第一章 モンフェルメ副伯国に十字軍が迫る

竜と竜騎士

 必殺を念じて振り下ろした剣は、わずかに向きを変えた盾で軽々と流された。打ち込んだ方のディアンヌはバランスを崩し、たたらを踏む。そこに相手の長剣の一撃が容赦なく襲いかかる。辛うじて盾で防ぐが、その衝撃はしびれとなって左腕から肩にかけてじわり、と広がる。

「エクトール、この卑怯者!」

「実戦風でやれと言ったのはお前だろが」

 大きく足を踏み込んだのは攻撃ではなく、バランスを崩したからだったが、ディアンヌの大胆過ぎる動きに、エクトールは半歩退いた。今だ、というか、もうこれ以上撃ち合っていたら体力が保たない。盾が無造作に上がったのを見逃さず、足の付け根に横薙ぎの一閃を打ち込む。それも盾の下部で払われるように見えたが、ディアンヌの剣の勢いがわずかに勝った。模擬剣が鎖鎧に噛み込む、ぐしゃりという手応えがあった。

「やった、今のは入ったよね? 絶対、入ったでしょ?」

「はいはい、やられたやられた、俺の負けだ」

「お見事です、ディアンヌ様」

 嬉しそうな笑みをたたえて拍手するのは、傍らで見ていたエクトールの一歳違いの弟のアシルだ。

「だから負けはわかったって言ってるだろう」

 模擬剣を鞘に収め、兜を取ると、藁色の巻き毛に縁取られた端正な若者の顔があらわれる。くやしいことに、ろくに息も乱れていない。ディアンヌも兜を脱ぐが、亜麻色の長い髪が、二本ばかり面甲の金具に巻き取られてしまう。

「さあ、稽古は終わりだ。アシル、館に戻るぞ」

「ちょ、ちょっと、逃げるつもり?」

「勝ち逃げじゃねえんだから、いいだろう? だいたい、こんなこといくらやっても意味ねえんだから」

「なんですって? 騎士が剣技をおろそかにしてどうするのよ!」

 ディアンヌの剣突に、エクトールは、舌打ちして答えた。

「竜騎士が剣の腕磨いてどうすんだよ、って言ってんだよ。でっかい竜の背中で縫い針みてえな小さい剣振り回して、敵に当たるとでも言うのかよ」

「ぐっ」

 ディアンヌは言葉に詰まる。というか、そんなことはわかっている。でも。

「竜騎士は長槍を振り回してなんぼだろ? そっちは……」

「わかってるわよっ」

 ディアンヌは女としては上背がある方だし、人一倍鍛錬を積んでいるものの、それでも竜騎士の長槍は重くて扱えない。それは正騎士として叙任された今でも、自分が半人前でしかないと思い知らされる事実だった。

 だがディアンヌと同い年のエクトールは一八才でまだ従騎士だった。そのエクトールに偉そうな口を叩かれるのは耐えられない。

 砦に詰めている兵士がやってきて、エクトールとアシルが脱いだ訓練用の鎧や兜を片付けてゆく。エクトールは、打ち込み練習用の丸太に引っかけていたテンの外套を羽織ると、そっけなく言った。

「送っていけなくて悪いな、ディアンヌ。ミシェル卿がミルポワから戻ったんだ」

「一人で戻れるわよっ」

 ミシェル卿がモンフェルメ副伯の使者としてラングドックの諸侯の元に遣わされたのは知っていた。モンフェルメ副伯ローラン・ドゥコルヴェの跡継ぎであるエクトールと違い、一騎士にすぎないディアンヌがその報告の場に呼ばれることはない。

「ごきげんよう、ディアンヌ様」

 アシルが腰を折って挨拶する。アシルは嫌いではないが、北フランスかぶれの貴婦人扱いされるのはインチキ騎士呼ばわりされるよりも嫌だ。

 アシルとエクトールが去った方とは別の門から、訓練場として使われている砦を出ると、すぐそこには城壁に設けられた門がある。門を守る兵士達は、モンフェルメの華、竜騎士団の紅一点の娘騎士として、最近、町人の口の端にのぼるようになったディアンヌに丁寧に挨拶をしてくれる。もちろん、ディアンヌだって彼らにはエクトールに対するようなぞんざいな態度は取らない。

 跳ね橋を渡ると、道はすぐに左右に伸びる街道に突き当たる。そこは両側に大きくそびえ立つ岩山に挟まれた谷だ。北東にゆけばラングドックに、南にゆけばアラゴンに繋がる街道と川を挟んで、葡萄と小麦の畑が広がる。そこへ合流する谷筋の一つ、その入り口をふさぐようにして、モンフェルメの町の赤い城壁があった。ラングドックの平野にあるトロサ(トゥールーズ)やカルカソンヌなどとはもちろん比べるべくもないが、こんな山中にある都市としては奇跡のような壮麗さ、優美さ、と旅人達は褒めそやす。かつて父に連れられて一度だけ訪れたトロサの町と比べても、引けはとらないだろう、とディアンヌは思う。

 モンフェルメの町とそれを中心とした谷一帯がローラン・ドゥコルヴェを領主と戴くモンフェルメ副伯領である。これほど小さな国であったが、葡萄や小麦の実りは豊かで、町は南北の交通の要所として栄えている。この国を守る騎士団の末席に名を連ねるディアンヌは、そんな美しい光景を眺めて、エクトール、というより自分自身に対する溜飲を少しだけ下げることができた。

 何人もの旅人や荷馬車とすれ違いながら、ディアンヌは数件の民家が固まって建っている四つ辻にさしかかる。左に折れ、しばらくゆくと、山の斜面に張り付くようにして建つ木組みの大きな一軒家が見えてくる。農民達がラングレのお屋敷などと呼ぶが、そんな大したものではない。そこからさらに上に視点を移すと、曲がりくねった山道を辿った先に岩小屋がある。細い煙が煙突から立ち上っているところを見ると、またアルフォンスはそこで作業をしているのだろう。

 開けっ放しの門をくぐると、そこは厩、納屋、母屋で囲まれた中庭になっている。母屋の前に置かれた椅子に座って縫い物をしていた少女が頭をあげ、可愛らしい顔をほころばせた。

「おかえりなさい、お姉様」

「ただいま、エレーヌ。アルフォンスは?」

「岩小屋です」

 そういってエレーヌが差し出した手に剣を預ける。よいしょ、と小さく呟いてエレーヌはそれを両手でかかえて母屋の中に入ってゆく。

 母屋の扉をくぐり、こぢんまりとした、しかし、農民の家にあるようなものとは格の違う造りのテーブルや箪笥などが置かれた居間に入って、ディアンヌは鎖鎧を脱ぎ始めた。

「お姉様、ご自分のお部屋で着替えたら?」

 そう言いながらも、エレーヌは着替の裾の長いチュニックを持ってきてくれ、ディアンヌが鎧を脱ぐのを手伝う。

「エクトール様とアシル様はお元気でしたか?」

「ええ、めちゃくちゃ元気だったわ。もっとも最後にはあたしが一本とったけどね」

「そうですか。……エクトール様は、本当にご立派ですね」

 その一言が、忘れかけていた屈辱を蒸し返す。

「は? あんな臆病者のどこか? いつも泣きながらあたしの後をついてきたくせに?」

「それは、小さい時分でしょ。エクトール様の人気は、村や町の娘達の間では大変なものですよ。せめて、そのくらいは理解していないとお姉様、あの子達に背中から襲われても知りませんよ」

 このあたしが、女ごときに襲われるですって? とあやうく言いかけて、エレーヌの悪戯っぽい笑顔に気づく。ああ、なんか、駄目だ今日は。苛立ちは「あの子達」に向けることにする。

「ふん、馬鹿みたい。こんな田舎とはいえエクトールは副伯爵様のお世継。どうせアラゴンかカスティーリアあたりの良いとこのお姫様がお嫁に来るんだから、あの子達に万に一つのチャンスもないのに」

「だったらその前に、せめて一夜でも、と考えている娘も少なくないようですよ」

 ディアンヌは、びっくりして妹の顔を見る。多分、自分の顔が赤くなっているのがわかる。「主よ……そんなみだらな娘達に罰を!」

「そう、その意気です。お姉様」

 エレーヌは満足気に頷く。やっぱり駄目だ。ディアンヌはエレーヌが畳んでくれた鎖鎧を抱え、ため息をついた。

「ヴォルケのところに行ってくる。そんなに遅くならないから」

「はい。お気をつけて」

 

 家の裏から伸びる狭い道を上ってゆくと、岩小屋の前に出る。重い鉄の扉を開くと、いくつも下がったランプの光に、壁に掛けられた槍や弩、盾などが浮かびあがった。そこには普通の砦の武器庫にはない、珍しいものも置かれている。畑を耕す桑を何倍にも大きくしたような鉄の爪、馬の鞍とは似ても似つかない、長く幅の広い腹帯のついた鞍。人間の頭の三倍はあるような大きな兜などだ。

 緩やかな階段を登って二階に出ると、そこは工房になっている。大きく頑丈な二つの木の机が置かれ、さまざまな工具や器具が机に取り付けられている。部屋の片隅には小さな竈もある。

 その机に向かい、髪の黒い小柄な少年が、一抱えほどの黒い箱を前に、その中身を一心にいじっている。ディアンヌは、アルフォンスの仕事を邪魔しないように、足を忍ばせて壁際の机に近づき、そこに鎖鎧を置いた。どしゃり、と思いのほか大きな音をたててしまう。

「壊れたの?」

 ディアンヌの方も見もせずに、少年が訊いた。ディアンヌは、

「ううん、油塗って欲しいのと、肩のところの鎖が開いていて」

「壊れたんじゃん」

「ごめん」

「騎士が従者に謝るなんて聞いたこともない」

 ディアンヌは、アルフォンスにゆっくり近づき、肩越しに手元の箱を見る。

「なにやってるの?」

 アルフォンスは答えない。その黒い箱にふたをすると、木の机に取り付けられていた万力に箱を噛ませた。そして、箱の側面に空いていた穴に取っ手を差し込み、額に汗を浮かべながら何度も回した。取っ手を引き抜くと、耳障りな甲高い音をたてて、箱からつきだしていた軸がゆっくりと回り始めた。

「これ……例のあれ? 時間を示すっていう機械?」

「違う。止めてごらん」

 ディアンヌは回転している軸におっかなびっくり手を伸ばし、それをつかんだ。しかし回転する力もとてつもなく強く、とても手で止められるようなものではない。

「すごい力ね。小麦を挽くのに使えそう」 

「擬竜の心臓だよ」

 アルフォンスの指摘に、ああ、とディアンヌは曖昧に頷いた。

 竜窟に伝わる沢山の古い本の中にその作り方があったと言って、アルフォンスは最近『擬竜』を作り始めた。設計図と骨組みの状態を見る限り、竜と呼ぶのもはばかれる、骨と皮ばかりのコウモリのような代物で、ディアンヌにはそれが空を飛ぶところなど想像もできない。

「ディアンヌはそういうけど、竜はそもそも戦いのための騎獣じゃない、と僕は思う」

「え……どういうこと? まさか、ヴォルケの代わりに、あの擬竜に乗って戦えっていうの?」

 アルフォンスが少しだけ顔を上げてディアンヌを上目遣いでにらみつける。

「うんと、そうね、できばえによるわ。あたしも、ヴォルケには怪我をさせたくないし……」

「ディアンヌが乗ってくれるっていうなら、僕もがんばるよ」

「ええ。よろしくお願いするわ」

 ディアンヌはアルフォンスに気づかれないように小さくため息をついた。アルフォンスは、傍らの机に開いて置かれた本のページをめくっている。

 せっかく字が読めるんだから、聖書を読めばいいのに、とディアンヌは何度か言ったものだが、「おなかが減ったからといって、干し草を食べさせるのかい、きみは」と返されてさすがにディアンヌも鼻白んだ。

 ディアンヌは、本と黒い箱を交互に見遣るアルフォンスから離れ、部屋の壁に下がっているランプを一つ取り、机の上に下がった大きなランプから火を移した。そして部屋の一方の壁の扉を開くと、ランプの光の中、上に向かう石の階段が浮かびあがった。

 石段を上り詰めると、広い空間に出た。町の聖堂と同じくらいの高さの天井と、ずっと深い奥行き。洞窟の左側は外に開いていて陽の光が入ってくる。床は磨かれた大理石のように平らだったが、もともとはむき出しの岩であり、それが長い時間をかけて磨かれたのだった。

 その洞窟の広間の真ん中に、竜がうずくまっていた。

 ディアンヌは、登ってきた階段の扉を閉めて鍵をかけ、竜から目をそらさずにゆっくりと近づく。

 背中までの高さは人間の背丈の二倍ほど。膜のある翼は背中の中ごろにきれいに折りたたまれている。尾は縦に平べったい形で長さは胴体の半分ほど。後ろ足は太く、前足はずっと小さい。身体の大きさに比べて小さな頭は、それでも馬の二倍はある。竜は、その金色の目を細め、目の前に置かれた小さな飼い葉桶から藁と麦を混ぜたえさを食べているところだった。竜はその身体に比べて食べる量が少なく、馬の半分程度でしかない。草食であり、伝説のように牙も生えておらず、もちろん毒の炎を吐いたりもしない。

「ヴォルケ」

 ディアンヌはそっと竜の名を呼び、寄り添ってその肌をなでた。緑がかった褐色の肌には短い体毛が生えている。表皮は樫の木よりも堅いが弾力があり、ほんのりと暖かい。

「ヴォルケ、いい?」

 竜はなんの仕草も見せなかったが、ディアンヌはそれを理解できた。嫌なときにははっきり答えるのだ。

 ヴォルケには鞍も鐙もついていなかったが、ディアンヌは皮膚の凹凸や体毛をつかんで、難なく首の付け根のところに這い上がった。羽織ったマントを脱ぎ、チュニックを脱いで、薄い下着一枚だけになると、ヴォルケの背中をだくようにうつぶせになる。少しするとヴォルケの体温が薄い布地を超えてディアンヌの身体を温めてくれるのがわかった。身体を強く押しつけると、ヴォルケの背中の小さな凹凸がディアンヌの柔らかな部分を刺激したので、思わず唇を噛みしめた。小さく身動きするたびに刺激は強くなり、ディアンヌの身体の中からも熱いものがこみあげてくる。

 ディアンヌの年齢ともなれば結婚して子供がいる者も沢山いるし、結婚していなくても、(おお主よ)男女の間の悦びを知る娘はもちろんいる。こうして竜と肌を触れあわせることは騎士として大事なことだ、とディアンヌは信じているが、そう信じようとすればするほど、罪を犯しているという疑いは強くなる。しかし、竜は聖なる生き物なのだ。ヴォルケもきっとうれしいはず。だったら……。

 ディアンヌは、ヴォルケの背中を抱きしめる腕に力を入れた。最初の衝動がゆっくりと訪れようとしていた。

 そのとき、岩小屋から上ってくる階段の扉が三回、強く叩かれた。ディアンヌは慌てて、脱ぎ捨てたチュニックを胸元に掻き上げたが、さすがにもう、竜の背中から飛び降りて足をくじくような愚は犯さなかった。

「どうしたの?」

 大声で尋ねると、扉の向こうからアルフォンスの声がかすかに聞こえた。

「エレーヌ様がディアンヌのこと呼びに来た。今すぐ、領主様のところに来いって」

「わかったわ」

 チュニックを頭からかぶって腰のひもを締め、いそいでマントを羽織る。すると、それまでディアンヌの存在自体に気づいていなかったようなヴォルケが身じろぎし、長い首を曲げてディアンヌの目の前に頭を突き出した。

「いいの?」

 ディアンヌがその頭にしがみつくと、ヴォルケはゆっくりと頭を下げ、ディアンヌを地床に下ろしてくれる。

「ありがとう、ヴォルケ。またね」

 岩小屋に降りる階段の扉を開いたディアンヌの耳に、町の聖堂の鐘の音が届く。九時課は過ぎているし、晩課にはまだ早い。

 ミシェル卿のもたらした知らせは、騎士達全員を集めなくてはならないほど重要なものだったのだろうか。

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