第28話

すると、開けた小さな扉の中にはさらに小さな鏡があり、

鏡の下辺には「smile」と小さく文字が書かれていた。

そしてその文字の横に、白く細いシールが貼られ、

「もっと 鼻息」と書かれていた。


「もっと 鼻息」?僕には意味がわからなかった。

佳子さんになぜ鼻息が必要なのだろう。僕には見当もつかなかった。


すると、遠くからパタパタとスリッパと床がついたり離れたりする音が聞こえてきた。

まずい、佳子さんが帰ってきた。

僕はあわててスマホケースのスナップボタンを留めなおし、スマホを机の上に戻した。


戻した瞬間、佳子さんが「ただいまあ」と言って、部屋に入ってきた。


その様子を見て、僕は息を飲んだ。

糊の効いた、ぱりっとした白地に紺の模様の入った浴衣の佳子さん。

その肩を少し追い越した黒髪は、

上手に後頭部にまとめ上げられ、ひとつの楕円のまとまりを作り、

絶壁をうまく隠していた。


そして、黒髪に遮られて見えなかった白く若い首筋が、

きれいな稜線をたたえていることがわかった。


さらにその稜線は、硫黄泉でほどよく暖められ、わずかに薄い桜色をまとっていた。

まるで、後姿という山並みに、山桜が萌えているような風情だった。

僕には、この寒い箱根の峠の宿に、一気に春が訪れたような感じがした。


佳子「こらっ、女の子をジロジロ見ちゃいけないんだよっ」

僕 「あ、すみません・・・」


代々木のバーガーと同じ台詞が、また繰り返された。

僕はどうしても、佳子さんの掌の上に載せられ、時に叱られてしまう。


思えば最近、誰かの掌に載せられたことなんて、なかった。

30代のころからか、周りはみんな

僕をいい大人だと思っているらしく、

つかず離れず、無責任かもしれないと思われるくらいの距離でしか

つきあってもらえなかった。

当然、がっつりと掌の上に載せられることなど、ない。



以前聞いたことがあるが、

人は、最初に出会ったときの年齢でずっと人を見続けるという。


だから、生まれたときから見続けている親からすれば、子供はずっとゼロ歳児だ。

逆に、大人になって初めて会った人は、それ相応に対応してもらえる。


佳子さんの場合、初めて会った僕はグレた高校生だったわけだから、

僕はずっと17、18歳。つまり、お子様扱いのままだ、というわけか。


こうした状況に、

少し前の僕だったら「お子様扱いするな!」と怒っていたことだろう。


しかし、今の僕はかえってお子様扱い、

つまり、掌の上に載せてもらっていることが新鮮で

少しばかりのさわやかさすら感じていた。


それは、僕が達観した大人になったということなのか。

それとも、単に恋心に翻弄されているバカな高校生役にすぎないのか。

あるいは、僕にもまだ希望があるということなのか。


僕にはまだ、わからない。

僕はわからないため、きょとんとした顔をしていた。



すると、佳子さんはまた、笑ってくれた。


この空気、やっぱり23年前と、

それから、代々木のバーガーで再会したときと、まったく同じだった。


他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。

ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、

僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。


僕はなんて幸運なんだろう。

23年も経って、こんな時間を過ごせるなんて。


いや、神様が、23年前に戻してくれたんだ。

タイムマシンに乗ったみたいなもんだな。

タイムマシンって、あるんだな。

ネコ型ロボットのアニメみたいで、すごいな。



代々木のバーガーで思ったこととまったく同じ思いが

また、繰り返された。


僕をあっちこっちに揺すぶって、

何度も前と同じ思いを味わわせて、引き続き僕を掌の上に載せている。


僕はもはや、佳子さんのペットのようなものだった。


そうか。だから、僕をワンコと名づけたんだな。


しかし、僕はペットで十分だった。これ以上、複雑なことを考えずに、

このまま佳子さんのそばに寄り添っていられれば、心地いい。

僕は今までにない感情を持ち始めていた。


そんなことを考えているうちに、佳子さんは風呂から持ってきた洋服などを

スペードのマークのついたバッグにしまいこんでいた。



「ねえ」


佳子さんがこちらを見ずに話しかけてきた。

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