救護所

 その日の戦闘は九時課(午後二時頃)の前には終わった。谷間にあるこの地では、この時間、周囲は明るくても町やフランス軍の陣地のあたりは高山の長い影にすっぽり入ってしまう。狙いの定まらない投石機の調整をするためにも、敵は早めに切り上げたのだろう、とジャン=バティスタ・フルニエ騎士団長は言った。

 城壁の真下、臨時の補給所であり前線司令部でもある、大きな染め物工房の中庭で、ディアンヌはワイン樽の上にぐったりと座り込んでいる。疲労が身体だけではなく頭の中にまで詰まっているようだった。軍衣は切り裂かれ、兜と盾はどこかで無くしていた。たった一日で剣はすっかり刃こぼれしてしまい、今はチーズも切れないだろう。

 中庭には他にも沢山の兵士や騎士達が休んでいた。ときおり力のない笑い声があがるくらいで、ほとんどの者が無言だった。従者や兵士が自分達の主である騎士にワインや水を運んでいる。ディアンヌは、そういえばアルフォンスはどうしているだろうか、とぼんやりと考えた。自分が竜騎士をやめて騎士になったら、彼はどうするのだろう。槍や弓を持って、大きすぎる鎧を着て、ディアンヌの後を追って走るのだろうか。

 まじでありえない。ディアンヌは自分の想像に失笑した。

 というか、多分、こうして地面に足をつけて戦う自分自身が、それ以上にありえない。今日の戦いで生き残れたのは、まったく奇蹟だ。ジャクリーヌや他の騎士達を襲った死神の大鎌が、たまたま逸れたというだけのこと。

「ほう、余裕の笑みってやつか。大した活躍だったそうじゃねえか」

 皮肉っぽい言葉とは裏腹に、その声には暖かみがあった。ディアンヌが見上げると、エクトールが木のコップを持って立っていた。ディアンヌは手をのばしてコップをひったくり、一気に煽る。水だと思ったらワインだった。少しむせる。

「あんたこそ、誰かの背中に隠れて喚いていただけじゃなさそうね」

 エクトールの軍衣はディアンヌ以上に傷つき、鎖鎧の片袖が肩から無くなっていた。

「隠れる背中も少なくなってきたからな。こいよ。館で休め」

「いいよ、ここで」

「いいから、こいよ」

 エクトールの手が肘をつかみ、強引に立ち上がらされた。実は立ち上がれないほど疲労していたことを気づかれただろうか。

 町の中心に向かう荷車の隙間に、二人で並んで乗せてもらう。馬に乗るよりは楽だ。

「惨めなもんね。領主の跡取りが荷車で御帰館とは」

「ランスロだよ。知らねえのか」

「主人の妻に手をだすとか馬鹿じゃないの」

「綺麗な人だったんだよグィネヴィアは」

「馬鹿じゃないの」

 建物の間から遠ざかる城壁が見える。城壁は、ほんのりとあかね色になった陽光の中、傷一つない重厚な姿を見せている。しかし、それは内側だけのこと。

 五度にわたる投石機の攻撃は激しく城壁を揺るがし、一つの塔を破壊し、壁の表面を痛めつけたが、完全に穴を穿つまではいかなかった。どういうわけか、城壁を越えることもなかったが、明日もそうとは思えなかった。

「明日は騎馬突撃をすることになるだろう」

 エクトールが真面目な口調で言った。「ジャン=バティスタ団長も言っていた。後は親父が腹をくくるかどうかだ」

「そうね。それがいいと思うわ」

 ディアンヌは嘘を言った。今日だけでも三人の有力な騎士が斃れた。傭兵を含めて騎士は三〇人に満たず、敵は依然その三倍。来るとわかっているモンフェルメ軍を迎え撃つのは容易だろう。賛同したのは合理的な理由ではなかった。

「そのときはあたしも行く。連れてって」

 エクトールは無言でディアンヌをにらみつけた。ディアンヌもにらみ返す。

「今日、あたしは地上でも戦えることを証明した。あなたが言ったのよ」

「騎馬突撃は全然違う」

「槍なんか要らない。敵陣のまっただ中に飛び込んで剣と弓で暴れ回ってやる」

「お前が死んだら、ラングレ家はどうなるんだよ」

「どうせモンフェルメが陥落したら全部フランス貴族達のものになるんだもの」

「ディアンヌ!」

 エクトールは低い声で叫んだ。

「なんでそんなこと言うんだよ! 前はもっと町のことととか、考えてくれてたじゃないか!」

「……ええ、今だって考えてる。でも、どうしようもないじゃない。ヴォルケがいてくれれば、あたしだって、もっと町の役にたてた……」

「……そういうことか。結局、お前は竜のことしか考えてなかったんだな」

「違う! 竜は……あたしは、モンフェルメの騎士よ。主とモンフェルメの栄光のために戦う。でも、そのためにはヴォルケが必要だった!」

「だから、復讐するのか、その、異端審問官に」

 ディアンヌは反論しようとして息をのんだ。「……それは」

「クララが教えてくれたよ。心配してた……おれも心配してる」

「心配なんかしなくていい」

 荷馬車は通りを抜け、領主の館に面した広場に入って停まった。ディアンヌはエクトールの隣から滑り降りた。「ありがと。今夜は竜窟に戻るわ。じゃあ」

「ディアンヌ、お前も……ちょっとはお前も心配しろよ!」

 遅れて荷馬車を降りたエクトールは、その鋭い叫びとは逆に深くうなだれていた。

「少しは、少しは俺のことも心配してくれたっていいじゃないか……」

 雷にうたれたような気がして、ディアンヌは立ち止まった。

 それは、もう何年ぶりに聞くエクトールの弱音だったろう。幼い頃、気が弱く、身体を動かすのもてんでセンスのなかったエクトール。ディアンヌはそんな彼を散々引きずり回し、子分扱いして子供時代を過ごしたものだ。 

 待ってよ、ディアンヌ、おいてかないでよ、ディアンヌ。

 そんなに本気で叩かないでよ、痛いよ、ディアンヌ。

 でも、お互いに騎士として修練を始めた頃から、エクトールは変わった。大きくなり、思慮深くなり、いつしかディアンヌよりも強くなった。身体的にも精神的にも。そして、もうずっと長いこと、立場は逆転していた。自分はエクトールに甘え続けていたのだ。

「心配なんか……あんたのこと心配なんかしてやんない!」

 ディアンヌは、うなだれるエクトールをにらみつけた。

「跡取りでしょ? あんたの邦なんだから。自分でなんとかしなさいよ」

 呆然とした表情でエクトールが顔を上げる。やがてそこには、諦めたような笑いが浮かんだ。

「そうだな。お前なんかあてにした俺が間違いだった」

「エレーヌに会っていくわ」

 ディアンヌは、エクトールを置いて、領主の館の騎士の間に入ってゆく。

 騎士の間は、一昨日とは比べものにならないほどの凄惨な有様だった。香が焚かれていたが、血と膿の臭いは覆い隠しようもなかった。もはや負傷者と負傷者の間は人が一人通れるほどの隙間しかなく、血と汗と泥にまみれた兵士達が並ぶ様子を見て、ディアンヌは一瞬、気が遠くなりそうになった。相変わらず何人もの女達が立ち働き、看病を続けているが、その中にはエレーヌの姿はなかった。そのかわりディアンヌが見つけたのは真っ黒なチュニックを着たクララが、一人の兵士の上にしゃがみ込んで、何か話しかけている様子だった。

「ディアンヌ殿……」

 小さな声で呼ばれて声のする方を見ると、すぐ傍で寝ていた兵士だった。見覚えがある。

「あ、あなた……」

 城壁の戦いでディアンヌが運んだ傭兵だった。傭兵は、あのときはありがとう、と礼を言い、また同じこと言った。「師を、クララ師を呼んで欲しい」

「わかったわ」

 ディアンヌは兵士と話しているクララの傍に近づいた。最初、クララが何を話しているのかわからなかった。言葉の意味はわかるのだが、理解できないのだ。

「……私達の毎日の食べ物をお与えください。私達の罪をお許しください。私達を悪からお救いください……」

 良く聞けば、クララが唱えていたのは聖書の祈りの言葉だった。司教達の唱えるラテン語ではなくオック語だ。それですぐには気づかなかったのだ。クララは何度か同じ文句を繰り返したあと、じゃあ、もうこれで大丈夫ね、と言って兵士に笑いかけた。兵士も笑って目を閉じた。

 立ち上がったクララにディアンヌは声をかけようとして、いつになく謹厳でそれでいて穏やかな表情にとまどった。いや、戸惑ったのはそれが理由ではない、とわかってもいた。

「ああ、ディアンヌ、酷い戦いだったみたいね」

「……あっちで、あなたを呼んでる人がいるわ」

「ガスパールね。……今行くわ」

 ディアンヌはクララの後についてゆき、クララがガスパールと呼んだ傭兵に球慰礼を施すのをぼんやりと見ていた。

「よくがんばりました。騎士ガスパール。これであなたの全ての罪は赦されます。安心して主のおられる世界にお入りなさい」

「……そうなのか、完徳者クララ。俺が地上でやってきたことは全て無駄だったのか……」

「この世は全てニセモノの神が作ったもの。あなた一人がどうこうしたところで、それは変わらない。でも」

 クララは優しく微笑みかけた。

「あなたはこれまで自分が正しいと思うように生きてきて、ここに辿り着いた。であれば、その人生は素晴らしいものだったのではないかしら」

 ガスパールは声に出しては答えなかった。全身の力を集めて深く頷くと、ゆっくりと目を閉じた。クララはしばらくガスパールの枕元にかがみ込んでいたが、やがて身体を起こした。

「あたし達を捕まえて、フランス軍に突き出す?」

 いつもの悪戯っぽい表情を浮かべてクララがディアンヌに訊いた。「あたしは、まあ、それでもいいけどさ。前にも言ったけど、この谷に来た目的は果たした。火あぶりにされる前に、そうだね、あのくわせものの異端審問官と対決するのも面白いかもね」

「あなたの言っている意味がわからない」

「ディアンヌ、アルフォンスのところへ行って」

 クララが真面目な顔になって言った。

「彼はあたし達の仕事を手伝ってくれたけど、そのために、とても多くの真理を知ってしまった。あなたが彼を引き戻してくれるといいんだけど」

「どういうこと? あたし達がリヨンに行ってる間、一体アルフォンスは何をしていたの? あのおかしな擬竜を作っていただけじゃないっていうの?」

「それを直接彼に訊いてあげればよかったのよ」

 クララはそう言うと踵を返し、また別の負傷者の方に歩み去っていった。

 

 ディアンヌが竜窟に辿り着いた時には、日はほとんど暮れていたが、竜窟の奥の工房にはいくつものランプに煌々と照らされていた。工房にはアルフォンスが一人いて、作業用の大きな木の机に向かって本を読んでいた。

「何を読んでるの、アルフォンス」

「聖書」

 本から顔も上げずにアルフォンスは答えた。

「ついに正しい信者の道を見いだしたのね。こんなの嘘っぱちだって、散々言っていたくせに」

「本当のことだと思えば面白いよ」

 その言葉は皮肉には聞こえず、ディアンヌは背筋に冷たいものが走るのを感じた。なぜか理由はわからなかった。

 アルフォンスは聖書を閉じると顔を上げて言った。

「ディアンヌ、きみに頼みたいことがあるんだ」

「そう、あたしもよ。あなたの作った擬竜を使わせてほしいの」

 ディアンヌは機先を制して一気にまくしたてた。

 アルフォンスは、一瞬驚いたような表情を浮かべ、そして笑顔を見せた。

「そりゃどういう風のふきまわしだい? 散々ひどいこと言ってたくせに」

「ええ、ごめんなさい。でも、今、モンフェルメは大変なことになっているのに、あたしにはできることが何もない。あたしができることがあるなら、それは空を飛ぶことだけ」

「本当にそうなのかい? あの修道士を殺したいだけじゃないの?」

「……それは……そうかもしれない。でも、腐っても竜を無くしてもあたしはモンフェルメの騎士なの。それを忘れたわけじゃないわ」

「まあ、それは、どうでもいいことだけどさ」

 アルフォンスは立ち上がり、傍らにかけてあったランプを取った。

「きみが擬竜を認めてくれるというなら、僕はうれしい。あれは、君とヴォルケのために作ったものだからね。もっとも、せっかく君が認めてくれたとしても、どこまで君を満足させられるのかは、いささか心許ないけど」

 歩き出したアルフォンスを追ってディアンヌも竜窟に行く。

 かつてはヴォルケの居場所だったそこに、擬竜がその大きな黒い翼を広げていた。竜窟の入り口から入る弱々しい夕暮れの光は、その禍々しい姿をそのまま闇に溶かしてゆく香炉の炎のようだ。

「もう、飛べるの?」

「ああ。実は一度飛んでみた。まだ、調整がいるかもしれない。でも、ディアンヌならできるよ。やりかたを教える」

 ディアンヌは擬竜に近づき、大きな翼の下にぶら下がるようになっている鞍に跨ってみた。完全にむき出して、矢を射られたら守るものはない。ヴォルケの分厚い皮膚をまとった巨大な背中とは大違いだ。

「低い高度は飛べないわね」

「問題はそこじゃない。そもそも竜騎士の槍を積むなんてとんでもない。鎧を着たディアンヌを乗せるだけでいっぱいいっぱいだよ」

「そう」

 ディアンヌは苦笑する。「どうせ関係のないことだけどね」

「あと、飛んでいられる時間はものすごく短い」

「どれくらい?」

「そうだね、ここからフランス軍の陣地までを三回往復するぐらいかな」

「たったそれだけ?」

「もちろんわかると思うけど、風車が回転を止めても擬竜はゆっくり降下しながら飛び続ける。それから、速さもヴォルケの三分の一にもならない」

「それはなんとなくわかるわ」

 積める武器はせいぜい、弓と弩。防御はなし。低い高度をのんびり飛んでいたら良い的だ。高いところから速度をつけて降下、一撃して敵から離れながら上昇。問題は、弓矢だけでどうやってあの投石機を壊すのか。ヴォルケの爪なら、一発で引き倒してやれるのに……。

「一緒に考えようよ、ディアンヌ。これまでみたいにさ」

「アルフォンス……」

「非力な君をなんとかして一人前の竜騎士にするために、色々工夫するのはとても楽しかったよ。僕はきみの従者でいられて良かった、と思う」

「ひどい言われようね」

 それでも、ディアンヌは気分を害してはいなかった。

 アルフォンスとこんなに友好的な会話をしたのはずいぶん久しぶりな気がした。アルフォンスの言う通り、ディアンヌが正騎士になりたての頃は、その喜びの勢いで、ずっと二人でがんばってゆこうなんて誓ったものだ。

 ヴォルケが傷つき、そして消えてしまった今、その誓いを守ることは難しい。

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