竜が語ったこと

「やあ、ディアンヌ、これを見てくれよ」

 竜窟の奥にある上の工房に姿を現したディアンヌに対する、それがアルフォンスの最初の一言だった。

 おかえりでもない、無事でよかったでもない、つらい戦いについて無きごとを言うでもない。その顔は薄汚れていたが、黒い瞳は生気にあふれていた。そして、工房は、アルフォンスだけではなく、今や主人をなくした何人もの竜の従者が働いていた。

「いったい、何……これ」

 ディアンヌは、そしてクララとウイリアムも一緒に、アルフォンスを指さすものを見上げる。最初に連想したのは、巨大なコウモリの骸骨だった。左右に大きく広がった黒い細長い桁、そこからコウモリの爪のようにさらに細く黒い角材が櫛のように生えている。左側の骨には真っ黒な膜が張られていた。その大きさは翼を広げたヴォルケの三分の二ほどだったが、すでに狭い工房の室内一杯に広がっていた。翼の下にはこれもまた真っ黒なカゴのようなものがついていた。竜の従者達は、そのコウモリの骸骨の周りで、もう一枚の翼の膜を広げて縁の部分に穴をあけていたり、黒い桁材を熱した鏝のような物で切っていたりしている。

「何って、擬竜だよ。ああ、大分改良したから、前と変わってるかもしれないけどさ。どうしてもわからないところがあったんだけど、クララが教えてくれた本と『竜語』を使ったら、ヴォルケが教えてくれたんだ!」

「こんなものが……」

 ディアンヌはその疑竜に近づき、桁材に触った。それは指先でつまむほどの太さにもかかわらず、磨かれた大理石のように硬く、しかも鋼のように強靱だった。前はこれを木材で作っていたのだ。その時は強度も弱く、重くて、とても空を飛ぶようには思えなかったが、これは全然ちがう。ヴォルケより小さいといっても、ラングレ館の居間にはいるような大きさではない。にもかかわらず、ディアンヌが翼の桁の下から少し力を入れると、びっくりするほど軽々と持ち上がった。

 だが、その時のディアンヌには、擬竜の見事さもアルフォンスの喜びも伝わらなかった。ヴォルケを差し置いて擬竜を飛ばす話なんか聞きたくなかった。疲れ、苛立ち、期待、いろいろなものがない交ぜになった気持ちのまま、ディアンヌはアルフォンスを怒鳴りつけた。

「……こんなものが、ヴォルケの代わりになるわけないじゃないの!」

「ディアンヌ、違う。なにも僕は、これがヴォルケの代わりになるなんて思ってない。でも、ヴォルケが調子が悪いのは確かなんだし」

「私やクララは、旅の間中、ずっとヴォルケをどうしたらいいのか、考えてきたのよ? それを何よ。もうヴォルケなんてどうでもいいなんて言い方して……」

「そうじゃない!」

アルフォンスの声は、ディアンヌが初めて聞くほどに大きく、洞窟の壁に金属のように反響した。

「僕は君の従者なんだよ! 君とヴォルケのことだけを考えているんだ! 君が、あんな状態のヴォルケに無理をさせるかもしれないから、こうやって擬竜を作ろうとしているんだ。何度もも説明したじゃないか」

「あたしが病気のヴォルケを連れ出すなんてそんなことするわけないじゃない!」

 クララが二人の間に割って入る。

「ディアンヌ、帰って早々、そんな言い方はアルフォンスがかわいそうだわ。アルフォンスもディアンヌの気持ちを考えてあげて。あなただってヴォルケが心配なら、いきなり『ヴォルケの代わりにこれをどうぞ』って言われたら良い気分がしないのはわかるでしょ」

「……それは……そうだけど」

 アルフォンスは、そんな人の心の機微を察するようなことは得意ではない。それはディアンヌもわかっている。

「ヴォルケに会ってくるわ。……ああ、アルフォンス、一応、紹介する。こちらドミニコ会修道士のウイリアム」

「トートネスのウイリアムです。アルフォンス様。お話は騎士ディアンヌから伺っております」

 丁寧に挨拶したウイリアムに対し、アルフォンスは胡乱げな視線を向けて、初めまして、と言うだけ。聖職者がきらいなアルフォンスが修道士に対して取る態度としては、いつも通り、予想通りだったが、今日は苛立ちを抑えきれない。

「ウイリアム、ヴォルケを見せてあげる」

 ディアンヌは先に立ってヴォルケのいる大洞窟に歩き出した、ウイリアムが後をついてくるが、アルフォンスとクララはこない。ほっとけばいい。

「私は、実は竜を見るのは初めてなんですよ」

 ウイリアムが高揚を隠せない様子で言う。ディアンヌは、その言い方に奇妙な感じを受けたが、あまり気にしないで答えた。

「そうね、ていうか、竜はあんまり遠くに行きたがらないから、普通の人は一生に一度だって見ないわよ」

「ええ。ですが、育て方によっては、乗り手なしでもかなり遠くまで行くそうですよ」

 ディアンヌは、思わず立ち止まって、ウイリアムの顔を見た。「それってどういうこと? あなた、なんでそんなこと知ってるの?」

「まあ、いろいろ調べたからです」

 ウイリアムが浮かべた笑顔は少しだけ寂しそうだ。ディアンヌは一瞬だけ嫌な予感がしたが、思いついた考えがそれを覆い尽くしてしまった。

「でも、あなたは竜は異端だって……」

「そうは言ったのはあなたです。……おお、これか竜、いやヴォルケでしたけ?」

 ヴォルケはディアンヌが旅に出たときと変わらないように見えた。生気のない肌、翼は力なく床に広がり、首は胴体に埋めるようにして、目を閉じている。

「ヴォルケ、帰ってきたよぉ。具合はどう?」

 ディアンヌがそう呼びかけると、ヴォルケは薄目を開いて、頭をディアンヌに向けた。その表情からは再会の悦びも感じられなかったが、以前のように体調の悪さに苦しんでいるようにも見えなかった。現状に慣れてしまったようにも見えたが、もう覚悟ができているようにも見えて、背筋が寒くなった。

 竜は死んだら魂はどこへゆくのだろうか。

 いや、人間ではない竜に魂があるはずがない。ディアンヌは、次々と押し寄せる不安な考えを何度も首を振って頭から追い出そうとした。

「思ったよりはるかに巨大ですね。偉大、と言ってもいい」

 ウイリアムが嘆息とともに感想を述べた。ディアンヌは悪い気はしない。

「もっと近づいても大丈夫よ。あたしと一緒なら、触っても大丈夫だと思う」

「ありがとう。ここでいいですよ」

 そのとき、クララが工房の方から竜窟に入ってきた。ウイリアムの佇まいに目を向け、急に眉を顰めた。早足になってウィリアムの方に近づく。

「ウィリアム」

 鋭く呼びかけると、ウィリアムが硬直したように顔をクララに向けた。

「ディアンヌ、竜笛を貸してくれるかしら」

「ええ、でも」

 ディアンヌから竜笛を受け取ったクララは、それを口には運ばず、そのままウィリアムの前までゆくと、突きだした。

「あなたなら、あの呪文を知ってるんじゃなくて?」

「はい」

 ウィリアムは竜笛をとり、口にくわえた。心臓が三〇も打つ時間が過ぎて、ウィリアムは竜笛を口から外した。すると、ヴォルケがおもむろに頭を上げてウィリアムの方に視線をすえた。

 しかし、口を開いたはクララだった。

「ヴォルケ、わたしの言葉がわかる? 訊きたいことがあるの。」

「ちょっと、何」

 ディアンヌの言葉は、声変わり前の少年のような澄んだ声にかき消された。

〝わかります。ご質問をどうぞ〟

 ディアンヌは腰が抜けるほど驚いた。ヴォルケが人間の言葉をしゃべったのだ。あっけにとられてクララとヴォルケを交互に見比べた。クララは続けた。

「この世界が生まれる前には、別の世界があったの?」

〝はい。現在の世の中の成り立ちと、以前のそれとは大きな不連続があります〟

「あなたが生まれたのは前の世界なのね」

〝はい〟

 クララは、そこで数瞬の間を挟んだ。

「以前の世界は、罪や悪やあらゆる心配から解き放たれた世界だったのではなくて?」

〝そうではありません。制御しきれない多くの犯罪や事故がありました。現在の道徳規範のレベルはどのようなものか、私はくわしく知る機会がありませんが、文明の進度相応であると推定されます〟

「以前の世界は、なぜなくなったの?」

〝最上位の解錠コードが必要です〟

 クララがウイリアムを振り向くが、ウイリアムは首を横に振る。クララは、小さく息をついて、一語一語区切るようにして、もう一度問うた。

「以前の世界は、全ての人が主と一体化した、善なる世界ではなかったのね?」

〝そのような汎宇宙的な精神世界は実現されていませんでした〟

「さいごにひとつだけ教えて。主はどこにおわすの」

〝現在あなたがたが主と呼ぶ概念は〟

 ヴォルケの言葉が急に途切れた。ゆっくりまぶたを閉じ、もたげていた頭が力なく床に落ちた。すぐに身体の崩壊が始まった。体中の皮膚にヒビがはいり、白い湯気のような気体が立ち上った。翼に張られていた膜がひび割れて粉々になり、その翼も立ち枯れの樹の幹のようにひからびていった。やがてヴォルケが居た場所には、もはや竜の形の見分けもつかない灰の山があるだけとなった。

 ディアンヌはそのできごとを、惚けたように見送った。二本の脚は呪いをうけたように硬直し、ただの半歩も踏み出すことはできなかった。視界の中でクララががっくりと頭を垂れるのが見えた。突然ディアンヌは理解した。ウイリアムを振り向くと、彼は口から竜笛を取り、腰をかがめて、床に置いた。

「もうしわけありません、騎士ディアンヌ」

 身体を起こしたウイリアムは低い声で言った。「竜は滅ぼされなくてはならない。あなたのヴォルケも例外ではないのです」

「だましたわね」

 ディアンヌは腰の剣を抜き放った。一歩を踏み出すと、足は軽々と動き、ディアンヌの身体をウイリアムに一直線で走らせた。

 しかし、驚いたことにウイリアムは、ディアンヌの剣から逃れるように竜窟の入り口にむけて走りだし、そのまま竜窟の外に身を投げ出したのだ。竜窟の端から下をのぞき込むと、ウイリアムは険しい岩肌を、まるで兎のように身軽に駆け下りてゆくところだった。

「……ディアンヌ」

 後からかけられたのはアルフォンスの声だった。

 しかし、ディアンヌは振り向かず、もう一度、ウイリアムの後姿にむけて叫んだ。

「絶対に復讐してやる! 煉獄まで追いつめてやる!」

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