが、いくら教皇が愚かで邪悪であっても、倒すことはできん。せいぜい、じわじわと虐めて己の無力さと不釣り合いな傲慢さを思い知らせてやるしかない」

「そんな戦いのどこにおもしろみがあるんだ? あんたが欲しいのは広大で巨大な帝国、俗世の権力以外に興味はないと思っていたが?」

「そうやない。教皇の向こうにもっと大きなモンがおると思っとったから戦ってきたんや」

 トーマスは思わず周囲に視線を走らす。フェデリコの人となりを熟知するトーマスも、ときおりフェデリコが漏らすこのような発言には背筋に冷たいものを感じる。「主よ」と思わず口の中で祈りの言葉と唱えてしまう。

「べつにそいつ自身を滅ぼそうとか、そういうことやない。人間のことは人間にやらせろ、あんたは一々口を挟むな、そういうことを言ってやりたかったんや。けどな」

 あれを見い、とフェデリコは二つの影を指さす。

「あのように異形なものが、軽々と、悠々と空を舞っておろうが。悪魔の創ったもんか異端の技か知らんが、坊主共がどない騒ごうと、一度飛んでしまったら手出しはでけん。イノケンティウスなんちゅう生臭坊主とつまらん戦いをやるより、なんぼか合理的やったと思わんか?」

「さあな」

 トーマスは、ため息をつき、もう一度空中の戦いに目をやった。

 ベランジェは優秀な指揮官であり、誠実な騎士だった。こんな現実離れしたばかげた戦いに命をかけるようなことをしなければ、友人になってもよい、そう思わせる男だった。

 いずれ、もう二度と会うことはないだろうが。


 その竜は、ディアンヌの視界の中で森の中から忽然と現れた。色はモンフェルメの竜より黒く、体表はごつごつとしていて、ずっと大きかった。白い軍衣をまとった騎士、敵の司令官であるベランジェに違いないが、彼がみごとな身のこなしで竜の背に跨るやいなや、竜はその太い足で大地を揺るがしながら駆け出し、わずか十歩ほどで馬の襲歩の数倍の速度に達すると、巨大な黒い翼を打ち振って、軽々と空に舞い上がった。

 ベランジェの竜はディアンヌに見向きもしなかった。投石機の周りで逃げ惑うフランス軍の兵士達を蹴散らすモンフェルメの騎士団に狙いを定めると、強引に翼を翻して襲いかかった。

「あぶない! 散開して!」

 地上の騎士達にディアンヌの声は聞こえなかっただろうし、聞こえても遅かった。その直後にはジャン=バティスタはディアンヌにも聞こえる大声で指示を出し、部隊を散らせたものの、竜の黒い影は容赦なく隊の中央に覆い被さった。

 それは、モンフェルメの竜騎士団のように洗練された対地攻撃とはほど遠いものだった。鉄爪もつけない両足で騎士や兵士を踏みつぶし、その反動で再び空に舞い上がったのだ。その後には馬も人も渾然となった塊が地面にへばりついていた。竜の足には折れた槍が突き刺さったまま、ふらふらと揺れている。

「エクトール!」

 ディアンヌは叫んだ。しかし、その塊の中にエクトールは含まれておらず、ちりぢりになって逃げるモンフェルメ軍の中から空に向かって手を振る影があった。

 凄絶な数瞬が過ぎ、驚きがディアンヌの中に改めてわきおこる。

 あれは竜だ。モンフェルメ以外にも竜がいるという話は聞いていたが、本物を見るのは初めてだった。あれはモンフェルメの竜ではない。一体、いつから、あの森にいたのだろうか。

 ああ、ウェールズの王父、グリフィスをロンドン塔から落としたという竜なのか。

 ベランジェが呼び寄せたのだろうか。ベランジェは竜騎士なのだろうか。ならば、なぜモンフェルメの竜を異端と呼んで滅ぼしたのだろうか。

 考えに沈んでいる場合ではなかった。竜は小さく旋回し、ジャン=バティスタの呼びかけに応じて隊列を立て直そうとするモンフェルメ軍を再び捉えようとしている。ディアンヌは風を読み、小弓を構えて続けざまに三本矢を放った。その内の一本が竜の鞍にあたって跳ね返り、一本がベランジェの肩に突き刺さった。

 ベランジェが刺さった矢を無造作に引き抜きながらディアンヌの方を振り向く。卑怯者め、端正な口が動いて、そう呟いたように見えた。

 屈辱のあまり顔に血が上る。ああ、でも、そのとおりだ。それはわかっている。自分には剣や槍であなたと戦えるような力はない。卑怯者と言われようとも、飛び道具でしか立ち向かうことはできない。ディアンヌは小弓を捨て弩を取った。上から下への攻撃では鎧を貫く小弓も、同じ高度では鎧を着た騎士にはほとんど効果が見込めない。

 ベランジェは鞍に取り付けていた長槍の一つを外して構えた。大げさな。竜の体当たりをまともに受ければ、この擬竜などひとたまりもないだろう。長槍など持ち出すまでもない。

 ベランジェの竜は大きく旋回してディアンヌの方に騎首を巡らせる。その鋭く輝く爪から逃れようと、ディアンヌも舵を切る。しかし、竜は擬竜に比べて圧倒的に速い。ディアンヌも空中に停まっているわけではないのに、襲歩の馬のような速さで竜が迫る。翼を打ち振る音が、風を切る音が耳に届く。やられる。

 竜の爪が擬竜の翼を紙のように引き裂く直前、ディアンヌは手綱を力一杯に引いて騎首を下に下げた。腹の立つほどゆっくりとした動きで擬竜は降下をはじめ、その僅か二尋ほど上の空間を竜の爪がうなりを上げて切り裂いた。

 必死で息を整えながら、ディアンヌは逆の手綱を引き、ゆっくりと高度を取り戻す。ベランジェの竜は、谷の半分ほども飛んでゆき、今は豆粒ほどの大きさに見える。しかし、ゆっくりと翼を打ち振りながらこちらに騎首を向けつつあるのがわかる。

 運がよければ、あと二回くらいは竜から逃れられるかもしれない。しかし、こらから攻撃をかける隙も余裕もまったくない。風車の回転が、心持ち遅くなっているように思える。おそらく、あと二回の上昇が精一杯だろう。敵の槍にかかって死ぬか、地面に落ちて死ぬかの違いしかない。

 地上に目を転じれば、モンフェルメ軍はどうにか態勢を立て直したが、それはフランス軍も同じだった。残った投石機の周りには弓兵が再び配置され、一時はモンフェルメ軍に蹂躙されるばかりだった歩兵と騎兵もどうにか陣形らしいものを整えつつある。フランス軍の陣を正眼に据えたまま動かないジャン=バティスタの迷いがディアンヌにもわかった。地上軍は今回、ディアンヌが投石機に放火するための陽動でしかない。

 ディアンヌの手が火矢をつかむ。竜が戻って来る間に投石機を壊す。いや、駄目だ。もうベランジェはこちらを軸線にのせた。間合いを読み損ねた。

 つかんだ火矢を放りだし、ディアンヌも必死で舵を切る。今度は相手もディアンヌの動きを読むだろう。後から突かれれば確実にやられる。恐怖を押し殺し、小さな旋回半径で周りこみ、相手を正面に捉える。

 竜の銀色の兜の下に鈍く光る目。半開きの口の中は炎を吐くのかと思うように赤い。その様相は親しんだモンフェルメの竜よりずっと禍々しかったが、やはり竜には違いなかった。モンフェルメから完全に失われた竜が、今、目の前にいる。しかし、感慨に浸っている余裕はない。

 ベランジェは槍を向かって左に構えている。わざわざ槍を構えたのだ。突撃の瞬間にわずかに右に針路を変えるはず。左に避け、そのままもう一度投石器に向かおう。大丈夫、あの速度なら竜が通り過ぎて戻る間にはチャンスがある。

「モンフェルメの竜騎士の誇り見せてやるわ!」

 ことさらに大きな声で叫ぶ。手綱をつかんだまま、小弓を構え、矢をつがえる振りをする。一、二、三、今だ! 舵を左に切る。すさまじい風圧がディアンヌの顔面を襲い、槍の穂先がその風をさらに切り裂いて目の前を通り過ぎる。その一瞬後には、ディアンヌは火のついた火矢を弓につがえながら、騎首を投石機の方向に巡らせていた。

 矢をつがえた弓と弩をディアンヌに一斉に向ける兵士達。彼らが守る中心に向かって高度を下げる。大丈夫、間合いはつかんでいる。

 敵の最初の矢がディアンヌのほほをかすめても、ディアンヌは動じなかった。しかし、次の矢、その次の矢が炎とともに打ち上げられると、ディアンヌは、その意味を知って初めて恐怖にとらわれた。ちからなく打ち上げられる無数の火矢をディアンヌは片手で払いのけた。しかし、そのうちの何本かが翼を支える支柱に絡みつく。火を消そうにもディアンヌの手は届かない。鞍に突き刺さった火矢の火が、こちらの火矢に燃え移る。あわてて火矢を引き抜く。こちらの矢も捨てるしかない。

 擬竜の黒は炭の色。火をつければ燃える。

 投石機を囲む弓兵の一隅に、褐色の僧服の人影があった。頭巾を脱ぎ、こちらをじっと見つめるその顔をディアンヌが忘れるわけがない。

「ウイリアム! 貴様!」

 擬竜が火に弱いことを看破したのはウイリアムだったのか。ヴォルケを殺されたことへの怒りがふつふつとよみがえる。お前は、お前だけは赦さない。ディアンヌは空になった矢筒に目をやり、舌打ちする。武器がない。

「くそお!」

 今度はベランジェが斜め後から迫ってくる。速度を同調させ、確実に破壊しようというのだろう。

「降伏しろ!」

 ベランジェの呼びかけが聞こえた。ディアンヌは必死で考えを巡らしてる。鼓動が高まり、答えを返す余裕すらない。首を大きく左右に振る。竜が近づく気配。ディアンヌはすれ違いざまの一瞬に賭けた。相手の姿も見ずに、一息に手綱を引き上げる。速度が急に低下する代わりに一時的に高度が上がる。ベランジェと竜がディアンヌの視界を上から下にすり抜けてゆく。

 その瞬間、ディアンヌは擬竜から身を乗り出し、腕を一杯に伸ばした。

 手の先から一尋もないところに驚愕に目を見開くベランジェの顔があった。ディアンヌはさらに手を伸ばして、ベランジェの鞍の長槍をつかんだ。すさまじい重さと加速度が合わさってディアンヌの腕を肩から引き抜こうとする。

「ぐはっ」

 その激痛と重さに耐えかねて思わず悲鳴が漏れる。しかし、槍を固定していた革紐が引きちぎれ、ディアンヌは長槍をベランジェの鞍から奪い取った。重みで擬竜の姿勢が左に傾く。どうにか槍を鞍の隙間に載せると傾きは収まったが、騎体が槍の重さに耐えかね、ゆっくりと降下することしかできない。

 だが、それで良かった。不意を突かれたベランジェはディアンヌとは反対方向に旋回しながら、後についてきている。ディアンヌはそれにかまわずウイリアムの姿を探した。翼から炎を吹き上げなら突っ込んでくる擬竜に恐れをなしたのか、弓を構える兵士達が、互いを見合わせ、何か叫んでいる。逃げ出す者もいる。ディアンヌの最後の突撃を知ってか、モンフェルメ軍も動きだした。

 やめて、エクトール。これはあたしだけの戦い。無駄な死人を増やす必要なんかない。さっきよりも数を減らした矢が再び降り注ぎはじめた。かまわず高度を下げる。一本の矢は兜に跳ね返り、一本は脇腹に突き刺さって鎧を貫いた。その痛みに思わずうめき声が出る。大丈夫、内蔵には達していない。

 そうしてついに、兵士達の中にあの僧服の男を見つけた。ウイリアムは竜を滅ぼした例の黒い箱を携えていた。

 愚か者め! あの光が擬竜に効くわけがない、それぐらいことはディアンヌでもわかる。優越感が勝利の笑みとなって顔に広がる。槍を再びつかみ、脇腹の激痛に耐えながらそれを前方に突き出す。騎首がぐらりと前に傾くのを手綱を引いて支える。ウイリアムがこちらに気付き、黒い箱を構えた。その箱から明滅する光が発せられる。その胸の真ん中に槍の先端を擬する。

 ウイリアムの瞳はディアンヌを捉えていなかった。

 それで微かに残っていた迷いが消えた。

 大地が、兵士が、ウイリアムの端正な顔が、みるみるうちに大きくなった。

 ディアンヌの槍はウイリアムの構えた黒い箱をばらばらにして吹き飛ばし、ほとんど何の手応えもなくウイリアムの胸の中心を貫いた。その槍はそのままウイリアムの身体を地面に磔にして、ディアンヌの手からもぎ取られた。無我夢中で手綱を引くと、擬竜はどうにかもう一度空に舞い上がった。

「やった、やったよヴォルケ!」

 竜騎士であることがディアンヌの全てだった。ヴォルケがいなければ、結局ディアンヌは何もできず、何にもなれなかった。ヴォルケのいなくなった後には恨みと悲しみと無力さ滑り込み、それが日々大きくなっていった。

 ヴォルケの仇を討った今、それらは消えさり、虚ろな隙間だけが残った。

 ディアンヌの目から涙があふれ出した。その理由はわからなかったが、多分、自分の心が清められたからだろう、と思った。救慰礼を施されたあとというのは、こういうものなのかもしれない。今なら多分、主のもとにゆける。

 ディアンヌは今にも後から襲いかかるベランジェの槍に擬竜の騎体ごと貫かれることを覚悟していた。しかし、その瞬間はいつまでたっても訪れなかった。ディアンヌの傍らをすさまじい速度で降下してゆく竜の姿が目に入ったとき、ディアンヌの中で忘れていた気持ちが甦った。

「エクトール、危ない!」

 ベランジェは再び目標を地上のモンフェルメ軍に切り替えたのか。しかし、ディアンヌにはもう、本当に何も武器が残っていなかった。目の前をモンフェルメ軍に向かって降下する竜の背中にはとても追いつけない。ベランジェの竜は翼を半分折りたたんだようにしてすさまじい速度でエクトール達に向かって突き進む。いや、違う。その先にモンフェルメ軍はいない。竜はゆっくりと傾きながら、そのままの速度で地面に激突した。一回目の激突で僅かに跳ね上がり、二回目に地面に崩れ落ちると動かなくなった。

 見る間に体表に細かいヒビが入り、新月の夜のように黒かった皮膚は茶色に変色してゆく。その先をディアンヌは正視することができなかった。名も知らぬ敵の竜にディアンヌは口の中で祈りを捧げた。

 モンフェルメ軍は? エクトールはどこ?

 ジャン=バティスタ率いるモンフェルメの騎士と兵士達は、混乱するフランス軍に向かってもう一度突撃しようとしていた。そして、彼らの方に騎首を向けたとき、ついに風車の回転が止まり、擬竜はゆっくりと降下を開始した。

 お前もよく頑張ったね、とディアンヌは熱を持ちはじめた支柱の一本に優しく手を添えた。やっぱり名前をつけておけばよかった、とディアンヌは後悔した。そうすれば一緒に主の下に連れて行ってあげられたのに。

 そして、ヴォルケに会わせてあげられたのに。

 黒い翼はすでに半分ほど炎に包まれ、赤く縁取られた穴が少しずつ広がっている。ディアンヌの座る鞍を支えていた支柱の一本が折れ、がくん、と身体が傾く。大丈夫、まだ高度はある。もはや舵はほとんど効かなかった。ディアンヌは鞍から立ち上がると、右側の支柱にぶら下がるように体重を預けた。擬竜は、沈没してゆく船のようにきしみながらそれでもゆっくりと翼を傾け、その軸線上に投石機を捉える。

(お前の最後の仕事だ。うまくおやりよ)

 それは、人の創った名も無き竜への手向けだった。

 目の前に迫り来る投石機の巨大な姿。

 ディアンヌは最後の瞬間まで目を閉じることはなかった。

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