廃被りの少女

 広がる鮮やかな血と肉の海は、何度見ても慣れる気がしない。それはカミラも同じようで、手のひらを使って顔の下半分を塞いでいた。

「物知りさん、事態は思っていたよりも深刻かもしれないよ」

 くぐもった声でそう言ったカミラは、目の前に転がる死体に顔を近付けた。

「見て。この傷口、人間の口の形をしていると思わない?」

「言われてみれば、そう見えなくもないって感じね」

 たい焼きに齧り付いた時に生まれるU字が、人間の首元に作られていた。

「でも、共食いなんてする必要は無いんじゃないの?」

 ここは、食べるものが豊富にあるレストランだ。人数こそ多いものの、ルタイネがツキアカリ荘とアキハバラ中央病院を往復する時間程度ならば、容易に凌げるはずだが……

「人に噛み付くのは、何も空腹時だけじゃないよ」

「……例えば?」

「──攻撃」

 言われてみれば、噛み付く或いは噛み切るというアクションは、立派な攻撃手段だ。けれども、大量のゾンビが侵入してきたという緊急時に、仲間同士で争いをする程人間は愚かではない──大量のゾンビ……?

「ゾンビが──紛れ込んでいた……?」

 カミラは頷いた。

「ボクは、ゾンビがどういった経緯でああなるのかを知らない。だから、幾つか可能性を述べさせてもらうね。一つ。単純に、ゾンビが紛れ込んでいた。一つ。感染した者が紛れ込んでいた。一つ。内部でゾンビが生まれた」

「流石に、最後の選択肢は除外してもいいんじゃない? ゾンビは二階で攻めあぐねていたようだし、それに、このゾンビは退廃の少女によって老化、腐敗させられて出来たもの。ここにその子がいた可能性もゼロではないけれど、だったら何故避難を? って話になるわ」

「避難……ね」

 カミラは、別の遺体へと顔を寄せて、

「うん……やっぱり、ボクの推理は正しかったみたい。この人間は、明らかに他と比べて古い」

 つまり、ゾンビであるとカミラは言いたいのだろう。

「差し詰め、ゾンビが混じっていたことによって、人々は疑心暗鬼になった。その恐怖心から、殺し合いを始めたってところかな」

「筋は通っているわね」

 死から逃れるために集まった人間が、あろうことか、人間の手によって命を落とした……何という皮肉だろう。

「謎なのは、どうやって一人だけゾンビを紛れ込ませたのかだよね。見た目は同じでも、挙動がまるで違っていたし……」

 どれ程頭が回っていなくても、人間とゾンビの違いは一目見れば分かる。ヒヨコのオスメスを鑑別するのとはわけが違うのだ。

「とりあえず、これで何個かの問いに対する回答が得られたね。皆を待たせていることだし、そろそろ戻ろ?」

「待って……」

 今の声は、アタシのものではない。当然、カミラが声帯を震わせたわけでもない。この空間には、アタシ達の他に言語が話せる者がいるということだ。

「誰かいるの……?」

 テーブルの後ろから顔を出したのは、獅子舞のように長い白い髪を持った中学生くらいの女の子だった。幼い顔は血と不安に塗れていて、明らかに我々に助けを求めている様子だった。服を失ったのか、少女はローブのようにテーブルクロスを纏っている。

 怯える彼女をあやすように、アタシはこう話し掛ける。

「あなた、名前は?」

 奇跡の生存者は答える。

「何がどうなっているの……?」

 ……質問するよりも先に、彼女の疑問を解決してあげないと話が前に進まないようだ。

「ここ、アキハバラ中央病院は、ゾンビによって侵略されたわ……って、この話は、あなたの方が詳しいわよね」

 少女の無反応が痛いが、話を続けさせてもらおう。

「それを解決するためにやって来たのがアタシ達ツキアカリ荘ってわけ」

 少女は、『ツキアカリ荘』という単語に過剰な程の反応を示した。

「ツキアカリ荘……ツキアカリ荘! 分かったわ、あなた達はツキアカリ荘の住民なのね!」

 見開かれた瞳に、裂けそうな程上がった口角。空気の変わる感触。ここにある全てが、アタシに警鐘を鳴らした。

「あなた、さっき私の名前を聞いてきたわよね。ふふっ……私はアリシア。ここ、アキハバラ中央病院を、腐臭で染め上げた張本人よ!!」

「全力で逃げてっ!!」

 外の手摺に立て掛けられていたカミラの盾から、真っ赤なマナの手が伸びてきてアタシの身体を鷲掴みにした。それはすぐに引き戻され、アタシが廊下に出ると同時に手を離した。

 直後、カミラが灰色のマナの波に飲まれ、消滅した。同時に、彼女の盾も塵と消えた。

「人間は、かくも脆い。すぐに、私の前からいなくなってしまう……」

 アリシアの声が、少しずつ大きくなっていく。

 ……このままではいけない。アタシは、脳に刻まれたカミラの言葉を実行に移した。

「アリシアがいたわ! 皆、外まで走って!」

 俳優でもないのに、周知されているその名を聞いたヴィヒレア達は、アタシに説明を乞うことも忘れて走り始めた。

 院外で、上手くヴァーレを拾えればいいのだが……と、未来のことを考えながら、アタシも落ちるように下の階へと駆け下りた。


 病院の外には、一台のバイクと一人の少女しかいなかった。あんなにもいたゾンビが、一人残らず排除されていたのだ。しかし、今はそのことに驚愕と感激をしている暇はない。呑気に欠伸をしているヴァーレに、気合を入れてやらねば。

「エンジンを掛けて! 逃げるわよ!」

「中で何があったのよ?」

「アリシアがいました。このままでは、私達も彼らの仲間入りですよ」

「アリシア!? しかも、何人か増えているし! あーもう、帰ったら詳しく教えなさいよね!」

 ヴァーレは、鉄の馬を吠えさせてそう絶叫した。

 アタシ達が、来た時と同じ配置に付くか付かないかといったところで、ヴァーレは鉄の馬に鞭を打った。

「これで一安心ですね」

「……相変わらず冷静ね」

 鉄の馬の速度にも慣れてきて、他愛のない話を交わせるまでになったアタシとヴィヒレア。その間に挟まれていた二人の少年少女は、ようやく目を覚ました。

「おはようございます」

 子供達は、ヴィヒレアの挨拶にこう答えた。

「うぁ……あ……」

 すぐに異変を察知したヴィヒレアは、迷うことなく二人を投げ捨てた。アスファルトの上で水切りをする二人は、鉄の馬から離れると同時にその身を二つに引き裂かれた。

「ちょっと、ヴィヒレア!?」

「二人はゾンビ化していました。このまま同乗させていたら、私もりりりさんもどうなっていたか」

「っ……それはそうだけれど!」

 人道的に、倫理的に、それは悪手以外の何物でもなかった。こんな綺麗事を言っていられる状況じゃないことは存じている。それでも、今のヴィヒレアの行動は、これっぽっちも理解出来なかった。する気すら起きなかった。

「本物の戦場には、法律も人権も存在しません。勝ったものが正義なのです」

 陳腐な言葉だが、とても身に染みる。だって、アタシの半分は、首を大きく縦に振っているのだから。

 穢れた自分に嫌悪感を抱いている最中、ヴァーレが急に、鉄の馬を停止させた。

「どうしたのです、ヴァーレ?」

「……気が付かないかしら? こんなものが転がっていたら、鉄の馬は道路を走れないわよね?」

 アキハバラ中央病院に向かう時に使ったのと同様の道なのに、今は鉄の馬が走れない……? 病院で戦っている間に、何か行く手を遮るものを配置されたということだろうか。

 アタシは、自分を責めるのを止めて、前方に意識を傾けた。

 倒れているのは、炊飯器のような形をした一メートルくらいの機械。それと、一時期爆発的に流行した平べったい円形の機械の残骸も散在していた。

「お掃除ロボット……ですわね」

 形状はその通りだが、どうも様子がおかしい。お掃除ロボットにアームはいらないし、それに、刃物や銃なんて論外中の論外だ。

「悔しいけれど、鉄の馬は押していくしかないみたいね。りりりとルタイネは、先にツキアカリ荘に戻っておいて。ヴィヒレアは、丸腰なアタシの護衛ね」

「ヴァーレさんがいないと困りますし、やむを得ませんね」

「決まりね! りりり、もしもの時は、ルタイネをしっかり守ってあげるのよ!」

「任せておいて!」

 大丈夫、まだ描き溜めたイラストはある。実験として描いておいた最終兵器カミラを失ったのは大きな打撃だが、そう何度も窮地に陥るとは考えにくい。

「よろしくお願い致しますわ、りりりさん」

 両手でスカートを持ち上げて、ルタイネは懇切丁寧に社交辞令を行った。

「こちらこそよろしく、ルタイネ!」

 破損パーツの山となった険しい道を、お姫様同伴で越えていく……まるで、気高き王子様にでもなった気分だ。アタシとしては、守られる立場の方になりたかったのだが、まあ、こっち側も悪くないだろう。幸いなことに、剣のイラストは描いてある。

「ツキアカリ荘に戻ったら、病院であったことを皆さんに説明しておいてください。それから、すぐに集会を始めるとも」

「聞き届けたわ」

「わたくしも記憶しました!」

 言うべきことも言ったし、聞くべきことも聞いた。一足先に、ツキアカリ荘に向けて旅立つとしよう。

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