白馬の王子は片道切符
病院という場所は、直線に伸びる廊下に溢れている。
椅子と椅子の間でも通らなければ、真っ直ぐ歩くだけで目的地に到着することができるのだ。
この造りは、老人や初診の人間と同じくらい、ヴァーレにも優しい設計となっていた。
鉄の馬は、微塵も速度を落とさずに走っている。
こちらに向かって。御手洗院長の方に向かって。
「おい、止まれ! こっちには人質がいるんだぞ!」
御手洗院長は、あらかじめ用意していたのか、ポケットからメスを取り出して、わたくしの首元に先端を向けた。
鉄の冷酷な感触が、刃物の鋭利な感触が、首の皮膚を冷たくさせる。
「止まれ、留まれ、停まれぇ!!」
ヴァーレは、速度を緩めなかった。
自分のことをどうでもいいと思っているからだろうか。否、その反対だ。
ヴァーレは、信じてくれている。仲間だと思ってくれている。
だからこそ、危機には最速で駆け付けてくれるのだ。
「悪いわね、先生。でも、もう
「待て……待て待て待て! 殺す気か? 死ぬ気か!?」
「──どっちも違うわっ!!」
鈍い音がした。
初めて聞いたそれは、人体とバイクが衝突する時に発せられるものだった。
鉄の馬は、御手洗院長を顔に引っ掻けたまま院内を突っ切った。
石の壁とバイクが接触する時に鳴る音が聞こえた。
それも、初めて聞く音だった。
「ヴァーレさん……ヴァーレお姉様!!」
大きな窪みをその身に刻んだ壁は、ヴァーレによる特攻のダメージの大きさを体現していた。
ここまでの威力だ、防御側だけでなく、攻撃側にも相当の負担が掛かっているはず。
もしかしたら、もう──
そんな言葉が頭を過った時、舞い踊る砂埃が、一つのシルエットを浮かび上げた。
激しいスモークから出てきたのは、血塗れのヴァーレだった。
「お姉様!!」
「誰がお姉様よ……」
意識は朦朧とし、目に光はなく、骨は何本折れているのか分からない。そんなボロボロの状態で、ヴァーレは歩いていた。
どうにかして、肉体に意識を戻してやらないと……!
そう考えたわたくしは、秘密にしてきた過去を、現実を暴露することに決めた。
「ずっと言えずにいましたが、わたくしはあなたのことを存じ上げておりましたわ! ヴァーレお姉様も、ヴァルお姉様のことを覚えていてくれていますよね!?」
ヴァーレは何も答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。
今の彼女は、ただ徘徊するだけのゾンビと同じだ。
何の目的もなく、理由もなく、ただ、何となく歩いているだけ。たまたま、こちらに向かって歩いてきているだけなのだ。
「お姉様、今すぐ横になってくださいまし! その傷で動き回るのは無謀ですわ!」
ヴァーレは止まらない。鉄の馬のように、進み続ける。
そして遂に、ヴァーレは目の前まで迫ってきた。
「お姉様……」
「
遠くにいた時には見えなかったメス。ヴァーレはそれを、なけなしの力で振り下ろした。
ケーキのように切れたロープは、地に落ちて広がった。
同時に、ヴァーレの身体も前に倒れ始めた。
「お姉様……!」
脱力した人間は、こんなにも重くのし掛かってくるのかと、王子の身を抱き抱えた姫は思った。
瞬く間に水気を帯びていく黄色いドレス──このままではいけない。
わたくしは、薬のある部屋に向かうために、過去の記憶を呼び起こした。幸い、当時の思い出はまだ色褪せていなかった。
「……待っていてください、お姉様!」
ヴァーレを床に寝かせ、薬を求めて駆け回る。
背の高い棚の中に並べられた、無数の薬品達。今回は、彼らに用はない。
確か、この上にあるロック付きの入れ物の中に、御手洗院長渾身の一作が眠っていたはずだ。
テーブルクロスと化した沢山の書類を床に落として、なお重い机を棚に寄せる。
その上に立ったわたくしは、御手洗院長の宝箱を目視した。
「これですわ……!」
手に取ったはいいものの、電子キーの解錠コードが分からない。
「一体どうすれば……」
そんなわたくしの危機を察知したのか、全身にマナが巡る感触を覚えた。
今なら能力を使える──!
箱を持ち、すぐに部屋を飛び出す。そして、意識を集中させて能力を発動させた。
「解錠コードは、御手洗院長の電話番号……!」
偶然か、はたまた必然か。脳内には、ヴァーレではなく御手洗院長の記憶が流れ込んできた。
すぐさまそれを入力し、解錠する。
箱の中には、透明な液体の入った手のひらサイズの瓶があった。
「お姉様ー!」
全速力でヴァーレのところまで帰ってきた。後は、これを掛けるだけだ。
薬液が溢れないように入れられていた栓を抜き、少しずつヴァーレに中身を浴びせていく。
効果の程は言うまでもなくある。あの院長は、この分野においては天才だったのだから。
「起きて……起きてくださいまし……!」
両手を結んで神に祈る。目を開けてほしいとヴァーレに願う。大丈夫だと自分に言い聞かせる。
しかし、現実は無情だった。
神は祈りを聞き届けなかったし、ヴァーレは目を覚まさなかった。御手洗院長の知を以ってしても、大切な人を救うことはできなかった。
「どうして──どうしてあんな無茶を……!」
今になって、神は力を貸してくれた。わたくしに、過去を見せる力を与えた。
崩壊したビルによく似合う、銀色のバイクがあった。それには桃色の髪の乙女が跨がっており、スマホを使って誰かに語り掛けていた。
相手は、何も答えなかった。
悲しい彼女の表情から推察するに、通話相手は返事ができない状況に陥ってしまっていたのだろう。
少女はスマホを切って、ポケットの中に仕舞った。
「
鉄の馬が、世界を威圧するように吠えた。
「ヴァル……
ヴァーレは目を閉じ、友を思った。もしかしたら、ヴァルの滅茶苦茶な行動論を、破茶目茶な態度を、破天荒な最期を思い出していたのかもしれない。
「──行くわよ、鉄の馬!」
ヴァーレの呼び掛けに答えるように、鉄の馬は爆音を奏でながら真っ直ぐ走り始めた。
アキハバラ中央病院が視界に映ったまさにその時、無数のゾンビが彼女を襲った。いや、鉄の馬の逆鱗を前に、為す術なく倒されていった。
「どけどけどけー!」
更に加速するヴァーレ。その目は、足元に迫る脅威を捉えることができなかった。
地面を両断するように敷かれた、数センチメートル程の刃が付いたトラップ。鉄の馬は、それを踏んで宙を舞った。
「やば……!」
暴れる鉄の馬に必死でしがみつくヴァーレ。彼女は、ある変化を察した。
「鉄の馬……?」
鉄の馬が、眩い光と共に形を変え始めたのだ。
その姿は、わたくしが実際に目撃した鉄の馬と同じシルエットだった。
「ほぉ、それでも落馬しませんか!」
喋る影は、それだけを口にして姿を消した。
一度は落ちそうになったものの、ヴァーレは何とか鉄の馬の変化に対応した。こういった姿を見ていると、二人が過ごした時間の長さを実感できる。
片方が変わってしまっても、もう片方が離れていってしまったりはしない──人とモノではあるが、これはとても美しい友情だ。
ヴァーレは声に反応して、一旦停止をすることに決めた。
だが、その意志は鉄の馬によって否定された。
「ブレーキが利かない……!?」
形態を変えたことによって、故障してしまったのだろうか。何度ヴァーレがブレーキを引いても、鉄の馬は速度を落としはしなかった。
それどころか、少しずつ加速していっているようにも見える。
一瞬覗いた困惑の表情は、まるで嘘であったかのように蒸発した。
「いいわ。あんたがその気なら、とことん付き合ってあげる!」
ヴァーレは、ハンドルを捻った。加速したのだ。
目の前には建物があるのに。決して越えられない壁があるのに。
その無謀過ぎる様を、この目はどこかで見ていた。この脳は、どこかで記憶していた。
わたくしは思った。この人は、滅茶苦茶なで破茶目茶で破天荒だ、と。
独り立ちしていた意識が、過去から今へと戻ってきた。ヴァーレの意識も連れて。
「ルタイネ……だい、じょぶだった……?」
「お姉様……!?」
予想だにしなかった出来事に、わたくしの頭は真っ白になった。
「
口が乾燥する。鼓動が速くなる。
──とにかく、手を握ろう。何も描かれていないスケッチブックのようになった脳に、色を与えていこう──
「はい──はい! とっても、格好よかったですわ……!」
「
わたくしには分かる。ヴァーレが、誰を尊敬しているのかを。
「なれていましたわ。妹のわたくしが言っているのですから、間違いありませんわよ!」
にっこり微笑みながらそう言ってやると、ヴァーレは少しだけ驚いたような顔を見せた。
「そう、だったのね……道理で、懐かしい感じがすると思ったわ……」
「二人でツキアカリ荘に帰って、いっぱい姉のことについて語り合いましょう! 格好よかったことも、呆れたことも……全部!」
ヴァーレの返答が、遅くなっていく。
「あは……いいわね、それ……」
ヴァーレは、悲しそうに微笑んだ。それから、何よりも純粋で、真っ黒な言葉を放った。
「二ケツ、したかったわ……」
息が詰まった。胸が張り裂けそうになった。涙が、止まらなくなった。
絶対に二ケツをしよう──ヴァーレと交わした約束が、自分から持ち出した誓約が、今になって歯向かってくるだなんて思わなかった。
そしてそれを、ヴァーレは果たそうとしてくれた。果たせないことを悲しんだ。その優しさが、とても痛かった。
そして、その言葉が孕んだ彼女の自覚を、わたくしは理解してしまった。
「できますわ……絶対に、絶対に!」
心にもないことを、この口はベラベラと話した。
嘘で塗り固められたことを察していただろうに。それでも、ヴァーレは包み込むような声で言った。
「ルタイネは、優しいわね……」
これが、嘘を嘘と見抜いたからこそ出た言葉だということは、当時のわたくしは知る由もなかった。
気付けなかったわたくしは、ただ、愚かな自分を嫌悪し続けた。
「そんなことありませんわ……わたくしは、わたくしはっ……!」
何故こんなことを言ってしまったのだろう。どうして、死に行く人に『まだ生きられる』などと綺麗事を吐かしてしまったのだろう。
アフロディーテの形相をした悪魔の囁きをしてしまった自分が許せない。嫌悪感が止まらない。
「
心に直接話し掛けるような、とても耳に残る声だった。
「──生きて帰ること」
ヴァーレの身体から力が抜けた。抜けたはずなのに、握る手はどっと重さを増した。
「お姉様──お姉様ー!!」
叫んでも叫んでも、呼び掛けても呼び掛けても、もう、ヴァーレは反応を示さなかった。
「ああ……ああ!!」
人は、究極の哀しみに直面すると、言葉を失ってしまうのだと知った。全身が枯れ果ててしまう程、涙が溢れていくのだと分かった。
そんな時は、納得できるまで泣けばいいのだと教えられた。
涙を全て流して、悲しみを全部捨てたわたくしは、音を立てずに立ち上がった。
「──見ていてください、お姉様」
外は、内と比べて騒々しかった。
また、ゾンビの群れがやってきたのだろう。
──アキハバラ中央病院は……ヴァーレの肉体は、必ず死守する。
わたくしは、御手洗院長のいる方へと足を運んだ。
目的は彼ではない。彼に覆い被さる、じゃじゃ馬の方だ。
「……よくぞご無事で」
口から泡を吹き出して気絶している御手洗院長には、まだ息があった。
そんな状態の彼を見て言ったこの言葉は、皮肉ではなく本心だった。
「鉄の馬──わたくしにも、協力してくださいますか……?」
こんな扱いをされても、傷一つ付いていないハンドルに手をやると、まるで重りを付けられたかのように身体が重くなった。
それだけではない。全身からマナが、命が吸い取られているような激しい苦痛が、全身を蝕んでいるのだ。
ヴァーレは、ずっとこんなものに乗っていたのか。笑顔で、楽しそうに……
──だったら、わたくしだってやってみせる。だってわたくしは、ヴァーレが憧れたヴァルの妹なのだから!
「言うことを聞きなさい、この暴れ馬!」
油断していると、あっという間に殺されてしまいそうだ。
何とか二つのハンドルを握ることに成功したわたくしは、鉄の馬を後ろに引いて、一八〇度回転させた。
それから、椅子の上に跨がった。
「ぐっ……!」
直接神経に触れられているような痛みが、全身を走る。
まだ、鉄の馬は気を許してはくれていないようだ。
「鉄の馬……わたくしのマナは極上でしょう? 言うことを聞いてくれるのであれば、もっともっと飲ませてあげてもいいですわよ──?」
鉄の馬は、行動で答えを示した。吸収の手を緩めたのだ。
これなら、すんでのところで意識を保っていられる。
「いい子ですわね……!」
いい子には、ご褒美を与えなくてはならない。それが、淑女の嗜みだ。
「──よくってよっ!!」
鉄の馬の咆哮が、轟き反響した。
直後、外へと向かって進軍を開始した。
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