集まれツキアカリ荘
「誰だ……?」
巣穴から顔を出すプレーリードッグのように警戒しながら、男性は開けた扉の隙間から顔を出した。睨んでいるわけでも怒っているわけでもない。彼は、とても力強い瞳でこちらを見ていた。
焔の色をした前髪は目の下まで伸び、紅葉のようになっている。登頂部は燃えるように逆立っており、こちらは山火事みたいだ。身体は筋肉質とは言えないが、努力が窺える程度にはゴツゴツしていた。整った顔立ちとは相反し、窺える襟首は青いジャージのそれと同じだった。うーむ、非常に勿体ない。
そんな赤と青を司る少年に警戒心を解いてもらいたく思ったアタシは、優しく彼に話し掛けることにした。
「アタシは愛染雪……りりり。少しの間、ここに泊めてもらうことになったの」
少年の顔から、夜のような重苦しさが消えた。代わりに、朝日のように柔らかな微笑みが宿った。
「俺はイネン。嬉しい限りだ、ゆっくりしていってくれ」
冷酷で無慈悲な性格をしていそうな外見だったが、内面は正反対らしい。色々と損をしそうなギャップだ。
イネンは扉を全開にしてから、右手を前に伸ばした。彼の意図を察したアタシは、それを右手で掴んだ。握手をしてやると、イネンの口はお皿の形になった。
「それはそうと、お前はアイマスクを付けたことがあるか?」
「へ!? ないけれど……」
アイマスクと言えば、快適な睡眠を促進したり、過酷な環境を必死に生きている眼球を休ませてくれるあのアイマスクことだろうか。突然飛び出した突拍子もない単語に、アタシは少々困惑してしまう。そんなものはお構い無しとでも言うように、イネンはぐいぐいと攻め立ててくる。
「なら、今すぐ体験してみないか!? 冷たくて気持ちいいんだぞ!」
「何でそんなに必死なの!?」
前衛で敵をばったばったと倒してしまいそうな容姿をしていながら、実はアイマスクの販売員だったとか……? これが訪問させる販売なのか!?
「アイマスクは本当に気持ちがいいんだ! 疲労が抜けていくあの快感は、とても代替できるようなものじゃない! 俺は、この安らぎを、一人でも多くの人に味わってもらいたいんだ!」
セールスマンの熱意は伝わった。アタシの心はアイマスクに関心を持ったし、少しなら体験してもいいとさえ思えている。だが、欲求をぶち撒けるのはまだ早い。次のことを聞かなければ、一瞬で絶望の淵に叩き落とされてしまうだろう。
「……でも、お高いんでしょう?」
「バカを言うな。俺の目的はアイマスクの布教だ。お代なんて頂戴するはずがないだろう」
お値段なんと無料! 無料ですよ! 今がチャンス……ではあるのだろうが、アタシにはまだ、やるべきことが残っていた。欲望に負けてアイマスク体験会に参加してしまったら、またヴィヒレアに迷惑を掛けてしまう。
「気持ちは嬉しいんだけれど、今は無理ね。今晩なら、もしかしたらいけるかもだけれど……」
「ああ、今晩でいい! 深夜でも早朝でもいい! 体験してくれるなら、他に何も言うことはない!」
「あ、あはは……じゃ、そろそろ次の人に挨拶しなきゃだから。またね……」
炎の髪は、内面から滲み出た熱意の化身か何かだったのだろう……
さて、これで二階の挨拶は済んだ。一人しかする人がいなかったため、「さて」と一息入れることには少々違和感があるが。とにかく、一階だ一階。アタシは、錆びを見せる鉄の階段を下りた。立ち並ぶ高層ビルといい、ツキアカリ荘そのものといい、この都市には既視感しか感じない。いつの間にか生き返っていたのではないかと、錯覚してしまいそうなくらいだ。
鉄、鉄、コンクリート。一階に辿り着いたアタシは、四つある扉のどこから攻略していこうかと指を差しながら考えた。
「どれにしようかなっと……」
神様は、最初に階段のすぐ隣にある部屋を消化するよう言ってきた。よし、左から右に移動していくプランでいこう。
アタシは、イネンの部屋にしたことと同じ動作を繰り返した。またもや足音がない。ツキアカリ荘の人は、全員忍者か何かなのだろうか……と思い始めていたアタシだったが、今回はイネンの時とは状況が異なっているようだ。足音など、聞こえるはずもない。だって中には、人なんていなかったのだから。
「あら、見ない顔ね。
桜の花びらが流れる川のように繊細な長い髪。登頂部から流れる桃色の花弁は、毛先に近付くにつれてローズへと色を変えていっていた。モデルのようにスラッと伸びた長身と、気が強そうなワインレッドの瞳が、形容し難い格好よさを演出している。似合ってこそいるものの、時代遅れな白い特攻服は止めたほうがいいと思うが。
手と頬を黒に染めた彼女は、ご機嫌な様子で自分の名を口にした。
「ヴァーレよ。よろしく!」
白く整った歯と、しっかり潤いを蓄えたピンクの唇。やんちゃな男の子のような笑みからは、大人の色気が湧き出ていた。
何故だろう、急に頬が熱くなってきた。心臓は弾み、息が苦しい。緊張を隠すことができない。
「あ、愛染りりりです。よろしくお願いします」
イネンと会った時に浮上した『ツキアカリ荘には変人しか住んでいない説』は、ヴァーレによって否定された。何だか、久々にまともな人と話した気がする。変な人に囲まれるという、イラストレーター冥利に尽きる環境にうんざりしていたところだったので、アタシは、まともな人間であるヴァーレに心を惹かれつつあった。
「りりり……変わった名前ね。でも、可愛いじゃない!」
「分かりますか、この名前の良さが!」
初めて出会った理解者。アタシの興奮は、最高潮に達した。
「ええ! エンジン音のように心が踊り、流れ行く景色のように美しい響きよ!」
……あれ?
「あっ、そうだ! 今、裏庭で
うーん、なんだろう……嫌な予感がする。
「
やっぱりこの流れだ!
「ま、また後で!」
もう話していられない。来るとは思えない未来に約束を取り付けて、ヴァーレから距離を取る。
「そう? しばらく裏庭にいると思うから、見たくなったらいつでもいらっしゃい!」
「は、はい!」
善意で言ってくれていることは分かっているのだが、アタシには逆効果でしかない。
あー、もう次に行きたくないと、アタシの本能は、もはや取り繕うことすら止めてしまった。手が湿っていくのを感じる。足が前に進もうとしない。種類は違うけれども、この感覚はモカと能登に対面した日に近い。もう一生更新されることはないだろうと思っていた逃走欲ランキングが、まさかこんな形で更新されてしまうとは思ってもみなかった。旅先で言うことではないが、今すぐ旅に出てしまいたい気分だ。旅をさせられている可愛い子の代わりになりたい……なんて、思っていても仕方がない。どうせ、今日中に挨拶をし終えなければならないのだ。だったら、早く済ませてさっさと忘れてしまった方が、気が楽というもの。全てを許せ、アタシ。隣人を愛すのだ!
左から二番目の扉の呼び鈴を鳴らす。ベルの音が、室内から漏れ出してくる。軽快な足音の後、茶色い扉は開かれた。
「お?」
ラノベの主人公のような、キザでツンツンの髪は、同じトゲトゲでもイネンとはまるで違う不潔なイメージを感じさせた。それに、悪い人特有の上がった細い瞼に収まる碧眼。制服に近い形をした黒と白の服に、ポケットに入れられたままの左手。どこをどう見てもダメ人間だ。しかし、彼の危険そうなところは容姿だけではなかった。次の発言が、その一例だ。
「金髪ツインテール! そして貧乳! ドストライクだわ、結婚してくれ!」
少年は、欲しいおもちゃを見付けた子供のように目を輝かせながら、初対面の
「貧じゃなくて並なんですけれど!? あーもう、やっぱり地雷じゃない!」
「ははは! ここの奴ら、変人ばっかりだもんな! 俺も人のことは言えないけれど!」
変人の自覚はあるらしい少年は、何を思ったのか、アタシのつむじを執拗に押しながらヘラヘラと笑っていた。不快で不思議な行動に不満を抱いたアタシは、その手を払い除けて怒号する。
「触らないで! アタシは愛染りりり! はい挨拶終了!」
「悪い悪い、あんまり責めすぎると、お腹が痛くなっちゃうもんな! 俺はトウカ。りりりちゃんは、どうしてここに?」
「スマホを買いにね! 友達が、CODEをやろうって勧めてきたから!」
どこに笑う要素があったのだろうか。トウカの口角は、何故か空を指した。
「そうかそうか! ここは電脳都市。機械を買うなら、アキハバラ以外あり得ないもんな!」
「そ、そうね……」
思考を誘導されている……? ラノベ主人公のような飄々とした態度を見せているが、それはトウカの本性なのか? アタシは、学校で心理学を学んでいるわけではないし、読心術を使えるわけでもない。ただ、本能的にトウカを疑っているのだ。この人物は、警戒すべき対象かもしれない。不本意ではあるが、監視の目を向けるとしよう。
「何じーっと見てくれてんの? あっ、もしかして俺の魅力に気付いちゃった? かーっ、イケメンは辛いぜぇ!」
もしこれが演技なのだとしたら、シェイクスピアも拍手喝采ものだろう。トウカの発言と動作は、どこまでも自然で果てしなく馴染んでいた。
「はいはい。じゃ、アタシは次の人に挨拶をしてくるから」
今のところ、トウカが危険なことを犯しそうには思えない。アタシは、できるだけ平静を装って、彼の前から立ち去ろうとした。その腕をトウカはがっしりと掴んで、アタシを我が身の方へと引き寄せた。息の届く距離まで引っ張ったトウカは、こんな言葉を耳打ちしてきた。
「最新機器には気を付けろ」
「それってどういう──」
「聞くな、近付くな、見るな。一つでも破れば、その胸にしゃぶりついてやる」
「自分で引き寄せたくせに……」
そんなことをされて喜ぶような趣味はしていない。アタシは、トウカの命令に従って、次の扉の方へと歩き始めた。
「おっと、そこには誰も住んじゃいねーぜ。更にその隣には大家がいるはずだが、まあ、居留守を使われるだろうな」
いつもの調子に戻ったトウカは、暗に、自分が最後の住民だということを伝えてきた。
ついさっきまで早く部屋に帰りたいという切実な願いを抱いていた心が、今は拍子抜けという単語を口にしている。やれやれ、ワガママな子だ。誰に似たんだか。
「じゃ、これで挨拶回りはおしまいね。今度こそさようなら、トウカさん」
「お? もう行っちまうのか?」
トウカに手を振りながら、地面の感触を足で感じる。平らで冷たいコンクリートが、アタシに何かを言ってくることはない。反面、鉄製の階段は、踏まれることを酷く嫌って、アタシの足が触れるたびに反響する悲鳴を上げていた。泣き虫なこの階段がある限り、アタシの部屋に忍び込むことはできないな、などと考えながら上へ進んでいると、左方から現れた大きな影と接触しそうになった。
「わっ!」
階段は、泣き声を一際大きく放った。しかも二度もだ。
後数センチズレていたら。後一秒、幸運の女神がよそ見していたら、アタシはコンクリートと押し競饅頭をすることになっていただろう。足先から、温度計のように痛みにも似た恐怖心が昇ってくる。すんでのところで踏みとどまったアタシに、影はこう話し掛けてきた。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
ヴィヒレアは、真顔の仮面を付けたままアタシに手を差し伸べていた。それを手に取り、二階へと戻る。
「あら、お久しぶりね、イラストレーターさん」
ヴィヒレアとは違うもう一つの影が、そう挨拶をしてくる。
「一時間ぶりくらいかしらねライターさん。どうやら、固く閉ざされた殻を強引に破られてしまったみたいね?」
「ちょっと眠かったから仮眠を取っていただけよ。引き籠もり万歳をしていたあなたと、一緒にしないでくれるかしら?」
一時間ぶりといったアタシの発言の方が正しいのに、このやり取りがとても懐かしく感じる。今回ばかりは、芹架の発言の方が真かもしれない。
ビシっと鼻の上に伸ばされた指に噛み付いてやろうとしたが、結果は猫じゃらしに戯れる猫と同じに終わった。
そんないつもの争いを仲裁したのは、真剣な表情──表情自体は一切変わっていないのだが、そんな雰囲気を宿したヴィヒレアだった。
「芹架さんから聞きました。りりりさんも、戦う力をお持ちなんですよね」
「ええ……何かあったの?」
「緊急招集です。ご足労おかけしますが、りりりさんも奥から二番目の部屋に来てください」
奥から二番目と言うと、誰も住んでいない部屋のことか。大家さんの隣みたいだが、皆を集めて怒られないのだろうか。
「他の皆さんには、CODEで連絡を入れてあります。なので、お二人に呼び掛けをしてもらう必要はありません」
ヴィヒレアは、それだけを伝えると、手摺を飛び越えて一気に目的の場所の前までショートカットをした。
「痛っ」
馬の蹄のような軽快な靴音と共に、情けない彼女の声がアパート中を木霊した。
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