あらたな使命

「ディアンヌ、気がついたかい」

 静かなその声を耳にして、ようやく自分が目覚めていることに気がついた。自分の意識はゆっくりと時間をかけて深い沼の底から浮かび上がってきたようだった。それでも、しばらくの間、何の装飾もない、天井板の木目をながめていた。アルフォンスに声をかけられるまで。

 見覚えのない、粗末な木のベッドと机があるだけの小さな部屋だ。石の壁の小さな窓からは、弱々しい光が入り込んでいる。その机の脇の椅子に、アルフォンスが腰掛けている。

「……町はどうなったの」

「フランス軍は城壁の前に陣を敷いた。まだ戦闘ははじまっていない。クララを呼んでくるよ」

 そう言ってアルフォンスが腰を上げた。

 クララ? 誰だろう。

「……ちょっと待って、アルフォンス! ヴォルケは? ヴォルケはどうしたの?」

「竜窟に戻ったよ。まだ生きてる」

 すがりつくディアンヌの視線を振り切って、アルフォンスは部屋を出て行った。

 少しずつ記憶をたどりながら考える。たぶん、ここは南の谷のヴァレドヴォン修道院の来客用の宿坊だろう。石壁に穿たれた小さな窓から見える周囲の景色は、町中のものではない。

 ヴォルケや他の竜達が、修道士達の放った光にやられておかしくなったのは間違いない。ヴォルケの腹帯と装具を切り離して、峠に落下したところまでは記憶がある。おそらく騎士団が助けてくれて、ここまで運んでくれたのだろうが、どうして町の中ではなくて外の修道院などに運びこんだのだろう。騎士団も、ひょっとしてフランス軍と戦って敗れたのだろうか。

 定まらない思考を何度か回しているうち、扉が開いて水桶とお盆を持った黒髪の女性が入ってきた。見覚えはある。

「よかった。目が覚めたのね」

「あなた……前に宿屋にいた……傭兵部隊の」

「クララよ。覚えてくれてなかったの? 身体起こせる?」

 クララはディアンヌの背中に腕を入れて、上半身をベッドの上に起こした。クララは水に浸した手ぬぐいで、ディアンヌの顔を拭き始めた。他人に身体を触られることに最初こそ抵抗はあったものの、それに慣れるとむしろ気持ちよくなってきた。手ぬぐいからは、薬草の良い香りがする。傍らの盆の上にはワインの入った木の椀、チーズと一切れのパン。勧められるままに口にするうち、段々と身体が生気を取り戻すのがわかる。

「落ち方がよかったんでしょうね。あと鎧を着ていたのもよかった。怪我もないし、骨が折れているようにも見えない。左手も動かしてみて……大丈夫ね」

「あなた、外科医なの?」

「まさか。でも仲間には外科医もいたから、少しは覚えたの。うーん……さすが騎士というだけあって立派な筋肉がついているわ。……でもとてもきれい。……もっとも、このへんはまだまだ発展途上かな」

「ち、ちょっと、やめて!」

「下は自分で拭く? まあ、いいけどさ」

 クララは一度桶の水で手ぬぐいを洗って絞り、ディアンヌの枕もとにおいた。それで身体の残りの部分をふかせてもらい、渡された洗いたての綿の下着に首と腕を通す。これで少し落ち着く。

「クララ、なんであなたがここにいるの?」

「ご挨拶ね。あなたを助けたのはあたし達の部隊よ」

「え? モンフェルメの騎士団が助けてくれたんじゃないの?」

「……考えてごらんよ。ほかの竜達がどんな最期だったのか」

「……あ」

 荷車の上の修道士の放った光で粉々になったフィリップ達の竜。その情景を見ていた者がいたなら、あまりの禍々しさに思ったことだろう。竜は呪われた、と。あるいは、最初から呪われていたのではないか、と。

「あの王子様、ディアンヌを助けようとしたらしいよ。とはいえ、見習い騎士じゃね」

「あたしが町に運び込まれなかったのも、呪いがうつると思われたから?」

 ディアンヌは心の奥でかすかに疼いた気持ちを覆い隠すように訊いた。

「たぶんね。その点、ここの院長は話しがわかって助かる」

「何であたしを助けてくれたの」

「そりゃ傭兵だもの。正規隊のやりたがらないことをやってこそ価値があるでしょ。それでね、王子様があたしとアルフォンスに教えてくれたんだ。エレーヌ? あんたの妹も来るって言ったんだけど」

 来ないでくれてよかった、とディアンヌは心から思う。ヴァレドヴォン修道院は表向きモンフェルメとは独立だが、万が一フランス軍が屁理屈をつけて攻めて来ないとはいえない。

「モンフェルメは門を閉ざした。完全に篭城戦の構えね。フランス軍は少しずつ兵力を増強してる。投石機を作るための木の伐採も始まっている。いろいろ苦労してるっぽいけど」

「投石機か。竜がいなければ、投石機を破壊する方法はもうないわ」

「うーん、まあ、そうかもしれないけど。……ねえ、あなたの竜を見たいな」

「え? でも」

「アルフォンス、あの子すごい頭いいわね。その上、あなたに懐いている。あなたの許可がなければ絶対に見せないって言うのよ」

「あ、あたりまえでしょっ。アルフォンスはあたしの従者なんだから」

 アルフォンスは、そんなことを言ってくれたんだ。その気持ちに感謝。

「わかった。ヴォルケを見せてあげる」

 そう言いながら、ディアンヌはベッドから降りた。実際、ヴォルケがどんな様子なのか何よりも気になった。


 ヴォルケの竜窟には、ラングレ館の裏手の岩小屋以外にも、何本かの山道が繋がっている。ヴァレドヴァン修道院の裏手から伸びる道を、息の弾むくらい登ったところにも木々の間に巧妙に隠された小さな洞窟が口を開いており、そこから竜窟の奥に出られる。

 竜窟の奥は、ヴォルケのいる本窟とは比べものにならないが、広々とした空間になっていて、工房も兼ねている。姿の見えなかったアルフォンスは先に来ていたらしい。主を失った他の竜騎士の従者達も何人か来ていて、ヴォルケの体調を良くする方法を調べてくれているようだ。彼らはディアンヌの姿を見ると、生還を祝福してくれた。

 一方、クララはそんな工房の様子を見て、惚けたように立ち尽くしていた。

「何、ここ」

「何って、工房よ。だってほら、竜の鎧とか装具とか、とても大きいから、普通の鍛冶屋さんじゃ対応できないの」

「そういう話じゃない。こんな形の工具とか、見たことない。それにこれ」

 ディアンヌは、ちょうどアルフォンスが広げていた本を取り上げた。アルフォンスも驚いた様子で、非難するのを忘れて目を丸くしている。クララが迫る。

「この本読めるの、アルフォンス?」

「全部はわからない。図とか、あと数字とかならなんとか」

「ここにはこんな本が他にもあるの?」

「あるよ。ここにも、他の竜窟にも」

 ディアンヌは、アルフォンスが気圧されているのを見て、一言いわないではいられない。

「ちょっとクララ、文字ラテンを読めるくらいでそんなに大騒ぎしなくてもいいじゃない」

 クララは明らかに嘲笑の混じった笑みをディアンヌに向けた。

「これがラテン語のわけないでしょ」

 一方、アルフォンスはクララから本を取り戻すと、また作業に戻ってしまう。

「クララをヴォルケに会わせてくるね」

 と、一応ディアンヌが言うと、黙って立ち上がり、めんどくさそうに後からついてくる。


 いつもは竜窟の真ん中近く、入り口から吹き込む風の流れから少し離れたところに座っているヴォルケだったが、今は片方の壁にもたれかかるようにしてうずくまっている。目の前には大きな飼い葉桶が置かれているが、中の餌は減っているように見えない。艶のある銀灰色だった肌は枯れ草色になってひび割れており、体毛もあちこち抜け落ちていた。翼はだらしなく広がったままで、皮膜も油紙のようにひび割れている。頭は身体に埋められていて、目も閉ざされていたが、ディアンヌが近づくと、ほんの少しだけ目を開いた。

「ヴォルケ、ヴォルケ!」

 ディアンヌが駆けよると、ヴォルケは頭をディアンヌのそばまで下ろそうと首を持ち上げるものの、そんな些細な動作さえ難儀らしく、また目を閉ざしてしまう。肩を落として立ちすくむディアンヌの隣で、クララが無邪気に歓声を上げた。

「うわあすごい! 思っていたよりずっと大きい。翼ってあんなに大きいんだ」

「……元気な時に会わせてあげたかった」

「うーん。そしたら、今度は食べられちゃう心配もしなくちゃいけないし」

 クララはいたずらっぽく笑ったと思うと、急に真面目な表情になり、ディアンヌに向き直って深々と腰を折った。

「ありがとう、ディアンヌ。ヴォルケに会わせてくれて」

「な、なによ改まって」

「間に合ってよかったから」

 クララは背負っていたずだ袋から、革表紙の本のようなものを取り出して開き、ヴォルケの前に進み出た。はた、と戸惑ったように周囲を見渡し、そして、ディアンヌの胸元に目をとめる。「それ、貸してくれない?」

「いいけど、でも、これなんだか知ってるの?」

 ディアンヌは首から提げていた竜笛をクララに手渡した。

 クララは、礼を言って受け取ると、本を開き、竜笛をくわえた。

 すると、ヴォルケは急に目を見開き、頭を持ち上げると、ディアンヌが一度も聞いたことのない、まるで小鳥のさえずりのような甲高い声をあげた。

「何、今の? ちょっとクララ、ヴォルケに何をしたの?」

「大丈夫、ちょっとお話しただけよ。でもやっぱりだめね。はい《オック》かいいえ《ヌン》でしか答えられないんだ」

 ディアンヌ以上にあっけにとられてクララとヴォルケを見ていたアルフォンスに、クララは優しく声をかけた。

「ヴォルケは今の状態から自分では回復できないし、回復させる方法もわからないって」

「なんだって」

 アルフォンスが、珍しく血相を変え、クララに詰め寄る。

「たぶん、あそこにある本をいくら調べても解決方法はない、と思うわ」

「だから、どういうことなんだ、クララ。なんでそんなことがわかるんだ」

 それはディアンヌが訊きたいことだった。

「竜は不思議な動物なの。竜のことに関する知識は全部、竜の頭の中に入ってる。それだけじゃない、それ以外のいろいろなことも『竜の言葉』を使えば、それらのことを聞き出すことができる、はずなんだけど」

「なんでクララは知っているの」

「教えてもらったからよ。もっともあたしが知っているのはそんな程度」

 そう言って、クララはもう一度ヴォルケに向き直ると、本の別のページをめくり、また竜笛をくわえた。ヴォルケは、薄目をあけ、短く、一言だけ答えると、ゆっくりと身体を起こし、目の前に積まれた飼い葉桶の餌を食べ始めた。

「あ、食べた! 水も飲まなかったのに……」

 アルフォンスが叫んだ。ディアンヌはクララに詰め寄る。

「クララ、どうやったの? やっぱりヴォルケは治るんでしょ?」

「だから、治すのはあたしには無理だって。ちゃんと食べてって、お願いはきいてくれたみたいだけど」

「その本に、わたしたちの知らない竜の言葉がかいてあるんでしょ? 元に戻す方法も書いてあるんでしょ?」

「たぶん書いてない。でも仮にヴォルケが元気になったらどうするの?」

「フランス軍をずたずたに引き裂いて、投石機だろうがなんだろうが粉々にしてやるのよ」

 勢いこむディアンヌに対して、クララは、大げさにため息をついた。

「そんなの無謀。また呪いを受けたらどうするの?」

「今度はうまくやる」

 前回、生き残れたのはたまたま運がよかっただけ、そんなことはわかっている。だが、モンフェルメを救うにはヴォルケを復活させるしかない。

「ねえ、アルフォンス、あなたも何か言ってよ」

「クララ。もし、君の言うとおりなら、今やっている僕らの努力は無駄だ。でも、ヴォルケがここにある書物より沢山のことを知っているというなら、訊いてみたいことがある。その本を見せてくれないか」

「おやすいご用だわ。そしたらついでお願いしたいともあるし」

「ちょっと、アルフォンス! 今はヴォルケのことが大事でしょう? あんたの好奇心なんて後回しにすればいいでしょ!」

「僕はもう、ヴォルケはだめだ思う」

 アルフォンスの一言に、ディアンヌは冷水を浴びせられたような気分になった。

「……駄目って……まさか、そんな」

「だから、僕は、他の竜の従者達と一緒に『擬竜』を完成させたい。竜よりずっと小さくて、竜のようには飛べないけれど、投石機を壊すのには役に立つと思う」

「『擬竜』ですって? なにそれ、面白そう!」

「いい加減にしてっ」

 ディアンヌが足を踏みならして叫ぶと、アルフォンスとクララはきょとんとした顔で見つめかえしてきた。ヴォルケまで餌を食べるのをやめてディアンヌをちらりと見た。ディアンヌは大きく息をつき、頭を下げた。

「ごめん、みんな真剣にやってるんだよね。ああ、やっぱり町にいかなきゃ。それから……」

 やらなくてはいけないこと、やろうとしてもできないこと、いろいろなことが頭の中にふくれあがって、またイライラとし始めたとき、竜窟の奥から、ひょっこりと現れた者がいた。

「やっぱりここだったか。無駄足にならなくてよかった」

「エクトール!」

 剣も下げていない軽装だ。山肌に作られたモンフェルメの町に繋がる道は、両手を使わないと歩けないような険しいものだ。

「ディアンヌ。大丈夫か?」

 その言葉が、心のこもった優しいものであることは、さすがのディアンヌにもわかった。二日ぶりの再会も嬉しくないわけではない。だが、口をついたのは、こんな嫌みなセリフだった」

「ご心配ありがとうございます、王子様。おかげさまで、こちらのクララ様の部隊に助けられました」

「ああ、知ってる。よかったな」

 くそ。

「それよりディアンヌ。具合がいいなら、来てくれないか。親父が呼んでいる」

「ローラン閣下が?」

 自分もヴォルケもまだ捨てられたわけではない、そう思うと、ディアンヌは自分の背筋が伸びるのを感じた。


 モンフェルメの町は、戦いの準備の最中だった。

 火矢の射程圏内の家屋からは、茅葺きの屋根がはがされ、無残な姿をさらしていた。路上を埋め尽くしていた露天はほとんど無くなり、それでも何軒かは三つの広場の片隅に残って商売を続けている。大きな石を積んだ荷車が何台も城壁の方に向かってゆく。城壁の下に迫る敵の頭上に落とすためだ。その他、飲料水を入れた樽や武器など、戦闘の最前線となる城壁に物資を送る馬と人と車の流れが絶えない。

 領主の館の壮麗な騎士の間も、その半分には武器や防具などが、残りの半分には板と布が何枚も敷かれている。

「病院にするんだそうだ。大聖堂の礼拝堂も差し出されたらしい」

 そんなに沢山の負傷者が出るまで戦闘を続けるつもりなのだろうか。

 ディアンヌがエクトールに連れられてローランの執務室に通されたとき、部屋には執政官のダニエル・デジャンや騎士団長ジャン=バティスタがいてローランへの報告中だった。ジャン=バティスタは、頭巾をかぶった女服のディアンヌを見て眉を上げたが、声をかけようとはしなかった。部屋を退去するとき、黙礼したディアンヌの肩を軽くたたいただけだった。

「よくも無事で戻ってくれた、ディアンヌ」

 ダニエルとジャン=バティスタが退出すると、ローランは椅子を立ち、机を回り込んでディアンヌを抱きしめた。

「おまえを含め、竜騎士団の名誉はかならず回復してやろう。だが今は、よくない噂が町にはびこっている」

「竜が呪われているという噂ですか」

「そうだ」

 ローランは即答し、ディアンヌのカンの良さをほめるかのように相好を崩した。

「今、正統性について住民同士が疑心暗鬼になるのは良くない。戦いが不利になれば、それを言い訳にする輩が必ず出てくるからだ」

「わかっています」

「そのためにも、一つ頼みたいことがある」

 傍らで控えていたエクトールが身体を固くしたのがディアンヌにはわかった。ディアンヌも緊張して背筋を伸ばす。

「リヨンへゆけ」

 それはフランスとイタリアと神聖ローマ帝国の国境に近い都市の名前だ。馬を乗り継いで急いでも片道で十四、五日はかかるだろう。

「リヨン、ですか」

「正確にはリヨンの南にあるヴィエンヌという町のサン=アンドレ修道院だ。そこである人物と会い、我が邦に対する支援を取り付けて欲しい」

「え? そんな、外交的なことは私にはとてもできませんけど」

「ディアンヌ、お前でなくてはならない。それに難しい交渉などは必要ない。先方はモンフェルメの竜騎士に話を聞きたいと言っているのだ。お前が行って話をすれば、支援をすると約束している」

「ですが、そんな大事な仕事を私に」

「大事だが、それゆえ、お前にしかできない。その仕事を成し遂げて帰還すれば、住民達も、呪われた竜などという噂を忘れるだろう。それどころか、お前は町を救った英雄になるだろう」

 竜の不名誉を濯ぐ、として英雄という言葉がディアンヌの胸に響いた。そうなれば、ラングレ家の名誉は高まり、家督の相続もきちんとできるようになるかもしれない。それに、会って話をするだけなら、それが文字通りであるなら、難しいことではない。

「わかりました。閣下、謹んでおうけします」

「父上、自分も同行します。よろしいですね」

 エクトールが口をはさむように言った。余計なこと、わたし一人で大丈夫よ、そんな強がりが、すぐには口をついて出なかった。しかしローランは簡潔に答えた。

「行ってはならん」

「でも」

「理由は言わずともわかるな」

「……はい」

「傭兵を護衛に何人かつけてやってもよかろう。それとこれだ」

 ローランは机の上に置かれていた、封の切られた手紙を差し出した。ディアンヌは受け取り、そのひどく大げさに修飾された文字を読もうとした。

「もうすぐリヨンで始まる公会議への招聘状だ。お前を代理人として出席させるように書いておいた。もってゆきなさい」

 ディアンヌとエクトールは一礼して部屋を辞した。

 一階の騎士の間に続く階段を降りながら、ディアンヌは、呟くように言う。

「別に、あんたについてきて欲しいとは思わないけどさ」

「親父は戦争の後のことを考えてるんだよ」

 エクトールのそっけない返事は、一見とんちんかんだったが、ディアンヌの望んだ通りのものでもあった。

「俺やデジャンが途中で捕まったら、後々フランス王や教皇に言い訳が難しくなる、そんなところだろう」

「あたしは正規の騎士なのに……」

「そういうわけじゃない」

 単なる愚痴のつもりだったが、エクトールは強い調子で言った。「俺は、あ、いやモンフェルメの住民はお前が騎士だってことはわかってる。だが、他の国の人間はそうとは思わない。それを利用するんだ。わかるだろう?」

「ええ」

 ディアンヌは短く答え、そして、小さな声で付け加えた。「ありがとう」

「それにしても、『ある人物』って誰だろうな」

 エクトールにはディアンヌの言葉が聞こえなかったかもしれない。ディアンヌは、小さく笑って、答えた。

「ラングドックの諸侯はみんな放逐されて、トロサ伯のレーモン閣下も締め上げられていて、誰も頼れそうなひとはいないもんね」

「今度の遠征にご執心なのは教皇イノケンティウス四世だけで、フランス王はそうでもないっていうから、ひょっとしたら、味方はそっちかもしれないけどな」

「ちょっと、想像できないわね」

 ディアンヌを町の外れの東の谷の入り口まで送ったところで、エクトールは言った。

「じゃあな。気をつけて行けよ」

「そっちもね。私が援軍つれて戻るまで、持ちこたえてちょうだいよ」

 そんなことになれば、どんなにか良いことだろう。

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