異端審問官
来客を告げられたとき、フランス軍司令官ベランジェ・ドゥガイヤールはザクセン人の傭兵騎士トーマス・フォン・ルートヴィッヒと夕食の最中だった。廃材のテーブルに乗っているのはチーズに羊の干し肉にワイン。戦中とはいえ、カタルーニャとラングドックを結ぶ交易路にあり、チーズとワインは良いものが手に入る。しかしベランジェは飲みかけていたワインを置き、食べかすを服から払って立ち上がった。
「ここに呼びつけりゃいいだろ。異端審問官ごとにわざわざ食事を中断するこたぁねえ」
「教皇直々の派遣です。そうもいきません」
「何が教皇直々だ。もうすぐ戦も終わろうって頃にのこのこ現れやがって」
「異端審問官の仕事はむしろこれからじゃありませんか、騎士トーマス」
「……そりゃ道理だ」
トーマスは苦々しげに口元をゆがめた。パンの欠片をワインに浸して口に放り込むと、ベランジェの後に続く。
司令部ということにしている大きめの農家に向かう途中、火を絶やすなと命じてある小さな篝火の前で、案の条、トーマスがそれを指さす。
「前から気になっていたんだが、ありゃなんだ。おかしな小さな缶みたいなものを暖めてるみたいだが」
「あまり人に言いたくはありませんが、まじないですよ」
「ふん。異端審問官に見つかる前に隠しておいた方がいいんじゃねえか」
「そんな大したもんじゃありません。それに、あれは異端というより異教と言った方がいいかもしれない。我が家がウェールズに領地があった頃の名残です」
「異教の方がもっとやべえ」
ベランジェはそうは言ってみたものの、ドミニコ会修道士の知識を考えれば、これ見よがしに晒しておくのもどうかと思えた。兵士に命じて片付けさせる。
司令部ではいかにも粗末な褐色の僧服を着た修道士が待っていた。年の頃はまだ三〇を越えたくらいだろうか。教皇特使というには、やや威厳がたりないのではないか、とベランジェは人ごとながら心配になる。
「お待たせしました。司令官のベランジェ・ドゥガイヤールです」
「こちらこそ遅くなりました。ドミニコ会修道士ギルベール・ドゥフィションです」
俺は傭兵だ、とトーマスが自己紹介するのを聞きながら、ベランジェは、おや、と思った。異端審問官の言葉に微かな訛りを感じたからだ。
「失礼ですが、異端審問官殿、お生まれはどちらで?」
「おや、久々に言われましたね。生まれはイングランド、いやウェールズです。五才のときに奴隷として大陸に売られて来て以来、もとのウイリアム、いやウリエンという名前は使っていませんでしたが」
「そうですか、それは失礼。当家もかつてはウェールズに領地がありましてね。子供はもう島の言葉は忘れかけています」
「それは拙僧も同じです」
ギルベールは声には出さず、微笑を浮かべた。その様子は忌み嫌われる異端審問官にはふさわしくない、とベランジェは思った。しかし、同郷の血が流れていようと、ユーモアのセンスが残っていようと、ベランジェは異端審問官などという人種との長い会話を楽しむ気はさらさらなかった。
「さて、ギルベール師。戦況は我が軍にとってきわめて良好です。ミルポワ
ベランジェはギルベールの紺色の瞳をのぞき込むようにして言った。「師の使わされた『奇蹟』により、一騎を除いてすべて塵と化しました」
「それは重畳ですね、司令官殿。残りの一騎についてもご心配はいらないでしょう。あの竜はこの地で飛ぶことはない」
「そうですか」
ベランジェはギルベールの言葉の意味を完全には理解しかねたが、それはベランジェ自身の推測とも一致した。竜は明らかに不調を起こしていたし、騎士も落下して怪我をしたはずだ。なによりこの一月以上、まったく姿を見せていない。
「いずれ、三日以内に投石機による攻撃を始めます。長くてもあと一週間で向こうは降伏するでしょう。異端審問所は市内に設けられるとよいが、火刑場はこの辺りがよろしいかと。頃合いの場所をお申し付けください」
「異端が本当にいれば、の話だがな」
トーマスが、ぼそり、と呟くように言ったが、ギルベールに聞かせようとしているのは明らかだった。ベランジェは、もちろん、トーマスの非礼を咎める気はない。
「異端者はいるでしょう。なにしろ教皇猊下がいるとおっしゃるのだから」
「手厳しいですね、お二人とも」
ギルベールは、またも笑って、いともあっさりと言った。
「大丈夫です。教皇猊下は、異端などに興味はありません」
「ええ、知っています。だが、肝心の興味の対象を、ギルベール師のお弟子達は塵にしてしまった。差し出がましいことですが、教皇の御不興を買われるのでは?」
「拙僧が教皇から命じられたのは、あくまで異端の殲滅。フランス王に竜を捕まえろと言われたのはベランジェ閣下の方でありましょう?」
これでようやくベランジェにも合点がいった。フランス王が、その辺は引き受けると言ったのはそういうことだったのだ。はじめ、ベランジェはルイに感謝し、そして、そんな口約束などどうにもで反古にされると思い直して、また気分が滅入った。しかたがない。文字になっていないところは無視して、文字になっている部分だけを完璧に片付けるしかない。
会見を終えて、食事を再開させるべく司令部の農家を出たベランジェに、トーマスが言った。
「お前もつくづく運のねえやつだな」
「それはお互い様でしょう、トーマス殿」
「まったくだ」
トーマスは、白い歯を見せて笑い、呟くように付け加えた。
「お前さんの何倍もな」
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