第9話



 横倒しになった車両、割れた窓ガラス、倒れた人と流れ出す血液。



 久遠のことなら何でも思い出せるが、あの日のことだけは、できれば二度と思い出したくない。

 それほどひどい光景だった。


 久々に一族が集まる会合が開かれ、その日、来栖たちは徹夜で語り明かした。

 お開きになったのは早朝で、来栖たちは始発の電車で、それぞれの暮らす家に帰った。


 来栖の乗った始発電車は、空港行きの赤い電車だった。


 向かいのシートに座っていたのは、大きなスーツケースを持った親子だった。

 時期は年末。

 これから郷里へ帰省するらしい、おばあちゃんのうちに早く行きたいと口にする、父親と母親の間に座った小さな男の子に見覚えがあった。


(久遠だ……!)


 その車両に乗り合わせたのは、本当に偶然だった。

 まさか久遠と、いつもの公園以外の場所で会えるとは、思いも寄らなかった。


 どくりと、来栖の中の本能が頭をもたげた、その瞬間だった。


 小さな身体が宙に浮いた。

 普段感じないくらいの重力が身体にのしかかった。

 頭がおかしくなるくらいの轟音と、何かが焼け付く臭い。

 気が付くと、来栖は隣の乗客の身体とシートの間に押しつぶされていた。


 脱線事故だと認識するのに時間はかからなかった。

 そして、自分以外の人間の命が、一瞬で奪われてしまったことも。


「久遠!」


 スーツケースの下に、小さな手が見えた。いくら呼びかけても、手は動かなかった。


「──久遠っ!」


 自分の身体が、重かった。

 自分のものではないようだった。


 来栖はなんとかシートの下から這い出すと、スーツケースの元へと駆け寄った。

 無我夢中で、スーツケースに手を伸ばす。


 小さな身体は、動かなかった。


 この世の終わりが来たと思った。

 久遠がいない世界など、生きる意味がない。


 その時の来栖が自分の指を噛み切ったのは、自然なことだった。

 ぷつりとにじんだ血豆を、久遠の口に含ませる。

 口の中は温かかった。


 大丈夫、まだ間に合う。


 吸血鬼の血を久遠が取り込めば、血の衝動が身体の再生能力を高めるので、もう少しだけ生きることができる。

 身体に入り込んだ吸血鬼の血が、人間としての血を食いつくす生命力と引き替えに。


 来栖ができることは、これだけだった。あとは成功を祈るだけ。

 一瞬が、永遠に感じられた。


 閉じられた小さな瞳がまた開かれた時。来栖の目に涙があふれた。

 嬉しくて、後から後から涙が出てきて、止まらなかった。


「お兄ちゃん……泣いてるの?」


 小さな久遠は、とても優しかった。

 こんな状況に置かれてもなお、自分よりもまず来栖の心配をしてくれた。


 なんて、いじらしいのだろうか。

 来栖はこの時、一生この子を守ろうと決めた。


 小さな久遠を抱え、横倒しになった電車を脱出した。後のことは何とかなると思った。


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