第49話

佳子さんは、どこにいるのか。僕は、とりあえず立ち上がった。

部屋の中にある板の間の廊下に出て、奥に進み、洗面所のドアが近づいてきた。

うめき声はそこから聞こえていた。

僕は迷わずドアを開けた。


すると、床に這いつくばるようにして、浴衣の少し乱れた佳子さんがいた。


僕「佳子さん!」「大丈夫?」


僕は急いで声をかけた。

しかし、佳子さんは、「うー、うー」と言ったままだった。

目には涙が浮かんでいた。僕は、佳子さんを抱きかかえた。


僕「佳子さん!」「佳子さん!」


佳子さんは、吐きそうになっていた。

佳子さんは「うっ」と言ってえづいた。


僕「鼻で、息して。すーっと」


僕は思わずそう言った。

僕も、予報が外れたとき、たくさんのお客さんの前に立ったとき、

大きな決断をするときに、急に吐き気を催すことがある。 


そんなとき、坂の上テレビの先輩が教えてくれたのが

「鼻からすーっと息を吸う、ゆっくり息を吐く」

という方法だった。


先輩によると、これは自律神経に働きかける方法だ。

自律神経とは、無意識のうちに働いている神経のことで、

内臓も自律神経で動いている。自分の意識で動かすことはできない。


その自律神経に働きかけられる動作が、呼吸だという。


特に鼻から呼吸をすると、深く息を吸ったり吐いたりできるので、

自律神経が落ち着く、というような話だった。


佳子さんは、食あたりではなさそうだったので、

僕はこの方法を勧めた。


佳子「そうね。ワンコちゃん、あ、ありがとう」


佳子さんはそう言うと、鼻で大きく息をし出した。

掃除機のように息を吸い込み、ファンのように息を吐き出した。


佳子「はあ」「うう」


少し落ち着いたが、まだ軽くえづいている。

僕は部屋に戻って、大きな魔法瓶にあった冷水を湯のみにくんで、

また洗面所に戻ってきた。


僕 「飲んで」

佳子「うん」


佳子さんは、湯のみを抱えるようにして、飲み干した。

そこでまた、鼻から大きく息を吐き出した。


そういえば、風呂上がりに

佳子さんのスマホのカバーを開けてみてしまったとき、

「もっと 鼻息」と書いてあったのは、この吐き気対策のためだったのか。

僕は推測した。


スマホにわざわざ書いておくくらいだから、相当意識しないとできないのだろう。

あるいは、よほど吐き気が来るのが怖いのかもしれない。

僕は佳子さんの苦しさを慮っていた。


佳子「ごめんね、ワンコちゃん」

僕 「ううん」

  「落ち着いてよかった」

佳子「ごめんね」

僕 「ううん、僕もなるから」

佳子「ワンコちゃんも、なるの?」

僕 「うん、緊張したときとかね」

佳子「そうなの?」

僕 「うん」

佳子「これも、ワンコちゃんと一緒だね」



吐き気はよくないことだけど、

僕は佳子さんが「これも一緒だね」と言ってくれたのがうれしかった。



ふと、佳子さんを見た。

よく見たら、僕は佳子さんの肩を抱いていた。


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