第9話


佳子さんも、滝のように、泣いていた。

僕は、ハンカチをとっさに返した。



僕  「すみません、泣かせてしまって」

佳子 「ううん」

僕  「すみません」

佳子 「・・・」

僕  「あの」

佳子 「わたし、前ね、倒れて、苦しくて、

    記憶が薄れた時期があったの」

   「というか、正確に言うと、

    記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、

    思い出せる思い出が少なくなっていたの」

   「それが苦しいの、悲しいの」

   「でも、この前から、石井くん一生懸命話してくれて、

    私も、少しずつ思い出すきっかけをもらって、思い出して、

    さっきの一言で急にパーンと開けて

    予備校での思い出がぐるぐるって巻き戻されてきたの」

   「思い出が少なくなっていく自分が、ディティールしかない自分が

   わたし、自分が死んでいくみたいで、悲しかった」

   「でも、いま、大事なことを思い出せた」

「私にも、こんな大事な時代があったんだなって」

   「人にやさしくしたり、好きだったりしたころがあったんだって」

「私も、生きていたんだなって」

「ありがとう、石井くん」


僕は、息を飲むばかりだった。


佳子さん、やっぱり、めちゃくちゃ苦しかったんだ。

つらい経験をして、若いころの思い出が思い出せず、

苦しんでいたんだ。


この、若く、つややかな風貌からは全く想像できない、

想像を絶する苦しさがあったんだ。

僕はうなだれるばかりだった。



僕  「そんなにつらい思いをしていたって知らずに、

申し訳ありませんでした」

佳子 「ううん。いいの。大事なこと、思い出せたから。ありがとう」

   「あたし、若い頃が、帰ってきたような気がして、うれしい」


ようやく、佳子さんに少し笑顔が戻った。

涙ではらした赤い目と、突き抜けるような色白の微笑みと。

よかった。佳子さんが笑ってくれて、うれしかった。

僕はとても、うれしかった。




その後、僕は佳子さんと、代々木駅に向かった。

僕はなるべく、ゆっくり歩いた。


すると、佳子さんはふと、鋭い質問をしてきた。


佳子 「ねえ、もし、私たち、つきあっていたら、

どうなってたと思う?」

僕  「うーん…」

   「申し訳ないんですけど、うまくいってなかったと思います。

    僕は子供だったから、

どう進めていいかわからなかったと思うし」

佳子 「うん。そうだよね。

私も子供だったから、きっとうまくいかないよね」

僕  「でも、恋ってうまくいかないことがあってもいいって、

    きょう、思うことができました。」

   「あと、何年も経って、

ようやく日の目を見る恋もあるって、知りました」

佳子 「そうそう。恋は愛とちょっと違うからね」

   「愛にならない恋って、たーくさんあるけど、

それがきっとどこかで役に立ってるから、

人生っていいんじゃないかなあって、思う」

僕  「そうなんですか」

佳子 「うん、恋にはだいぶ鍛えられたからね」


僕は、少し考えた上で、少しおどけて言った。


僕  「え、すると佳子さん、

そんなにたくさん恋をされたんですか!?」

佳子 「さあーね(笑) 広報を通して聞いてくださーい(笑)」



また、笑った。しかも、私をありったけの上目遣いで見ながら。

僕の身長が178センチなので、佳子さんとの背の差は23センチ。

近くもない、遠くもないこの間。ここに、すばらしい時間が流れていた。


くしくも、再会するまでにかかった年の数と同じ、23。

いいなあ、この距離、この間合い。



すると、佳子さんはちょっと真面目な顔になって、言った。



佳子 「実は私、就職のときに、坂の上テレビが第一志望だったんだよ」

僕  「え、そうだったんですか」

佳子 「でも、一次であっさり落ちて。ミーハーだけだったからね。

    それで志望してない会社に行って転職の繰り返しになったんだけど、

    石井くんが坂の上にいるってわかって、よかった」

僕  「そんな、僕の場合は、たまたま入れただけです」

佳子 「人生って、その、たまたまが大事なんじゃない?」

   「だから、石井くんは、私みたいに

    入りたくて入れなかった人の代わり、なんだよね」

    「代表なんだって思って、がんばってね。」

僕  「はいっ」



こんな話をしていると、すぐ代々木駅のホームに着いてしまった。


僕はここで、佳子さんに連絡先を聞こうかと思った。最初の電話も、非通知だったし。


でもすぐに、「聞いてはいけない」と思った。


これ以上、親しくなってはいけない、と思ったからだ。

僕には、みわちゃんがいるし。佳子さんには、旦那さんがいるし。



すぐに電車は来てしまった。


僕  「きょうはほんとに、ありがとうございました」

佳子 「いえいえ、こちらこそ。ありがとうございました」

僕  「代々木で出会って、代々木でお別れですね」


僕は、格好つけようとして、そんなことを言ってしまった。

すると、佳子さんは目を伏せた。

僕は、その場を取り繕うようにして言った。


僕  「あ、代々木駅で場面作るなんて、

映画の、あの、『君の名は。』みたいですね」

佳子 「あは、うん、かっこいいね、あの、」



佳子さんは、何かを言おうとした。

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