第3話

 若い女性客が赤いバラの花束を買って出ようとしているのと入れ違うように、店に高校生が入ってきた。


「あら、久遠くん、おかえりなさい」

「芽衣子さん、こんばんわ。今から出勤ですか?」


 来栖よりも頭一つ小さな背丈。アーモンドのような大きな茶色い瞳に、お揃いのふわふわした茶色い猫毛。

 久遠と呼ばれた少年が人なつこそうにふわりと笑うと、女性もつられて笑顔になる。


「そうなの。ヘルプを頼まれちゃって」


 バラと同じくらいに真っ赤なドレスが、黒いコートの下にちらりと見えた。

 彼女は、夜の蝶なのだ。来栖の眉が寄せられる。

 さすがに高校生の教育にはよくないような、気がした。

 気がしただけで止めはしなかったが。


「お仕事がんばってくださいね」

「ありがとー! またね!」


 この久遠は、来栖の弟、ということになっている。

 ということになっている、というのは、来栖がそう決めたわけではないからである。

 久遠を見た店の常連客が弟だと思いこんで、それを来栖が否定しなかったために、そういうことになっているのだった。


 常連客の名を覚えようとしない来栖とは逆に、久遠は常連の名をほとんど覚えている。特に、先ほどのような水商売をしている女性客からは可愛がられている。


 久遠は、十数年前まで、ただの近所の子供だった。

 ある日、交通事故で両親を亡くし身寄りの無くなった久遠を、来栖が気まぐれに引き取ったのである。

 最初こそ久遠は来栖に懐き、どこに行ってもべっとりくっついて離れなかったのだが。

 最近は大きくなったせいか、来栖にはべったりくっついてくれなくなった。


「久遠。遅かったね?」

「……友達に、勉強を教わってただけだよ」


 それどころか、こんな風に終始素っ気ない態度なのである。口調こそ柔らかいが、目は合わせてくれない。

 そのくせ、さっきみたいに、店の客には愛想良く振りまいている。


 来栖は最近、久遠を完全に持て余していた。

 子供とは、食べ物を与えていれば勝手に大きくなるものだとばかり思っていたが、どうやらそうではないようだ。

 久遠の優しい性格は変わっていないのに、やたらと距離だけ感じる。

 どうして自分にだけ、話してくれないのだろう。理由はいくら考えてもわからないが、それでも来栖は一生懸命話しかける。


「ごはん、食べる?」


 さっき、子供にやったくるみパンが残っているはずだ。来栖はきょろきょろとパンを入れているカゴを探すが、


「ごめん、食べてきた……」


 久遠は申し訳なさそうにそれだけ言うと、店の奥に引っ込んでしまった。


「……久遠」


 来栖の行き場を無くした気持ちが、パンのカゴと一緒に、ぽつんと店に残された。


 久遠は、来栖をこの世につなぎ止めている、たったひとつの理由だった。


 嫌われてはいないと思うのだが、なぜ昔のように、普通に接することができないのかが、来栖にはわからなかった。

 大切にしたいと思えば思うほど、来栖の行動はからまわってしまう。

 先ほどのように心配して声をかけただけだというのに、一言だけ残して逃げられたりするのは、一度や二度のことではなかった。


 一方の久遠の方も、なにやら意識しているらしく。たまに来栖のことをじっと見ていることを、来栖は知っている。

 こちらを見ていたかと思うと、何やら考え事を始めて一人で赤くなったり青くなったり。

 かと思うと、頬をピンク色のバラのように染めて、うっとりと何かを思い出していたり。


 そんな久遠に見つめられると、むずがゆくなっていたたまれなくなる。


 何か悩みでもあるのだろうか。

 うまく話したいのに、久遠を前にするとなかなか言葉が出てこない。

 そのうちに、久遠の方もうまくしゃべることができなくなり、二人ともが黙ってしまう。


 来栖は不安になる。知らず知らずのうちに何か気に障ることでもしたのだろうか。それとも――


「おれのこと、バレたのかな……」


 店番を続けながら、来栖はひとりごちる。


 別に来栖が吸血鬼だろうがなんだろうが、そんなことで人を差別したりするような久遠ではないことは、来栖が一番よく知っている。

 久遠は、とても優しい子だ。

 だからこそ、来栖は何よりも久遠を優先していたいと思うのである。

 久遠のためなら、何でもする。他には何もいらない。本気でそう思っている。


 今日はこれ以上、客は来そうになかった。そろそろ夜が明ける。


 来栖は手早く店を片付けた。元々小さな店だ、そんなに片付けるものもない。やがて、朝日と同時にシャッターを閉める。

 朝の静謐な空気が、古ぼけた町並みの中を流れていた。この冷たさだけは、いつの時代も変わらない。


 店の奥、二階に続く階段の下の部屋が、来栖の寝床だ。

 だが、まっすぐ寝床には入らず、二階の台所に行く。

 寝る前に必ず、久遠のために朝食を作るのだ。

 来栖自身は食べ物を食べなくても何ともないが、久遠は人間だ。食べ物を摂取しないと餓死してしまう。


 来栖は慣れた手つきで、米を鍋で炊き、小魚を網であぶり、漬け物を壷からあげる。


 時々は夕べのパンの残りを焼くこともある。

 隣のパン屋が気まぐれで開店した次の朝だ。だがそういう理由がない限り、朝はたいてい米である。


 自分では食べない朝食をもくもくと作っている時、来栖は幸福感に包まれる。

 自分ではない者のために、手間をかけることができる幸せ。それを感じることが来栖は大好きだった。

 子供たちにパンを食べさせることも久遠に朝食を作っていることも、この幸せな気持ちを味わうために続けていることなのだった。


 朝食ができあがっても、久遠はまだ眠っている。


 小さな茶の間に敷かれた、小さな布団が、規則正しく上下に動いている。

 子供の頃からずっと使っているので、今の久遠にはかなり小さい。

 古ぼけた布団からはみ出した、形のいい腿を見てから、来栖は満足げに自分の寝床に戻るのだった。

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