涙をこえて。
石井寿
第1話
平成28年8月27日 土曜日。
また、夜になってしまった。
「きょうも、おつかれさまでしたーっ」
僕は、石井という。
職業、気象予報士。
明日使うコメントを書き終え、僕は勤め先の「坂の上テレビ」を出た。
帰りのバスで、スマホを見るけど、
もう飽きた。
「あーあ、毎日つまんねーな。」
なんでか?
もう僕の先はあってないようなものだからだ。
このあと定年まで淡々と会社で
仕事をするのだろう。
女とも淡々とやるんだろう。
それで僕は死ぬんだよ。
というか、もう死んでるよな。
もうどうでもいいや。
これ以上いいことなんてないし、
女とこのあと結婚したら面倒くさいだけだし、
社会保障はどんどん厳しくなっていくし、
どんどん金を吸い取られて、おしまいさ。
それに、世の中と共存するのに、もう疲れた。
だって、何でもありすぎる。
それだけじゃなく、知りすぎている。
もののありすぎはまだ耐えられるけど、
知りすぎた世の中には、耐えられない。
僕はまた、いつもの嘆きをはじめた。
嘆いたり悩んだりするのは5分まで、
と決めているけど、
たまに10分以上かかることがある。
そんなことを思っていると、
バスが最寄りの停留所に着いた。
僕の大事なホームグラウンド、
新宿の片隅だ。
僕はバスを降りてずんずん歩いた。
ずんずん歩いても、何も進歩は感じない。
でも、歩くしかない。
歩いて、とりあえず家に帰るしか選択肢がない。
事前にLINEした時間通り帰らないと、うるさいからな。
白壁が一見美しい、でも、のっぺらぼうな、マンションに着く。
新しいように見えるけど、実は古い。
昭和のような人間の温かさやぬくもりが、ないからだ。
ここの住人は誰もあいさつなんてしやしない。
すれ違ってもみんなスマホを覗き込んで、
逃げるようにして去っていく。
しかし、ここからが、僕の本領発揮だ。
切り換えをすばやくして、相手対応仕様に入ろう。
よし。心の切り換えは1秒で済んだ。
家の鍵を開ける。
部屋の奥から、するりと僕のぺっぴんさんが現れる。
身長149センチ。
肩より長く伸ばしたまっすぐな黒髪を、
さらりさらりとなびかせながら、
色白の、まだメイクしたままの
つややかな表情でのご登場だった。
「おかえりなさあい」
僕の、いわゆる彼女であり、
結婚するかもしれない同棲相手、みわちゃん。
テレビに歌手としてそのまま出てもおかしくないくらい、かわいい。
みわちゃんは、僕より8つ年下だ。
僕が今勤めている会社で、受付をしている。
受付と予報士がなんでつきあっているのかというと、
受付からえらいお客さんを現場に案内してきたみわちゃんが
いっぱい僕に視線をくれたのが始まりだ。
会社の人の話によると、みわちゃんはモテモテで
いろんな男に言い寄られているらしい。
でも、僕はそんなことは知らない。
そんな情報を知っても仕方がない。
だから、みわちゃんがなんで僕に近づいてきたのかも、聞いていない。
それに、つきあっているのは会社では言っていない。
だって、めんどくさいから。
というか、最近つきあっているのもめんどくさいぞ。
こんなんで結婚したらやだなあ。
でも別れるともっとめんどくさいだろうから、やだなあ。
そんなことをおくびにも出さず
「みわちゃん、ただいま」と一応やさしく言っておく。
だってそうしないと、全てがめんどくさいから。
「お風呂、沸いてるよ」
みわちゃんは、やさしい。
でも、僕はなんだか満足できていない。
というか、何が満足なんだか
よくわからなくなっている。
そんなことを思いながら、
みわちゃんの沸かしてくれた風呂に入る。
いい具合に温まったので、
そろそろ出ようと思っていたら、
みわちゃんが、
脱衣場にある洗面所に入ってきた。
みわちゃんはそこで、延々と歯磨きを始めた。
さらに、ご丁寧に
糸ようじで歯間を磨き始めたようだ。
長いよ。僕、上がれないじゃん。
僕は風呂についている湯沸かし器の
リモコンのデジタル時計をじっと見る。
5分たった。今度は髪をいじり始めたようだ。
これが長い。
長い黒髪をいじるのには
長い時間がかかるが、それにしても長い。
10分経った。もう9時40分過ぎたよ。
いい加減にしろ!と、
浴槽のお湯をザバッと外にかき出す。
なんでこんなにいらついているのか、自分でもわからないけど、
とにかくいらっとして、
いらっとした分だけの水を
僕は思いっきりかき出した。
無反応。
でも、口で文句をいうとめんどくさいから、言わない。
でも、まだ、無反応。
しびれを切らせて浴槽のふたを
ばたばたと閉め始めた。
これなら退散するだろう。
でも、無反応。
もう、いい加減にしろ!
脱衣場にいてもいいから僕は出るぞ!と
ややセクハラチックなことを思って
思い切って風呂から出ると、脱衣場はもぬけのからだった。
どうやら、僕がザバっとやったときに、
彼女は脱衣場から出たようだ。
僕には聞こえなかっただけか。
いったい、なんなんだよ!
僕の怒りはさらに僕の中では増幅したが、
僕の外には見えない状態が続いている。
いや、続かせている。
だって、めんどくさいじゃん。
また、そんなしょうもないことを考えたが、
体を拭いて
みわちゃんのところに戻るときには
そんな感情はやはりおくびにも出さないよう、
また本能的にクールな表情をしていた。
みわちゃんはきっと、
僕をおとなしい人間だと思っているのだろう。
「彼、怒らないところが便利」って
友達にLINEしているところを
見てしまったからな。
さあて、部屋に戻るぞ。
よし。心の切り換えは1秒で済んだ。
部屋に戻ると、みわちゃんがテレビをつけていた。
NHKがついている。
ずいぶんにぎやかな番組だ。
画面に「第48回 思い出のメロディー」と書いてあった。
ああ、昭和の名曲を聞かせる番組だ。
ちょうど、北島三郎さんが「風雪ながれ旅」を歌っていた。
僕 「みわちゃん、ずいぶん渋い番組見ているんだね」
みわ 「今、たまたまつけていただけだよ」
「チャンネル変えるね」
僕 「うん」
そう言った瞬間だった。
「風雪ながれ旅」が終わって、
萩本欽一さんが出てきた。
ザ・昭和のタレントだ。
そして、司会の女優さんにうながされて、
萩本さんが
「それでは、ドーンといって、みよう!」と言ったのだ。
「ドーンといって、みよう!」
なんなんだ、これは。
あまりにもまっすぐだな。
昭和だ昭和だ。戦後だ戦後だ。
僕はちょっと面白かったので、
リモコンに手を伸ばしたみわちゃんに
「ちょっと待って」と言った。
僕 「どうせもう終わるんだから、
もうちょっと見る」
みわ 「変なの」
みわちゃんに「変なの」と言われて、
僕はちょっとだけ
気持ちにさざなみが立った。
しかし、その次の瞬間、
僕はもっと大きな波に襲われた。
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