風雲『松尾城』

 文禄4(1595)年7月。関白豊臣秀次は謀反の疑いがかけられ切腹。100万石にものぼる領地は没収となり、その秀次と連座する形で多くの家臣が追放=失業となったこの事件の事後処理にあたったのが石田三成。そこで三成は多くの秀次家臣の助命。牢人となったものを召し抱えることにより、自らの家臣団の拡充並びに失業者発生に伴う社会不安要因を抑えると言う一挙両独の施策を実行するのでありました。この結果だけを見ると三成が秀次を……。とも見ることが出来るのかもしれませんが、喧嘩の要因となったそもそもの原因は『秀吉に子供が出来たこと』によるものであったこと。もし仮に三成の讒言が切っ掛けであったならば、その事情を知っている秀次の家臣がすんなり三成のもとに集まり、実戦の舞台(関ケ原)で三成のために働くことは無かったことが容易に想像出来ることを思いますと、むしろ三成は秀吉と秀次の間に入って何とかしようとした。だからこそ三成の誘いにすんなり応じたのでは……。似たような事例は朝鮮の折での秀吉と恩顧の家臣の関係に似ている。秀吉に悪口を言うことが出来ないが故、三成に……。このことが徳川家康に付け入る隙を与えることになってしまったのでありましたが……。

 秀次家臣団を多数召し抱えた三成はその3年後。お家騒動を理由に所領を10分の1に削られ、雇用することが出来なくなったため蒲生秀行より解雇の憂き目に遭った蒲生家の牢人を採用するのでありました。『解雇』と記しましたが、三成のもとに集まった面々を見ますと、蒲生家先代の氏郷の初陣以来の家臣始め、小田原攻めで功を為したものなど解雇に遭ったと言うよりはむしろ秀行を見限って飛び出したもの(代が変わると……と言うこともあります)が多数であった。一時期、蒲生家に身を寄せていた島左近の存在も三成のもとに集う一つの切っ掛けとなったかもしれません。

 加えてこの頃になると漸く農民出身者や小姓スタートの三成生え抜きとも言うべき人材の成長。

 更には自分の意志で他家を辞し、三成のもとに転職して来たものなど拡充の一途を辿るのでありました。


 そんな三成家臣団を見て挙(三成)は、

(……でも今はそれ程必要とはしていない……。)

(かと言って左近や勘兵衛同様。いくさの場になったら必要となる人材である故、暇を出すわけにも参らぬ……。)

(左近と勘兵衛は見栄えのする『大将』である故、あのようなピンでの見世物として成立したのではあるが……。)

(蒲生や秀次出身の人物にそれだけのカリスマは無い……。)

(団体で集まれば……。)

(……待てよ……。)

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