雪の季節は春を待つ
「寒っ……」
季節の逆走。初めて体験するそれに、アタシの肌は早速悲鳴を上げていた。
由良の図らいか、それとも偶然か。冬の制服を纏っていてなおこの寒さだ。
アタシは、瞬く間に赤く染まっていく手をポケットの中に避難させた。そしてその偶然が、アタシの道標となる。
「紙……?」
藁半紙より厚く、硬い素材でできた紙は、学校で用いているノートのそれに他ならなかった。
折り畳まれた紙を取り出して、中を覗いてみる。すると、そこにはどこかの建物を示した地図が描かれていた。
ご丁寧に現在地も記されている。やはり、全ては由良の手のひらの上なのかもしれない。
とにかく、寄る辺のないアタシが頼れる場所はここだけだ。向かう以外の選択肢はない。
「えーと、ショッピングモールはっと……」
方角を探るために、地図と現実を見比べる。この場所で最も目印足り得ていたのはショッピングモールだったため、アタシはそれを探すことにした。
「右舷に目標発見」
地図内のショッピングモールを右に移動するため、紙をくるくる回そうとする。しかし、アタシはすぐにその必要はないという事実に気が付いた。
「目的地は北……つまり、このまま真っ直ぐ進めばいいわけね」
まるで、世界が由良に合わせて動いているみたいだとアタシは思った。そしてそれは、とても腑に落ちない。反抗することができない自分自身も含めて。
パレットのように様々な色を放つ電飾を纏った建造物を横目で眺めながら、アタシは車一台が通れる程度の暗い路地に足を踏み入れた。
目的の場所は思っていたよりも近く、少し拍子抜けだった。
焦げ茶色の木造建築は三角屋根で、大きさは一般的な家よりも一回り程度大きい。中が透けて見える扉には『OPEN』の文字が書かれた看板が吊るされており、その前には四段にわたる木の階段があった。
このファンタジーチックな建物には名前があるようで、地図には『カフェバー・ナハト』と書かれている。
初めてくる場所だったので不安もあったのだが、勇気を振り絞ってドアを開けることにする。
「いらっしゃいま……ああ──」
長い黒髪と、同じ色をした縁の眼鏡、色素の薄い肌。日の光が苦手そうなシルエットだが、決して痩せ細っているわけではない。
儚い男子と表現するのが適切な彼は、グラスを拭く手を止め、まるでアタシがくることを事前に知っていたかのような口調で何かを悟ったような言葉を口にした。
「愛染雪木葉さんですね? 話は有栖川さんから伺っております」
カウンターから出てきた彼は、ニコニコ笑いながらアタシの眼前まで移動してきた。
遠くからでも分かっていたことだが、接近するとその長身が際立つ。男性と接する
機会があまりなかったせいでもあるのだが、どうしても脳が警戒を促してしまう。
「申し遅れました。僕は
「愛染雪木葉……です」
夜──単独では滅多に見ない名前だ。この店のナハトという名前は、彼の名から与えられたものなのだろうか。
「あなたが来店した時に、渡しておいてもらいたいものがある、と有栖川さんから荷物をお預かりしています。今持ってきますので、どうぞお掛けになってお待ちください」
丁寧な物腰でテキパキと仕事をこなす夜。彼のような人がクリエイターになったら、きっと円滑に事が運ぶことだろう。
そんな妄想をしながら、アタシはカウンターの一番左の席に座った。
客と店員を隔てる低い敷居の向こうには、コーヒー豆や焙煎機が並べられている。
更にそこから通路を挟んだところには、洗い終えたコップやティーカップが逆立ちしながら隊列を組んでいた。
その隣に立てられた銀色の冷蔵庫には何が入っているのだろう。きっとそこには、乙女の楽園が広がっているに違いない。疲れた時には、是非とも堪能させてもらいたいものだ。
「お待たせしました」
二階から下りてきた夜の手の上には、スケッチブックとペン、彼のものに似た黒縁の眼鏡が置かれていた。
「眼鏡……?」
由良に視力の話をしたことはないし、そもそもアタシの目はかなりいい方だ。なので、眼鏡を掛ける必要はどこにもないように感じるのだが……
「ここは、愛染りりりを失った世界です。あなたは顔出しをしている身なのですから、外出時には目立たない程度の変装をしてください……だそうです」
「納得。ごもっともな意見ね」
「二階に、あなたの部屋と幾つかの洋服を用意してあります。当分の間は、ここを家として活用するといいでしょう。後、僕には今のようにタメ口で話してくださって構いませんので」
ついうっかり、いつもの癖で敬語を忘れてしまっていた。ただまあ、タメ口でいいということなら遠慮なくそのご厚意に甘えさせてもらうとしよう。
「その提案は願ったり叶ったりだけれど、あなたはそれでいいの? 何でもかんでも由良の言う通りにしちゃうと、狭苦しくなるんじゃない?」
「滅相もございません。むしろ、あなたのようにお美しい方と一つ屋根の下で暮らせるなど、夢のような話ですよ」
「そ、そう……?」
容姿について褒められることは少なくないのだが、やっぱり照れ臭い。こればっかりは、いつまでたっても慣れそうにない。
「はい。あっ、そうです! お一つ、コーヒーはいかがですか? ちょうど、いい豆が手に入ったんですよ!」
「ええ、戴くわ」
これから、何度もご馳走になるであろうコーヒー。早速、お手並み拝見といこうじゃないか。
こうして、棚に収められた本を立ち読みするのはいつぶりだろうか。
非の打ち所がないまさしく絶品のコーヒーを堪能したアタシは、夜の勧めに従って本屋を訪れていた。
その目的は、死後に刊行された『人造人間異世界に行く』を読むことだ。
由良が一人で創造した世界を覗き見することで、アタシ自身のモチベーションとする……これが、由良の考えている計画の一つらしい。
「よし……」
生前読んでいた作品の新刊を棚に戻して、本題の本へと視線を移す。
もう二度と続きが発売されることはないはずなのに、まだ人目に付く下の棚に配置されていることには称賛の言葉を贈るしかない。
陳列された九つの本。アタシは、何巻まで表紙を描いていたのだっけか。
見覚えのあるものは六巻までしかない。ということは、六冊目までイラストを担当していたわけか。だから、七巻からが未知の領域となるわけだ。
全ての巻をざっと流し見して、七つ目の束になった紙を持ち上げる。
「そう言えば、イラストレーターは誰になったんだろ……」
アタシがいなくなった後も、こうして表紙を描いている人間がいる。それは、あの由良が認めた人間が他にもいるということを意味していた。
寂しいような嬉しいような……不安定な感情を渦巻かせながらも、表紙に記された名前を目でなぞる。
「原作、イラスト……有栖川由良!?」
一人で? このイラストを……? いや、むしろあいつ以外はあり得ないじゃないか。だって、創造主であるはずのアタシですら一瞬考えてしまう程、このイラストは愛染りりりのそれと酷似しているのだから。
「……本っ当に何でもありね」
よーく見てみれば、まだアタシの領域には到達できていないことが分かる。まだ、僅かにキャラが生きていないのだ。
アタシだったら、もっと臨場感のある表紙を創造できる──こと絵を描くということに関しては、有栖川由良よりも愛染りりりの方が優れているという確証を得て、胸を撫で下ろす。アタシにはまだ、居場所があるのだ。
さて、得意分野で粋がるのはこの辺にしておこう。アタシは、有栖川由良の小説を読みにきたのであって彼女のイラストを見にきたわけではない。
あらすじや登場人物紹介を飛ばし、こことは異なる世界へと入っていく。
流石由良だ、引き込む力が尋常ではない。一分も経たないうちに、アタシは時間を忘れて読書に没頭する状態となっていた。
脳内に、眼前に世界が広がっていく。夢と現実の区別が付かなくなっていく。紛れもなく、アタシは物語の主人公となっていた。
「──止めよう」
半分読んだところで、アタシは現実世界へと戻ってきた。
その時にはもう、見たことのない世界を見た目には生気がなくなっていた。
だらりと垂れる両腕は意欲を失い、もう、指一本まともに動かせそうもない。
「──止めよう」
死んでいく身体に反して、脳だけはせっせと活動を続けている。たった今見てきた世界を、何度も何度も繰り返し映像として流し続けている。
有栖川由良の世界は美し過ぎた。美しくなり過ぎていたのだ。
そこに愛染りりりの入る余地はなく、逆に、触れることでせっかくの美を穢してしまうのではないかという感覚さえも芽生えていた。
届かない。もう、描けない。
これまで、何度も挫折して、その分だけ起き上がって歩み続けてきた。諦めないで立ち向かってきた。
そうできたのは、イラストを描くということがアタシの存在価値そのものだったからだ。
幼い頃から何年も描き続けて、やっと神の領域まで辿り着けたと思ったのに……神は、神であるために更なる成長を遂げてしまった。
そして、死に甘んじていたアタシは置いていかれてしまっていた。さながら、ウサギとカメのように。
ああ、世界が広がる。アタシには描けない輝きを放つ世界が、アタシを包み込んでくれる。
その温もりを感じた愛染りりりが放つ、最期の言葉。天才と謳われた絵師の遺言。愛染雪木葉は、それをしっかりと聞き届けた。
「──もう、誰かのために絵を描くのは止めよう」
神の書物を置いた神は、普通の人間として生きていくことを決心した。
─第一部 完─
絵師と作家の異世界革命《ワールド・レボリューション》 白鳥リリィ @lilydoll
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