第50話

僕はその状況にギョッとした。こんなこと、してはいけない。

僕はあわてて佳子さんから離れた。



手には、佳子さんの肩のふわりとした筋肉の感触が残った。

女の子って、柔らかい筋肉をしているけど、

佳子さんは特に柔らかいような気がした。

と同時に、僕は神様に触れてしまったような気がして、いけないと思った。



そして、ふと鼻をひくつかせた。


これまで僕が知らなかった、ものすごくいい匂いがした。


高校生のときに楽しみだった、予備校の隣の席に座ってくれた時の匂いとは、違う。

そして、代々木のバーガーで貸してくれたハンカチの匂いとも、違う。

初めて僕が感じる、新たな匂いだった。


この新たな匂いは、僕の心と本能の芯に届いてしまった。

この匂いは、神様の匂いなのか。

この匂いは、僕が佳子さんのエリアに踏み込んだことを知らせるアラームなのか。

この匂いは、不用意に嗅いではいけないものなのではないか。


もし嗅いだままにしたら、いろいろな意味でまずい。僕はおろおろした。



佳子「どうしたの」

僕 「あの、あの、あの、失礼しました」

佳子「ほらまた敬語」


佳子さんは、えづいた後でも突っ込みは健在だった。

この人の切り換えの速さは漫画のようだ。


僕 「ああ、ごめん」

佳子「うふ」


佳子さんは謝っている僕を、ペットを見つめるような温かいまなざしで見つめた。


そうか。僕は神様・佳子さんのペット、つまり狛犬のようなものか。

だからワンコと名づけたのか。僕はまた少し合点がいった。


僕 「あの、大丈夫」

佳子「大丈夫。ありがとう」


佳子さんの目にはまだ涙がにじんでいたものの、笑顔が少し戻っていた。

この顔、かわいいなあ。少し、見つめてしまった。



あ、また

「こらっ、女の子のこと、ジロジロ見ちゃいけないんだよっ」が来る、

と僕は思った。




ところが、違った。



佳子「あ、見ちゃダメ」



そう言うと、佳子さんはパッと両手で顔を隠し、少し顔をそむけた。



僕 「え、なんで?」

予期しない台詞がきたので、僕は少し戸惑った。



佳子「だって、すっぴんなんだもん」



ええ。


まったく気づきませんでした。

どのへんがすっぴんなのですか。

というか、いつからすっぴんなんですか。


3つのうちどれを言おうか、迷った。その末に聞いた。



僕 「いつからすっぴんなの?」

佳子「寝る前から」

僕 「そうなの?全然気づかなかったよ」

佳子「えー、すっぴんって全然違うのよ」

僕 「どこが」

佳子「…まつ毛をとったの」



そう?

僕はまったくわからなかった。

さっき涙がにじんだ目を見たけど、全然気づかなかった。


そんなにまつ毛、重要なんですか。

僕は聞こうとと思ったが、重要なんだからこだわっているわけで

あまり聞いても意味がないと思った。そこで、話題を変えた。



僕 「さっきみたいに、吐き気がすることって、よく、あるの?」

佳子「あるの」

僕 「たまに、突然、くるよね」

佳子「そう、私も」

僕 「5分か、かかると10分くらいは続くよね」

佳子「うん。悩みをこなす時間と同じくらいかな」



僕はまた小さな発見をした。

僕も、嘆いたり悩んだりするのは5分まで、と決めているけど、

たまに10分以上かかることがある。


この吐き気・嘆き・悩みスパンも、佳子さんと僕は一緒なのか。

僕はまた少し、うれしかった。



僕 「佳子さんも、悩むの?」

佳子「そりゃ、悩むわよ」

僕 「こんな、頭いいのに?」

佳子「頭なんてよくないよ。記憶のメモリーがちょっと広いだけ」

僕 「ちょっとどころじゃあ、ないよ」

佳子「そんな差はないわよ」



佳子さんは、謙遜していると思った。


そういえば、昔、佳子さんが予備校のチューターだったときに、

あまりにかわいいので予備校のパンフレットで、モデルになっていたな。

もう大学生なのに、高校生の生徒役で。

予備校は佳子さんを何年も使い回した。


その当時の佳子さんと、今の佳子さんは、あまり変わらない。

それはすごいことなんですよ。

僕はよほど佳子さんをほめたかったが、また謙遜するだろうと思ってやめた。



僕 「じゃあ、どんな悩みなの?」

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