第51話
佳子「ええっと」
僕 「うん」
佳子「きょうは、ワンコちゃんに吐くところ見られないようにっていう悩みかな」
僕 「そうなの」
佳子「うん。だって、ワンコちゃんも吐き気あるって知らなかったから」
僕 「そう」
佳子「見せたくないと思ったら、逆にどんどん追い込まれるのよね」
僕 「だよね」
佳子「不思議よね。人間って。見せたくないものは見せることになってしまって、
本当に見せたいものが、見せられないんだよね」
僕 「そうそう。それを皮肉っていうよね」
僕は、佳子さんより先に、何としても「皮肉」という言葉を言いたかった。
昔、佳子さんが僕に
「早稲田の現代文ってね、キーワードがあるんだよ。
皮肉とか、矛盾とか、出てきたら、絶対チェックだからね」
と教えてくれたことを、今ここで実践したかったからだ。
すると手で顔を隠していた佳子さんは、パッと手を放して、僕の方を向いてくれた。
佳子「皮肉。よく出てきました。よくできたね。よく覚えていたね。
教えた甲斐、あったわあ」
佳子さんはすっぴんを隠さずに、笑ってくれた。
一応確認したが、すっぴんかどうかなんて、まったく、わからない。
このまま外に出ても、おかしくない。そう思った僕は、思わず言ってしまった。
僕 「あの、やっぱり、すっぴんだって、わかんないけど」
佳子「そおお?大違いよ」
僕 「どこが?」
佳子「なんでまた言わせるの?まつ毛が短いの!」
佳子さんは少しいらだったが、僕は落ち着いていた。
それは、違いが全く分からなかったからで、自分の見方が違っているとも思えなかった。
僕 「あのう、佳子さん」
佳子「なあに」
僕 「佳子さん、気にしすぎじゃないかなあ」
佳子「そお?」
僕 「だって、本当にわかんないもん」
佳子「そんなことないよ」
僕 「いや、わかんない。100人いたら、99人わかんない」
佳子「そうかしら」
僕 「そうだよ」
佳子「うーん」
僕 「だって、寝癖とかもそうじゃん。本人が気にしすぎるくらい気にしても、
他人は誰も気にしない。本当に、誰も気にしない。
でも、その数センチにこだわって、みんな無駄な時間を過ごしているんだよね。
細かな違いは、他人が気にしないんだったらいいんじゃないかなあ」
佳子「そっかあ。でもあたし、目元、ほかの人より弱いからなあ」
僕 「そんな、他人と比べてもあんまり意味ないよ」
「比べると、まず間違いなく、自分より他人の方が、すばらしく見えるじゃん」
佳子「うん」
僕 「でも、自分と他人の間に、本当にどれだけ差があるかは、
実は自分ではわかっていないことが多いんだよね。
それに、第三者は、自分と他人の差について、
あまり、というか全然気にしていないし」
佳子「そっか」
僕 「僕は、一番いいのは、自分がどれだけ力を伸ばしたかを 気にすることだと思うな。
他人を上回ることにも意味はあるけど、自分を上回ることに、
もっと大きな意味があるんじゃないかな。
目指すのは、自己最高記録なんだよね、僕はいつもそう」
佳子「そうなの?」
僕 「うん。それに、自己最高記録をコツコツ、マニアックなくらい
コツコツ更新していくと、結果的に、ほかの人を上回るんだよね」
佳子「ああ、そうかも」
僕 「それに、昨日の続きの今日ではなくてね、明日に続く今日にしないと」
佳子「うん」
僕 「天気予報はいつも、明日があるから」
佳子「あ、明日があるさ、だね」
佳子さんは、昭和の名曲の題名をつぶやいた。
これも、あの「涙をこえて」を作った中村八大先生の作曲だ。
つくづく、縁のあるものが出てくる。おかしなくらいに。
僕 「じゃあ、また横になろうか」
佳子「うん」
僕たちはようやく、洗面所を後にした。
洗面所はすっかり冷え切り、板の間の廊下はさらに冷え切っていた。
僕たちは元日の郵便受けに年賀状をとりに行く人のように、いそいそと歩いた。
部屋に着き、僕たちはまた分厚い布団にもぐりこんだ。
それはまるで、築地市場のラーメンの厚切りチャーシューの下に、
もやしのような具がもぐりこむような感じだった。
佳子「ねえ」
僕 「うん」
もやしたちの会話が、また始まった。
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