灰色の嵐
相も変わらず、院内には静寂が広がっていた。
以前訪れた時との相違点は、受付前に並べられた椅子の上に、一人の人間が横たわっている点と、強い衝撃によって抉られたと思われる窪みができていることくらいだろう。
そしてそれらは、ルタイネによって詳細が明かされていた。
「ヴァーレ……」
地面に横たわるかつての仲間の姿を、アタシは直視できなかった。ツキアカリ荘との彼女と、ここにいる彼女の間に、一体どんな差が生じているというのか。
心臓が動いているか、息をしているか、生きているか。
そんな僅かな違いで、アタシの心は大きく動かされてしまったのだ。
「後で、ちゃんと弔ってあげましょう。今は、ヴァーレの死を無駄にしないために、勝利することだけを考えていてください」
「……そう、ね」
仲間の死──分かっていたことではあったが、その本質までは理解していなかったかもしれない。それが、こんなにも悲しいことだったなんて、ここまでの怒りが湧き上がってくるだなんて、そんなの、知っているはずがなかった。
「ルタイネ、地下へと続く道まで案内して」
「それは構いませんが、どうして地下に?」
「与えられた情報から、黒幕は地下にいると推測しただけよ。それに、上はもう大体探索し終えているんでしょう?」
「診察室などはまだ覗いていませんが……わざわざ狭い個室に座する理由などありませんし、芹架さんの言う通り、地下が怪しいですわね」
話は纏まったようだ。
ルタイネは、病院の最奥へと進み、右側にある細い道を曲がった。その先には、二つのエレベーターがあった。
ルタイネが、下矢印ボタンを押す。すると、すぐにエレベーターがやってきて扉を開けた。
全員が搭乗した後、エレベーターの扉を閉めたルタイネは、慣れた手付きでボタンを操作し、ロックを解除した。他の階を示すボタンと同じように、地下を指すそれも点灯を始める。
「これでよし、と……」
エレベーターが下降を開始するのを、全身で感じた。
「よく操作を知っていたわね」
「この能力のおかげですわ。実は、結構やんちゃしていましたのよ、わたくし」
胸に手を当て、得意気に話すルタイネ。何だか、ヴァーレの魂が宿っているみたいだ。
「やんちゃって、まるで愛染りりりみたいね」
「芹架さんはアタシの何を知っているんですかねぇ?」
「一週間丸々学校をサボったことで先生にお説教されて、逆ギレをした話なら聞いているわよ」
「誰から!? ねぇ、誰から聞いたのよそれ!?」
アイツか、アイツなのか!?
「お二人は、本当に仲がよろしいのですねぇ」
「その見開かれた瞳には、何が映っているのかしらね……?」
「勿論、真実ですよ」
「さいですか」
そんな雑談をしているうちに、エレベーターが地下に到着したみたいだ。
ゆっくりと開かれた扉の先にあったものは、収容所、或いは監獄のようにも見える、殺風景で冷たい空間だった。
「降りて右側の壁にある扉が、アリシアの閉じ込められていた部屋ですわ」
「あんまり知りたくない情報ね……」
「そうでしょうか。扉がこれですし、奥はかなり広い空間となっているはずですよ。それこそ、黒幕が潜むのに最適な部屋に」
……そこまで言われたら、諦めて先に進むしかない。
「ルタイネ、開けて頂戴」
「お安い御用ですわ、芹架さん」
「大活躍ですね、ルタイネさん」
「今まで足手まといでしたもの。そのツケを払うつもりで、頑張りますわよー!」
犬みたいで可愛い。
ルタイネが壁に設置されたテンキーを操作すると、扉の上で発光していた赤いランプが緑に色を変えた。
「凄いじゃないルタイネ。まるでスーパーハカーよ」
「ハッカーと言ってあげなさいよハッカーと」
まさか、ここで誰も覚えていないような死語を聞くことになるとは思わなかった。流石成人。昔のことをよく知っているなぁ。
「愛染りりり、後でお仕置きよ」
「何でよ!?」
「さ、開けますわよ」
テンキーの横にある『OPEN』と書かれたスイッチをルタイネが押すと、巨大な鉄の扉が音を立てて独りでに開き始めた。
中へと入っていくと、厚いガラスの壁と檻がアタシを歓迎した。それらには、ぶち壊されたという表記が一番しっくりくる風穴が空けられていた。そして、その奥にいたのは──
「ようこそ、私のお部屋へ──」
俯いていた顔を上げ、退廃の少女は満面の笑みでアタシ達を迎え入れた。
彼女の名を呼ぶよりも先に、後ろの道が閉ざされてしまう。
「扉が──!?」
アリシアは、瞳孔を開いて言う。
「いいところでしょう? ここには、腐るものなんて何もないの。私を拒絶するものが一つもないの。私の前からいなくなってしまうものが、肉が、獣が、植物が、魚が人間が人間が人間が、どこにもいないのよ──」
この空間には、本当に何もなかった。アリシアしかいなかった。
とても落ち着いた優しい声で、アリシアははしゃぐ子供のようにこの空間について教えてくれた。
「何不自由ない部屋なの」
不自由なんてものを感じられない部屋だから。
「理想的な環境なの」
彼女は、他の環境を知らなかったから。
「退屈もしない場所なの」
退屈を知る術さえも、ここにはないのだから。
「ねぇ、人間。人間はどうして朽ちてしまうの?」
人間による人間についての質問に、人間であるアタシは答えられなかった。
「どうして私は、人間を腐らせてしまうの?」
分からない。
「どうして私が、こんな十字架を背負わなくちゃいけないの?」
私が、何か悪いことをした? と、アリシアが続けた。
「ねぇ、教えてよ。全てがある、外の世界からきたんでしょう? だったら答えられるわよね? 答えてくれるわよね?」
アタシは、何も言わなかった。
「──ねぇ、人間。私ね、スピーカーの解除方法を教えてもらったの」
突然変貌した会話の内容に、頭が困惑した。
「とても簡単なことだった。一回で覚えられた。どう? 凄いでしょう?」
アリシアが歩み寄ってくる。
「そうだ、メアドを教えて? 私の電話帳、まだまだいっぱい入るから」
また一歩、迫ってくる。
「最近は、SNSとかいうものが流行っているらしいんだけれど、まだやり方が分からないの。だから、教えて?」
死が、少しずつ近付いてくる。
「──何か言って?」
「“泡沫の門 《ミラージュ・ウォール》”!」
モカとの戦いの時に見せた、芹架の透明な盾。それが、千切れんばかりに波打っていた。
「この様子だと、一〇秒が限界ね……その間に、何か対策をして頂戴!」
そんな無茶な! アリシアに出会った時からこの瞬間までの時間を使っても、一つとして対抗策が思い浮かんでこなかったというのに。
しかも、密室という状況が、どこにも安全圏がないという状況が絶望の極みだ。
「必中必殺の攻撃……神ですら、この状況を打破するのは困難でしょうね」
「それでも、やるしかないじゃない……神を越えるしかないじゃない……!」
スケッチブックを開き、希望を探す。
せっかく用意しておいた対アリシア用最終兵器も、こうなってしまってはまるで歯が立たない。
他のイラストなんてもっての他だ。
とどの詰まり、女神のスケッチブックには、アリシアの能力に立ち向かえるものが描かれてはいなかった。アタシは、描いていなかったのだ。
「問題の解決にはならないのですが、私が特攻をすれば、アリシアを殺すことは可能だと思います」
「ですが、ヴィヒレアさんが……!」
「それは違いますよ、ルタイネさん。私が飛び出すためには、一度芹架さんの能力を解除してもらう必要があります。幾ら私と言えど、物体をすり抜けるのは至難の業ですから」
泡沫の門が消える──それは、アタシ達がアリシアの能力に飲まれるということを意味する。そしてそれは、天国へと繋がる道でもあった。
「まず、皆さんがゾンビ化します。次に、私がアリシアを殺します。そして最後に、私がゾンビ化或いはショック死する……シナリオは、こんな感じになるでしょうね」
最悪ではないものの、バッドエンドの域を脱していない、後味の悪い結末だ。
読者は、そんなラストを望んではいない。
アタシは主人公にはなれないけれど、せめて、サブキャラとして──モブキャラとして、格好いい死に様を晒したい。
だから、諦めずに立ち向かえ、アタシ。スケッチブックは、イラストは、アタシを裏切ったりはしない。
最初のページに、描いたことすら忘れていたイラスト……と呼んでいいものか悩ましい作品があった。
それは、アタシの理不尽な怒りから逃れた、唯一の絵だった。
──女神の眼前で描いた闇。
インクが切れるまで塗ってやるというアタシの挑戦を断念させた、一面真っ黒のページ。
──これを切り離したらどうなるのだろう?
「残り五秒!」
よくないことが起きるかもしれない。何も起きないかもしれない。
それでも、発動させるしかなかった。
どうせ、このままではいいことなんて起こり得なかったのだから。
「なるようになれぇ!」
世界は闇に包まれた。
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