第10話



 事件以来、電車に乗る度、この日の小さな久遠が脳裏で再生されるようになった。

 さすがに十年近く経っている今は、他のことで気が紛れれば、思い出すことは少なくなった。


 だが、静かな車内だと、やっぱりまだ思い出してしまう。

 頬に、涙が流れたのがわかった。来栖はごしごしと袖で拭う。


 あの日、久遠が生きていてくれて良かった。本当にそう思う。


 久遠との仲がうまくいかなくて苦しいが、それも含めて、今来栖はここで生きていると実感できている。

 久遠がいなければ、感じることなどできなかっただろう。


「ご乗車ありがとうございます。次は――」


 ドアの閉まる音と、車掌のアナウンスで、来栖は我に返った。

 電車は今まさに、来栖が降りるはずだった駅を出ようとしている。


「しまった、乗り過ごした!」


 幸い、乗っている電車は各駅停車だったので、遠くに行くこともなかった。

 落ち着いて、次の駅で降りる。


「歩いて帰るか……」


 空を見上げると、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。

 急いで帰る気を削がれ、来栖は精算し改札を出る。


 川沿いに歩けば、あの忘れられた商店街に出るはずだ。


 来栖はのんびりと歩く。

 秋の少しひんやりとした風が後ろから、来栖の黒髪をさわさわと揺らした。

 土手に生えたススキの穂も、同じように揺れている。


 きれいな街だと思う。

 あと、この街にどれくらいいられるだろうか。

 名前を覚えた人間が、増えすぎてしまった。成長した久遠とは対照的に、来栖の外見はほぼ変わっていない。

 また拒絶される前に、そろそろ、街を出るべきだろう。


 冷たい風が肌をなでる度に、なんとなく寂しくなる。


「あっ」


 街に近くなったところで、友達と歩いている久遠の姿を見つけた。

 同じ服を着て、同じくらいの背格好の男の子と、楽しそうに笑っている。


 久遠は、あとどれくらい生きられるのだろう。


 血の衝動は、来栖の予測をはるかに越えて、久遠を生かし続けている。

 来栖にとってはありがたいことだったが、同時に、ある日突然いなくなるような気がして焦る。


 今の久遠は、ああやって笑うんだな。

 ぼんやりと思うと同時に、もうずいぶんと久遠の笑う顔を見ていないことに気が付いた。


 今の来栖には、どうやったら久遠を笑顔にできるのかが皆目見当も付かない。

 だいたい、今の来栖は、久遠にとっての何なのだろうか。


 家族? 

 父? 

 兄? 

 友達? 

 仲間? 


 ──それとも、ただの知り合い?


 どれをとっても、しっくりこない。

 吸血鬼の血を少し持っていても、久遠は、まだ、人間だ。


 こちらの世界に引き込むわけにはいかない。

 ああやって、人間の友達と笑いあっている方が久遠にとっては幸せだろう。


「友達……」


 同族の友人なら、来栖にも何人かいる。

 ただ、久遠は彼らとは違う気がした。

 そのような関係になりたいわけでもない。

 ただ、いつまでも隣にいてほしい。

 小さな手をとって、どこまでも一緒に歩いていきたい、そういう関係がいい。


「じゃあな」

「うん、また明日」


 花屋の前まで来て、久遠は友達と別れた。

 あの少年は、誰なのだろうか。

 久遠は、彼のことをどう思っているのだろうか。

 この時間まで、いったい何をしていたのだろうか。

 久遠のことなら、何でも知りたい。


 家の前で、一人立ち尽くして考え込むが、答えなど出るはずもなかった。


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