第四章 騎士ディアンヌは公会議に出席する

午前の部

 リヨンは大きな町だった。ローヌとソーヌという二つの大きな河の合流地点にあり、ソーヌ河の両岸に街の中心部が広がっていた。「会議」の会場となる司教座教会はソーヌ西岸の緩やかな斜面にあった。モンフェルメの大聖堂などとは比べるべくもない大伽藍だが、トロサの大聖堂と比べてそれほど立派とは思えない。ナルボンヌやモンペリエといった大都市を通りすがりとはいえ見てきたことで、さしもの田舎娘の目も肥えてしまったのかもしれない。

 何より、このリヨンには物見遊山に来ているのではない。

 ディアンヌはクララと一緒に町の中心部にある上等な宿屋に落ち着いた。ウイリアムは町に着いたところまでは一緒だったが、修道院に宿を求めるという。

 だいたいが、この二人、異端の聖職者と学究派の修道士は、ディアンヌが課せられた深刻な任務について、好奇心以外の、たとえば同情とか、心情を見せようとはしなかった。

「公会議(コンキリウム・エクメニカム)ですね」

 ウイリアムは重々しく宣言した。

「イノケンティウス教皇がこの昨年末に招集したものです。六月に始まって、まだ終わっていなかったとは」

「公会議って、何?」

「正統の教義を決める聖職者の会議です。何が正統で何が異端であるかについて神学的な議論を行います。また、十字軍の派遣の決定なども重要な課題ですね」

「じゃあ、ここでお願いすれば、モンフェルメへの十字軍を取りやめてもらえるってこと?」

「いや、絶対それはありえない」

 クララが全力で否定し、

「残念ながら、難しいですね」

 ウイリアムは心から申し訳なさそうに頭を振った。

「今回の公会議の主題は神聖ローマ皇帝の弾劾にあります。確かに聖地への次なる十字軍の呼びかけや、モンゴル帝国への使者の派遣も議論されたようですが、ついでのようなものです」

 政治情勢に詳しいとは言えないディアンヌでも、教皇と皇帝が何世代にもわたって争っているということくらいは知っている。しかし、考えてみれば、その理由を知らない。

「ねえ、そもそも教皇と皇帝は何を争っているの?」

「『カエサルのものはカエサルに。神のものは神に』」

 ウイリアムは平易なフランス語(オイル語)で語り、クララは、

「マタイね。ルカだったっけ?」と首をかしげた。

「両方ですよ。マルコの福音書にも同じ言葉があります」

「あたしだって訊いたことあるよ。税金をちゃんと納めなさいって話でしょ?」

「違います。世俗の支配者に対する忠誠と、人間の心を導く神に対する忠誠は別のものだ、という意味です」

「だったら、そういうふうに棲み分ければいいのにね」

「教皇と皇帝は、聖職叙任権を巡って争ってきました。つまり、昔からある教会や修道院などのトップは、世俗の領主が任命することが多く、これが教会の俗化や腐敗に繋がっていると考えられていました。そこで叙任権が教会にあると教皇が主張しはじめたのが、今から二〇〇年ほど前のことです」

「教会の司教を教皇様が任命するのは当然だと思うけど……」

 ディアンヌが思ったことを言うと、わかってないねえ、クララが舌打ちした。

「教会の持ち物は聖堂とロウソクだけじゃないんだよディアンヌ。たくさんの土地と、そこを耕すたくさんの農民が教会に属しているの。あっちの村は神のもので、こっちの村はカエサルのものって、おかしいでしょ? だいたい神様が、なんでそんなにたくさんの土地や財産を必要とするの?」

「クララ様のおっしゃりようはもっともだと思います。ですが、四世紀のローマ皇帝コンスタンティヌスが、その半分を当時のローマ司教に、つまり今の教皇ですが、寄進したという文書が残っていて、これがヨーロッパの土地は基本的にすべてローマ教皇のものであるという根拠になっているのです」

「その時点でカエサルのものはカエサルになってないわけじゃん」

「拙僧もそう思います」 

 ウイリアムはさらりと言ってのけた。「いずれ、神聖ローマ皇帝をはじめとする世俗の諸侯は、教皇の力を完全に無視するわけにはいかないのです。教皇に破門されれば、領民や家来たちからの信頼は傷付きます。ですが、今の皇帝フレデリクスは違う」

「フレデリクス……」

「皇帝は破門されても、それを解いてもらうために謝罪しません。彼は、教皇を中心とした教会のありかたそのものに対して、冷めた態度をとっているように見えます。それが教皇にとっては気にくわないのではないでしょうか」

「ねえ、ちょと待って! ひょっとして、あたしが昨日会ったフェデリコっておっさんは……」

 クララとウィリアムはそろって不思議そうな表情で顔を見合わせた。ウイリアムが慇懃な口調で宣言した。

「気づいていると思っていましたが、そのフェデリコなる人物は神聖ローマ皇帝にしてシチリア王、エルサレム王、フレデリクス二世に間違いないでしょう」

「ええ!」

「ディアンヌ、あんたは皇帝の側になって教皇と戦うわけだ。教皇にお願いなんてしてる場合じゃないやね。うーん、ちょっと楽しみだなあ。見てみたいんだけどなあ」

「そおんな、冗談じゃないわよ! ありえない!」

「皇帝はアルプスを越えたイタリア側、トリノにいると聞いていましたが、こんな近くまで来ているとは思いませんでした。何をたくらんでいるんでしょうね」


 聖職者の会議とはいっても、ローランのように世俗の領主やその代理人の出席も求められた。大司教クラスの聖職者と、伯爵・副伯爵クラスの有力な世俗の領主まであわせて八〇人近い出席者がいる。

 リヨンに到着して早々、ディアンヌはフェデリコの代理人と引き会わされた。

「いや、一〇日前に開かれた会議にはもっとぎょうさん人がおったんよ。その後。一ヶ月の間休会になると決まって、みんな国に帰ってもうてん。それが、教皇がいきなり再開を決めよってな。全くやっとられんわ」

 タッデオ・デセッサというのが、それまでフェデリコの代理人として会議で教皇派と論陣を張ってきた壮年の学僧だった。体つきは貧相で、白髪まじりの頭髪も乱れがちだが、表情や挙措はエネルギッシュで、ディアンヌは不思議に惹かれるものを感じた。

「皇帝の代理人だって、ああ、拙僧は委任状をもっとらんから代理人やないんよ。……こっちに向かってるはずなんや。もうアルプスは越えたと思うけど、さすがに間に合わんがな」

「あの、でも、フェデリコ……皇帝はすぐ隣の町にいますよ」

「え?」

 タッデオは目を丸くした。ディアンヌがフェデリコに預かってきた手紙を遅ればせながら渡すと、乱暴に封を破って広げる。素早く目を走らせ、その口から大きな長いため息が漏れる。「……やっとられんがな」

 ディアンヌは気づいた。全然違うけど、タッデオはアルフォンスに似てるのだ。アルフォンスがこの先何十年か人生を積み上げたら、こんな感じになるのかもしれない。

 もう一度手紙に目を通し、タッデオは決心がついたのか、もはや諦めたのか、微かな笑みを浮かべてディアンヌに向き直った。

「あんたが頼りや。がんばりや」


 リヨンの聖堂や街並みにはさして感銘を受けなかったディアンヌだったが、その聖堂で開催された公会議そのものには十分に面食らった。

 リヨンの聖堂は他の聖堂と同じように、西に面した入り口から入ると身廊から交叉部を経て最奥の内陣に向かって細長い長方形になっている。南北に張り出した袖廊は小さくて控えめだ。普段であれば、身廊に内陣を向いて並べられている参拝者のための長いすが、南の側廊部分から身廊に大きくはみ出し、北側に向いてぎっしりと隙間無く並べ替えられている。そして、北の側廊には二十席ほどの豪奢な椅子が並んだ長大なひな壇が設けられ、南側に並んだ椅子に座る列席者に向き合う、というよりは睥睨するようになっていた。

 人が少ないというが、金銀に縁取られた赤や黒の僧衣に身を包んだ聖職者達は、居並ぶ様を見ているだけで胃が痛くなりそうだ。世俗の領主達の姿も引けはとらない。煌々と灯されたシャンデリア(ろうそく)の光を、服や剣の鞘にちりばめられた宝石が反射し、目がくらんだ。もちろん、ディアンヌもそれなりの装いをしている。フェデリコとの面会の時には洗練をこころがけたが、今回はクララからも装飾品を借りてできるだけ豪華にした。会議場となる身廊の座席は、端の方を割り当てられたが、実は列席者の中で一番注目を集めていたのが自分だったことに気づいたのは会議が終わったあとだった。

「副伯には詫びの言葉もない」

 隣の席に座っていた、疲れた印象の大男が前を向いたまま呟いた。

「今は耐えるべきだ。副伯は分かっているだろうが」

「ええと……」もちろんディアンヌに面識はないが、ディアンヌが何者かについては聞き知っているのだろう。「失礼ですが」

 男は、今や懐かしいオック語で答えた。

「私はレーモン。トロサの伯爵だ。今のところはな」

 レーモン七世の名はもちろんディアンヌも知っていた。かつては、暴虐な悪代官シモン・ドゥモンフォールと刃を交え、南フランスの自治と誇りを守るため、フランス王に抵抗を続けるヒーローだった。フランス王ルイの軍門に下り、その娘をめとったとはいえ、今もフランス王に唯々諾々としているわけではない。モンフェルメはレーモンをはじめとするラングドックの諸侯と距離を置いているとはいえ、心情的にはフランス王よりはレーモンに近い。ディアンヌは恐縮して頭を垂れた。

「そ、そんな恐れ多いです、レーモン閣下」

「騎士ディアンヌ、卿がなぜここにいるのか興味深いが、それはこれから分かるのかな?」

 レーモンへの答えを探しているうちに、列席者の間から静かなざわめきが起き、壇上に座るべき人々が続々と身廊に入ってきた。

 ディアンヌの目を釘付けにしたのは、その中でもひときわ豪奢な帽子を被り、鮮やかな紅のケープをまとった人物の姿だった。背は高くないが姿勢は良く、想像していたよりもずっと若々しい。謹厳な表情からは知性とまじめさが感じられた。多くの人達が語るような狡猾さとか,問答無用で異端を叩きつぶそうとする狂気のようなものは、ディアンヌには窺うことができなかった。いつの日か、この目でローマ教皇を見ることはあるかもしれない、だがそれはずっと遠くから、人垣越しに背伸びしながら見ることになるだろう。そんな想像に比べると、教皇イノケンティウスの距離はずっと近い。

 だが、会議がはじまると、教皇自身はほとんど何も発言しないにもかかわらず、ディアンヌの教皇に対する印象はたちどころに悪くなった。聞いていたとおり、議題は最初から皇帝フレデリクスに対する糾弾だった。

「去る年、モンセギュールに立てこもった異端者どもから皇帝が援助の要請を受けた、という確たる証拠がある。これをもってしても皇帝が異端に深く関わっていたことは疑いない」

カスティーリャ訛りのラテン語を話す難しげな顔の審問官(コンポステーラの司教だ、とレーモンが教えてくれた)が、声高に罪状を読み上げると、

「皇帝のもとにそのような要請は届いていない。ないものの証拠とはどのようなものか」

 と、意外にも淡々とした口調でタッデオが反論する。

「証拠はここにある」

 と言って審問官が取り出したのは封蠟の切られた手紙だった。「偽りと思われる方は、あとでごらんになればよかろう。ここにはモンセギュールに立て篭もった異端の聖職者から皇帝にあてた援助嘆願の文言がある」

 一瞬、参列者にざわめきが走る。が、タッデオは、そのざわめきが治まってからわざとらしく大きなため息をついた。

「なるほど、それは確かな証拠。その手紙とやらが貴僧の手にあるというのは、それが皇帝に届いていない、ということのな」

 参列者は再びざわめいたが、それは幸いにも審問官の狼狽を隠してしまった。審問官よりも参列者の方が失望しているようにディアンヌには思えた。

「皇帝の異端への助力は他にもある。現在、フランス王が包囲するモンフェルメの異端者からも援助の要請を受けているはず。これに否と答えられるか?」

 参列者の中で一番緊張したのがディアンヌであったことは間違いない。

「仮に異端者からの要請があったとしても、皇帝がそれに応じることは断じてない」

 タッデオの声の調子が上がり、ディアンヌはそれを聞いてさらに鼓動が高まった。

「皇帝が異端を快く思っていないことは、諸卿もよくご存じのこと。教皇グレゴリオ九世の命を受け、イタリア南部の異端者を七百人あまりを見つけ出し、ことごとく火あぶりにしたことをお忘れではなかろう。さらにラングドックの異端はこの世のすべてを悪と断じ、虚無と誹り、良き者達の営みを甲斐無きものとして嗤う。皇帝フレデリクスが、西方世界の平和と繁栄と知性の高まりをなにより望む皇帝が、このような思想に共感を示すとお思いか」

 モンフェルメへの援軍の約束を反故にされることを怖れていたディアンヌだったが、タッデオの口から語られたフェデリコの思想は、晴天の霹靂だった。

 クララの語る世界の秘密はディアンヌの気持ちを大きくゆさぶった。聖書に書かれていることが真実ならば、クララの語る、この世が「ニセモノの神」に作られたものだということも真実に思えた。

 だが、畑を耕し、敵を退け、恋をして子供を産み育てる人の営みは、虚無なのだろうか。田畑が十字軍に荒らされ、家族が敵の剣に殺されるからといって、すべてを諦めてしまっていいのだろうか。フェデリコは、コンスタンチノープルの聖職者とも語り、サラセンの王とも意を交わすという。そんな彼がそれほどまで異端を否定する理由、いや方法はなんなのだろうか。

 機会があるならもう一度、フェデリコと話をしてみたい、ディアンヌの一人思考がどんどん深みにはまっているうちに、審問官とタッデオの論争は進み続けていたのだ。

「……その問いに対して答えうる最適な者が本日、列席している」

 タッデオの強い視線が、ぼおっとしていたディアンヌを射た。

「え、あたし?」

 レーモンにも促されて、はじかれたように席を立つ。

 それはいささか落ち着きのない挙措だったが、笑う者は誰もいなかった。男装とはいえ若い女性が会議に出席していたことに気づいていなかった者もいたのだろう。驚きの声とざわめきが巻きおこった。だが、それはディアンヌも予想していたので、怯んだりはしない。

「何者や」

 男にしては甲高い声が身廊に響き渡り、一気にざわめきが静まりかえった。

立ち上がっていたディアンヌから、その声の主はよく見えた。教皇イノケンティウスである。

 いつの日かと考えたことはあった。そんなことはあるまいと思いながら、

「モンフェルメの竜騎士、ディアンヌ・ラングレと申します。モンフェルメ副伯ローラン・ドゥコルヴェの名代としてまかりこしました」

「モンフェルメの副伯は破門に処したはずや。なぜ代理人がここにおる」

「会議への招聘をうけたからです。破門の知らせはいただいていません」

 教皇は答えず、隣の僧侶と小声で話している。やがて、話がまとまったらしく、その隣の僧侶がおごそかに言った。

「モンフェルメの騎士ディアンヌの列席を認める」

「ありがとうございます」

 とは言ったものの、実はうれしくなんともない。審問官は、その間じっと黙ってディアンヌの方を見ていたが、自分の番がふたたび回ってきたことを知ると、背筋を伸ばした。

「ではもうもう一度述べよう。神聖ローマ皇帝は竜の骨を所持している。竜は古来より人間に大いなる害をなすものであり、悪魔の作ったものである。そのようなものを所持してはばからない皇帝には大いなる異端の疑いがある」

「竜は異端ではありません!」

 ディアンヌは叫んだ。審問官の決めつけるような口調には心底腹がたったし、何より、筋が通っていないように思えた。「人間じゃない動物が異端とか異端じゃないとかおかしいじゃないですか。犬や猫は主の教えを理解できないから、異端にも正統にもなりようがありません。これまで異端だと自ら解告した犬がいたのでしょうか?」

 わずかに失笑が漏れ聞こえたのは、ディアンヌの質問の内容ではなく、彼女の話す田舎じみたラテン語が単純におかしかったからだろう。ディアンヌは何の反論もないうちから恥じ入り、うつむき加減になった。

「竜は犬や猫などに比べるとずっと賢いと言われている。竜は十分に主を感じ、その教えを理解できるのにもかかわらず、そうしていない」

「竜が主を認識しているとは思いません。竜は祈りませんし、祈りが必要でもありません」

「それは竜が」

「竜が異端やとは誰も言うとらん。皇帝が異端や言うとる」

 教皇の声が審問官を遮った。審問官は咳払いして、ディアンヌに射貫くような視線を投げる。ディアンヌは出だして躓いたことを知ったが、やられっぱなしというわけではなかった。

「竜は悪魔の使いとおっしゃいますが、竜が他のけものと何が違うのでしょう。竜もまた七日のうちに主がつくりたもうたものではありませんか」

「神が竜を創ったとは聖書のどこにも書かれていない」

「すべての獣たちが作られた状況が聖書に書かれているわけではありません」

「ノアの方舟に乗せられた動物が神のつくられたものの全てである。その中に竜がいただろうか? 毒の息を吐く竜をノアが御しで方舟に乗せたというなら、必ずやそれが記録に残っておろう? ましてそのような竜をふたたび外に解き放つか?」

 ほんのわずかに失笑が聞こえたが、それは、唇をかみしめたディアンヌに対するものだったろう。審問官の話は筋が通っていないが、それをうまく指摘できない。

「では、竜を誰が創ったというのですか? 最初の七日間で創造されなかったとしても、竜がこの世にいることは事実です。主でなければ誰が竜を創れるのでしょうか?」

「主が世界を七日のうちに創らなかったという考えは異端である」

「竜は誰が創ったのでしょうか?」 

 ディアンヌは繰り返した。竜は悪魔が創ったのだとすれば、それの方がよっぽど異端だ、思った。それは、ニセモノの神が世界を創ったというクララの考えに近いのではないか。

 審問官はすぐにはディアンヌに言い返さなかった。再び口を開きかけたとき、教皇が口を挟まなければ、どのようにディアンヌの非をならそうとしたのか、わからないままだった。

「竜を創ったのは、主に相違ない」

 一座はざわついた。審問官の主張と教皇の主張がずれているのだ。「主のつくりたもうた人でも悪魔の誘いによって罪をなす。竜も同じであろう。創造されたときから悪であったわけではなくとも、その後に悪魔によって人に害をなすものとなったんや」

「竜は人間に害をなしたりはしません」

「それは偽りである。預言者ダニエルが倒したのはバビロンの異端者があがめていた竜であった。聖ゲオルギウスは生け贄をもとめるカッパドキアの悪竜を倒し、彼の地を主のものとされた。教皇シルヴェステルは洞窟に竜を封印し、人々を疫病から救った。聖女マグリットは悪しき竜に飲み込まれたが、その腹を破って脱出し、竜を退治した」

 そんなものは、子供に聞かせるための作り話ではないか、その言葉をディアンヌはあやうく飲み込んだ。聖者を批判することは異端の疑いをかけられかねない。リヨンに来るまでの道すがら、クララとウイリアムが授けてくれた論法やら注意事項は、全部が全部頭から消えてしまったわけではなさそうだった。

「かつての竜はどうか知りません。しかし、モンフェルメの竜は人を無闇に襲ったりしません」

「ではどうやって竜をもって敵を倒す?」

「竜は竜騎士が操るのです。それに竜騎士がどのように命じても、モンフェルメや罪なき人々を害する者達以外には、竜は攻撃しません」

「そのような話は真実とは認められない。真実と主張するならは証拠を見せるがよい」

「襲われた人がいないというのが何よりの証拠です。では、モンフェルメに害をなそうとしないのに、竜に襲われたという人をただの一人でもここにお連れください」

「その必要はない。なぜなら過ぐる日、フランス王がモンフェルメの異端の討伐に向かわせた何十人という十字軍の兵士や騎士が、モンフェルメの竜によって倒されたからだ」

 身廊にいた高貴な人々は、その地位に見合わぬ動揺を示した。教皇の御前というのに、卑しい民のように隣り同士で私語をかわし、喧噪というほどまでにざわついた。審問官はひときわ大きな声を出した。

「そのことをよもや知らぬとは言うまいな、モンフェルメの竜騎士よ」

 ディアンヌは即座に反論できず、それがさらなる攻撃を招いた。

「十字軍はモンフェルメの異端を誹るためにフランス王から使わされた正義の軍である。それに牙を剥くのが悪の所行であってなんであろう?」

「竜が守るのは異端ではありません。竜はモンフェルメを守るのです」

 モンフェルメに異端などいない、とはディアンヌは言えなかった。数は少ないが異端はモンフェルメにいる。だが、それを探し出して火あぶりのするのはおかしい、そう言いたかった。だが、そんな主張が通る場所でないことくらい、ディアンヌもわかっていた。

「モンフェルメに異端がいてもいなくても、竜はモンフェルメに住む正統な教えに帰依する私達を守るために戦います。仮にモンフェルメに異端がいたとしても、それを理由に竜は私達を守ることをやめたりしません」

「竜はすみかを守るためにしか戦わない、そう言うか?」

「その通りです。竜はモンフェルメから遠く離れることはできません。三〇リューほどです。だから、守るための戦いしかできないのです」

 審問官は返答するかわりに空を仰いだ。またも一同にざわめきが広がった。ディアンヌはこの場での勝利を確信して、心の中でほくそえんだが、それを表情に表さないように務めた。そして、またも審問官ではなく、教皇が口を開いた。だが、その口調は、奇妙に優しかった。

「残念ながら、そなたの言うことはまちごうとる。竜はその地を遠く離れて他国を攻めることができるんや」

「そんな馬鹿な!」思わずディアンヌはオック語で叫んだ。「だってヴォルケは決して……」

 そこでディアンヌは他の列席者の様子に気づいた。それまで人々はどちらかと言えばディアンヌに好意的な視線を注いでいた。審問官が口ごもるたびに、やったな、というような視線を投げてくる世俗の諸侯もいた。しかし、今度は違った。ディアンヌの主張は賛同をえられていない。せいぜい哀れむような雰囲気だ。隣席のレーモンが押し殺した声で教えてくれた。

「去年だ。ウェールズの竜がロンドンを襲った」

「え」

 それは初めて耳にすることだった。ローランやモンフェルメの他の騎士達は知っていて、自分だけが知らなかったのだろうか。そもそもウェールズの竜は四年前の戦いでイングランドの軍に斃されたのではなかったか。

「モンフェルメの娘騎士よ。そなたは嘘をつこうとしたわけではない。知らなかっただけのことや。竜も同じや。竜が悪魔に操られ罪を犯したとすれば、償えばええ。主は寛容や」

 離れて席に座っていたタッデオが訝しげな視線を教皇に向けるのが見えた。他の列席者も、教皇の突然の態度の変化に毒気を抜かれたように見えた。教皇はさらに付け加えた。

「皇帝が竜の骨を保持していた件については、異端の訴件から外してもええやろ」

 審問官は表向き表情をかえず、深々と頭を下げた。そして、新たに訴状を読み上げはじめ、タッデオは荒々しいため息をついた。

 レーモンは皮肉っぽいともとれる笑みを浮かべてディアンヌにささやいた。

「ごくろうだったな。よくやったよ」

「うまくいったとは思えません。なんか、全然、だめでした」

「そうでもないさ。胸を張って副伯に復命するがいい」

 それが慰めだということは、教皇が薄く浮かべた満足気な笑みを見れば明らかだった。

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