弱き者

 世界樹と呼ばれる大木のところへ向かうべく、アタシと芹架は町中を横断していた。その最中、アタシは昨日までとは明らかに違う点について芹架と言葉を交えていた。

「ねぇ、何だが人の量が増えていない?」

 昨日は、いかにも最初の町といった見た目の人がちらほらいた程度だった。だが、今日はそこにクロムのような冒険者の格好をした人が大勢押し寄せていた。人々は緊迫したオーラを醸し出しており、どこかで事件、或いは事故が遭ったのだとアタシは推測した。

「野次馬に行っても邪魔なだけよ。私達は私達のやるべきことだけを済ませましょう」

 芹架は、現状に動じることなく巨木の方へと歩き続けた。アタシも、深く考えることをせずにそれに追従した。


 予想通り、世界樹の周りには人影が一つも見られなかった。ここにいた多くの冒険者が、町の中へと流れ込んでいたという読みは当たっていたようだ。

「スケッチし甲斐のある光景ね」

「もうしたんでしょ? ほら、中に入るわよ」

 冒険者を導くかのように整えられた階段。辺りには明かりが付けられてはいなかったが、世界樹から溢れ出す青いマナの輝きが、その役を担っているようだった。水族館のように仄暗く、神秘的な空間を進んでいくと、急に視界がぐんと広がるのを感じた。どうやら、ダンジョンの一階層目に出たようだ。

 結晶のように固まったマナが、黒い土のような幹から生えている。その大きさは様々で、手のひらサイズのものもあればアタシの身長と同じくらい大きなものもあった。芹架に了承を得てから、アタシはそれに手を触れた。氷のような見た目とは裏腹、それは熱も冷気も纏ってはいなかった。まるでプラスチックに触れているかのような、何も感じることのできないもの。それが、アタシの感想だ。マナの結晶は硬く、押しても引いても叩いてもびくともしなかった。芹架は、これまでにそれを砕いたものは一つもないということを教えてくれた。もし結晶を持ち帰れたならば、瞬く間に億万長者になれるだろう、と芹架は笑いながら冗談を言っていた。

 世界樹内部のスケッチもほどほどに済ませたアタシは、更に奥へと行ってみようと芹架に提案した。今のところ、魔物と呼ばれる存在とは遭遇していない。一目でいいから見てみたい、と。芹架は、少し考えた後にアタシの提案を飲んだ。この階層に生息する魔物は、武器さえあれば中学生くらいの子供でも勝てる強さらしい。念のため、危なくなったら逃げるという約束をした後に、アタシは探究心の赴くままに先へと進んだ。

「あれ、魔物じゃない?」

 辺りのマナと同化していて見えにくいが、アタシには現在地から五〇メートル程離れたところに、青いぶよぶよした物体がいるように見えた。それは跳躍を繰り返すによって移動しており、少しずつだがこちらに向かってきているようだった。

「ツリースライムね。恐れるに足りない最弱の魔物よ」

「ふーん。一応、スケッチはしておこうかしら」

 透けた身体の中央にある、赤く丸いもの。恐らく、そこがあのスライムの核と呼ばれる部分だろう。大抵の場合、核を破壊すればスライムは死んでしまう。極めて在り来たりな生物だ。

「あの魔物、目も耳も鼻も無いようだけれど、どうやって獲物を見付けているのかしら……」

「さあ? 他の生き物が歩いた時に発生する振動が、ゲル状の身体によく伝わるとかそんな感じじゃないの?」

 ゆっくりと何かを打ち込みながら、芹架はそんな落としどころを持ってきた。

「……何を打っているのよ?」

 じっとツリースライムを睨み付けながら蠢く指は、些か不気味だった。だからアタシは、何故そんな行動をしているのかと芹架に尋ねた。

「三〇メートル先にいるにしては、大きすぎるんじゃないかって思ったのよ。だから、一応ね」

「あれ、大きいんだ」

 確かに、アタシが想像するスライムは人の膝くらいの大きさのものだ。しかし、今視界内にいるあれは、アタシの身長を遥かに越えた背の高さを持っている。目測だが、およそ五メートルといったところだろうか。

 スライムは、こうしている間にも刻一刻とこちら側へと前進してきている。

「正直、まずい展開じゃないの、これ?」

「所詮スライム、されどスライム。はてさて、今回はどちらが選ばれることやら……」

 芹架は、存外落ち着いた様子をしている。

「ねぇ、そろそろ何かアクションを起こした方がよくない?」

 ツリースライムとの距離は、もう一〇メートルを切っている。いくら相手が最弱の魔物と言っても、流石に棒立ちのままというわけにはいくまい。

「ねぇってば!」

 そう芹架を怒鳴りつけると、彼女は聞き覚えのある詠唱を読み始めた。

「“我、正義をかざす者。汝、悪を纏いし者。今放たれるは五光。闇を照らす最上の光──”」

 そう、これは『小説家の剣』に登場した最強の魔術の詠唱だ。主人公の納期北留のうききたるが大魔王ヘンシューシャーにこの魔術を放ったあのシーンは、今でも思い出すだけで涙が溢れ出してしまう。確か、その魔術の名前は──

「「“満ち足りた光 《サティスファイ・レイ》”!」」

 芹架がエンターキーを叩いたまさにその直後、彼女の前に白く輝く魔法陣が出現した。そこから噴出する七色の光は、真っ直ぐにツリースライムへと向かっていく。満ち足りた光に包まれたスライムの巨躯はたちまち溶解していき、すぐに無へと誘った。

「所詮スライム。これが正解だったみたいね」

 拍子抜けしたと肩を竦める芹架。動くその足は、更なる強敵を求めているのかダンジョンの奥の方を向いていた。

「消滅はやり過ぎだったわね。戦利品まで消し炭にしてしまったわ」

 ツリースライムがいた場所に立った芹架は、こちらを振り返ってそうボヤいた。

「それは嘆いていいことなんでしょうけれど、アタシはそんなことよりもあんたの能力の方が──」

 ──気になるわ。その声が、アタシの体外へと放たれることはなかった。芹架を包むように、先程のスライムが再生したからだ。

「んぐ……!?」

 芹架は、まんまとツリースライムの策に嵌まってしまった。捕食された彼女は、口から大粒の気泡を吐きながら藻掻いている。息ができないのだ。

「芹架ぁ!」

 アタシは、彼女の名前を叫びながらスライムの方へと駆け出した。するとスライムは、身体を回転させながら二度飛び跳ねた。揺れる大地と震える視界。その空間は、アタシの最期しんだばしょとよく似ていた。

「あ……あぁ……!」

 天井が崩れていく恐怖。建物が唸り声を上げる恐怖。炎が迫ってくる恐怖。己の死を実感する恐怖。あの時感じた全ての感情が、全ての絶望が、アタシの足から力を奪い去った。

「死にたくない……死にたくない……!」

 震えているのは世界か、それともアタシか。もはや、それすら考えられない程アタシの精神は追い詰められていた。そんなアタシの瞳は、何故か、横に落ちる大事なものの方に集中していた。何であるかを悟るよりも先に、それを右手が掴んで放り投げていた。

「来ないで!」

 アタシは、ツリースライムにそう叫んで抵抗した。投げたスケッチブックは、綺麗な結晶に当たって落ちた。

 もうダメだ。アタシの全身がそう思った。しかし、スライムがこちらへと迫ってくることはなかった。

「え……?」

 スライムは、アタシには目もくれずに来た道を戻り始めた。

 やめて、行かないで。絶望を拒絶したアタシは、絶望を求めていた。そこには、大切な人がいたから。

 思うだけならば簡単だ。とても弱いアタシでさえもそれくらいはできる。ただ、それを行動に移すとなるとどうだろう。弱いアタシにもできるというのか。答えは否だ。脳以外の全ての器官が、アタシが死に行くことを拒んでいる。アタシが助かる道を選んでくれている。

 ふと、乱雑に投げ捨てられた紙束を見てみる。マテリアーテルと名付けられた剣が、こちらを見ている。

 ……何が聖剣だ。スライム一匹倒せないで──仲間一人助けられないで、何が聖剣だ! こんなもの、ただの絵だ。ただの妄想だ。最強の武器を描こうと、平穏な日常を創ろうと、それはまやかしに過ぎないのだ。アタシは死んだ。こんなものに現を抜かしていたから! こんなものに助けを求めたから! 絵なんて描いている暇があったのだ、当然生きるための行動をする余裕も存在した。一歩でも扉の方へ、外へと向かって移動していれば、もしかしたらまだ死なずに済んだかもしれない。絵なんて大っ嫌いだ。アタシを殺し、力にもなってくれない絵なんて……!

 無性に腹が立った。こんなにも怒り狂ったのは、生まれて初めてだった。被っていたいい子ちゃんの皮は、とうの昔に剥がれていた。ただ欲望のままに、憎悪のままに、アタシはゴミを破り続けた。世界樹が消え、理想の家は消失し、聖剣は抹消された。幾つかの白紙かのうせいも、アタシの世界スケッチブックから切り離された。もう何も無くなってしまった。残った紙に、夢と希望を描く気力さえも。

 アタシの身が、光に包まれた。眩しく輝いていたのは、聖剣マテリアーテルだった。

「なん……で?」

 それは、イラストではない。正真正銘の聖剣だった。アタシは、無感情のまま赤色をした柄を掴んだ。ゆっくりと腕に力を込めて、それを持ち上げてみる。剣は、高校生の少女には不釣り合いな程の重さをしていた。けれども、そんな感情を抱いたのはほんの一瞬だけだった。マテリアーテルが、瞬時に軽くなったのだ。

「あなたは、アタシに力を貸してくれるの……?」

 マテリアーテルは、アタシを拒絶しなかった。

「──アタシって、どうしようもないバカね……」

 マテリアーテルの傍に置いてあった二つの柄をスカートのポケットにしまって、アタシは前へと歩み始めた。

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