第2話
あの歌が、始まったからだ。
往年の名歌手が舞台に勢ぞろいして、
あの歌を、最後の全員合唱として歌い始めた。
「涙をこえて」。
僕が大好きな、歌だった。
最近、そういえばずっと聞いていなかったけど、この歌、あったなあ。
この歌は、昭和44年に作られた歌だ。
それなのに、平成生まれのJ-POPのように、AメロからBメロへの転換が明確だ。
昭和最後の年にこの歌に出会った僕は、
まだJ-POPなんて聞いたことがない世界の、中学生坊主だった。
そのときに聞いた、このAメロBメロを駆使した歌の鮮烈さ。
初めてゾクゾクした、AメロBメロの感覚。
Bメロが司令塔のようになって、サビにつないでいく。
そして、平成のJ-POPみたいなのに、
昭和40年代の希望あふれるルンルン社会、
この世でたった一度出会える世界がこれでもかというくらい、
明るく歌われている。
なんなんだこの歌は。
昭和と平成をつないでいる奇跡のカスガイなんじゃないか。
そんなことを思っていると、サビの後に、メロディーのキーがぐっと上がった。
僕はさらに、ゾクゾクした。
なんだろう、この感覚。僕は、どうしていいかわからなかった。
みわ 「ほら、チャンネル変えるよ」
僕 「あ、ごめん」
ちょっと放心状態だった僕に、わけのわからないみわちゃんが冷や水を浴びせ、
僕はほんの一瞬の昭和から、正気を取り戻した。
この日の「涙をこえて」から、
ゆっくりと近づく美しい彗星に、ひそやかに飲み込まれるように、
僕の運命は、動き出していった。
平成29年1月。
新年早々、手帳を落としてしまった。
幸い、年が始まったばかりで中身は何も書いていなかった。
書いてあったのは僕の名前と携帯の番号だけだった。
僕は、あまり気にすることもなかった。
また、気象庁にある本屋に行って買えばいいか、と思っていた。
ところが、数日後の夜のことだった。
家にいたところ、携帯が鳴った。
みわちゃんは、ヨガの教室の新年会だそうで、いない。
携帯を見ると、番号非通知だった。
坂の上テレビは電話交換機が古いか何かで、
いつもかかってくる電話は非通知だ。
「予報、しくじったかな。呼び出しかも。」と思い、電話に出た。
すると、女の人の声がした。
「あのう、石井さんの携帯ですか」というのが、第一声だった。
僕 「はい。」
女性「あのう、手帳をバスで拾ったんですけど。」
僕 「あ、そうなんですか。ありがとうございます。」
ずいぶん親切な、でも、変わった人だと思った。
僕だったら、仮に手帳を拾っても、
バスの運転手か交番に届けるくらいしか、しないだろう。
なんでこの人、わざわざ電話かけてきたんだ?
その理由は、ずいぶん後にならないと判明しないので、
とりあえず話を続ける。
僕 「そしたら、お手数なんですが、
最寄りの交番にでも届けていただけると助かります。
どちらの交番が近いですか」
女性「えっと、中野坂上ですね」
僕 「ありがとうございます。お時間あるときで結構ですので」
中野坂上だったら、新宿の僕の家から、わりと近い。歩いても行ける。
僕は珍しいことに、ありがたいな、と思って話を聞いていた。
女性に名前を聞くと、田中さん。ありふれた名字だねえ。
めんどくさくなくていいや。
ここまでの僕は、淡々と考えていた。
しかし、次の瞬間、僕は急に、悪寒がするような感じがした。
突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。
記憶のどん底から突然湧き出る、妙な感覚、
時代を乗り越えて何かが訪ねてくるような、
変な感覚を覚えた。
何だろう。
意外にも、それは、すぐにわかった。
「この人の声、聞いたことある。」
少し甘く、かすかにかすれた声。
ひょっとして、もしかして、あの人じゃないか。
いやいや、まさかそんな。そんなことあり得ない。
映画じゃないんだから。
それに、名前違うし。
女性「では、近いうちに中野坂上駅前の交番に、届けておきます。
失礼しました--」
電話が切られようとした。
まずい!
ここで言わないと、僕、また後悔する。
僕は、意を決した。珍しく、めんどくさい方に。
僕 「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください」
女性「…何ですか?」
女性は、不信感をたたえた声で応えた。
私 「あのう、大変失礼ですが、間違っていたら申し訳ないんですが、
ひょっとして、もしかして、
田中さんって、池田さんじゃないですか?」
僕は、祈るような気持ちで、話を持ち出した。女性は3秒黙った。
放送事故か?と思えるくらい、長い間だった。
間があけた後、女性はこんな一言を言った。
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