第12話


平成29年2月。



みわちゃんとの微妙な日々は、まだ続いている。


別に別れを切り出されるわけではないが、

かといって、居心地のよいことはまったくなく、

僕の世界は、かなり狭くなってしまったような気がした。


みわちゃんは淡々と、そして僕も淡々と生活していた。

お互い、めんどくさくならないように。



さて、きょうは泊まり勤務だ。

天気予報は、こんなにワークライフバランス、

働き方改革を重視する世の中にあっても

やっぱり24時間営業なので、僕は月に1回くらい坂の上テレビに泊まる。


でも、泊まりの後は、気分を切り換えたくなるので、プチ旅行に出かける。

僕のお気に入りは、だんぜん箱根だ。

新宿がホームグラウンドで、箱根はサブグラウンド。

それくらい、箱根にはよく行っている。


子供のころ、父親のやっていた薬屋の組合の保養所に行ったころから

家族ドライブで通い始めた箱根。


それから、大学のときからは、正月に駅伝を見に行くようになった。

天下のケンと呼ぶのにふさわしい、急峻な地形と、美しい場所の数々。

社会人になってからも、箱根好きは変わらない。



特に、硫黄泉が出るところは最高だ。

硫黄のにおいがすると、なぜだか不思議にテンションが上がる。

匂いに引き寄せられるように、僕は箱根によく行っている。


ちなみに、きょうのみわちゃんは、

仕事が終わったら実家に帰ってお泊りだという。

だいぶ前に通告された。


今、みわちゃんにはちょっと会いたくないが、いないとちょっとさみしい。

泊まり明けで眠い目をこじあけて一人で家にいても仕方がない。


そこで僕は、箱根の峠のてっぺんにある、硫黄泉のあるところに出かけることにした。

僕はここにたまに行っている。


翌日は休みだから、一泊してのんびり帰ってくることにしよう。

僕はみわちゃんの通告のあとすぐに、てっぺんの硫黄泉の宿に予約を入れた。







平日の午前。


坂の上テレビを出て、新宿駅に向かう。

仕事に向かう人とは逆流して観光地に向かうのはなんだか得した気分だ。


新宿駅で、箱根湯本行きの切符を買い、僕はロマンスカーに乗り込んだ。



昔、小学2年生のときに、母親と一緒に初めて乗ったロマンスカー。


ロマンスカーには、客席まで飲み物を持ってきてくれるサービスがあり、

母親が、オレンジジュースを買ってくれた。

僕はロマンスカーに乗ると、いつもそのことを思い出す。



僕の家は、父親がいつも仕事に行って、留守ばかりだった。


母親は、いつも、同居していた祖母、つまり姑の目を気にして、

僕と2人で一緒に出かけることなんて、なかった。


出かけるときにはいつも姑がついてくるので、

母親はそのご機嫌伺いに精一杯だった。

時にはうまくいかず、悔し涙を流していた。


ところが、ある日、姑が友達と旅行に出かけたため、

母親が、急きょ僕を箱根に日帰り旅行に連れ出した。


そのときに買ってくれたオレンジジュース。

華やかな服のお姉さんが、よそで淹れて、うやうやしく持ってきてくれた。

母親も、すごくおいしそうに飲んでいた。


「おばあちゃんには、内緒だからね」


そう言っていたのが、今も記憶に残っている。

それが、最初で最後の、母親と僕の旅行だった。


15歳のときに、母親は突然亡くなった。

突然の、心筋梗塞。48歳だった。


普通に生きていてくれたら、今、旅行くらい連れて行ったのにな。

普通に生きるって、難しいんだな。


母親の年齢にかなり近づいてきた僕は、

そんなことをきょうも思い、ロマンスカーに乗った。




海外からの観光客が多いためか、平日の午前にしては珍しく満席だった。


中国語や韓国語が入り混じる車内。

日本にいるはずなのに、なぜかアウェー感満載だ。

僕は、切符で指定された窓側の席に座った。


するとほどなくして、

白く輝くロマンスカーはミュージックホーンを鳴らして、

新宿駅を出発した。


新宿を出てすぐ、僕の思い出の代々木の予備校があるそばを

ロマンスカーは縫うように走り、一瞬で通り過ぎていく。


そして、代々木八幡の急カーブを通過するころ、

僕の隣の通路側の席の若い女性が

ひとつ前の通路側の席の若い男性とお弁当を分け合いながら食べ始めた。


ひとつ前の席の通路側の男性が、首をこちらに向けて、

後ろにいる若い女性に鶏肉を食べさせていた。


そうか、満席で切符が横並びでとれなかったから、前後にこの2人は座っているんだな。

前後でも一生懸命コミュニケーションしようとしているんだな。


いいなあ、昭和の新婚旅行みたいだ。



少し感激した僕は、

「もしよければ、僕、席、替わりますよ。

 せっかく一緒なんだから、前後じゃなくて、

 隣同士の方がいいでしょう」

と言った。


男性が「え、いいんですか」と言い、

女性も「ありがとうございます」と言ってくれた。


僕は喜んで席を変わることにし、荷物を持って、

窓側の席から、ひとつ前の通路側の席に移動した。




ひとつ前の通路側の席に入ったその瞬間、僕は凍りついた。


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