第5話 密偵
随風は愕然とした。廊下の角を曲がった所に、光秀が立っていたからである。だが、その驚愕を表には出さず、つとめて冷静に挨拶をする。
「これは殿、このような所でいかがなさいましたか」
「なに、嬉しくてな。ようやく、お主を使うことができるようになったからな」
「はて? 拙僧……ではなく某は既に殿の影として働いておりまするが?」
光秀の言葉の意味が分からず問いかける随風。頭頂部こそ薄いものの側頭部には髪が残っている光秀に比べて、そり上げていた随風の髪はまだ同じように伸びてはいない。だが、頭巾や兜をかぶって誤魔化すことは容易いのであるから、既に何度も同じ服装や鎧で光秀に随行して影武者としての勤めを果たしたことがある随風なのである。
「うむ。それでも、今までは誰の手の者か分からなんだので、安心しては使えなかったのでな。だが、三河殿の配下と分かれば、安心よ」
それを聞いて、背筋にどっと冷や汗が流れる随風。だが、そんな随風に光秀は笑いかけながら言葉を継ぐ。
「慌てるでない。三河殿は上様の盟友。敵ではない。お主のことは、最初は武田の手の者かと疑っていたのだ。ちょうど武田攻めの直前に姿を見せたのでな。それに、叡山が焼けたあと天台を保護したのは信玄公だからの」
「それは……」
「だが、お主は武田の密偵らしい働きは何もしなかったでな。つい先ほどまで、どこの誰の手の者か分からんので使いにくかったのだ」
「なるほど。つまり……」
「左様。先ほどお主が文を託した小者が三河殿の草であることは、儂の
いわゆる忍者というと、敵の城に忍び込んで情報を奪ったり暗殺を試みたりするような印象があるが、実際には使用人として他家の家中に入り込み、普段は何食わぬ顔で働きながら平時の情報収集を主な任務としている「草」と呼ばれるような密偵も多いのである。光秀は、そんな「草」のうち、家康につながる者は放置していたのだ。随風には「連絡」と言っているが、誰の手の者か分かっていれば偽情報を掴ませるようなこともできるから泳がせておいたのである。
同盟国とはいえ、密偵、間者の類はお互いに秘かに派遣しているのが普通である。
更にいえば、織田家の家臣の中には、敵国や同盟国だけでなく同僚の所にも密偵を送り込んでいる者さえいる。光秀自身にしてから、家中での勢力が強い柴田勝家や、好敵手と見なしている羽柴秀吉の所には草を送り込んだり、家臣を買収して情報を集めたりしているのだ。
「安心せよ、あの小者は逃がすように命じてある。儂が三河殿を逆恨みして襲うという筋書きは、むしろ三河殿本人には知っていてもらいたいのでな。そうでなければ、無用な犠牲が出かねん。三河殿の家臣は血の気が多いからな。それを阻止するための方策として、試しにそなたの前で筋書きを漏らしてみたのよ」
光秀の軍勢に包囲されたとき、多勢に無勢であっても、意地っ張りの三河武士なら「ひとりでも道連れに」などと考えて先に襲いかかって来ないとも限らない。しかし、最初から「脅すだけ」と分かっていれば、家康が暴発しそうな家臣を制するだろう。
それを見越した上で、光秀はあえて、既に家康の手の者と分かっている小者ではなく、随風に情報を漏らして反応を見たのである。随風が小者に連絡するなら、やはり家康の密偵と分かる。別の者に連絡するなら、そちらの連絡先を調べれば誰の手の者か分かる。何もしないなら、当面は疑ったまま様子を見ればよい。家康への情報は小者の前で漏らせばよいだけのことだ。
全て光秀の掌の上で踊らされていたと知った随風は、ため息をひとつつくと、改めて光秀に問いかけた。
「それを聞いて安堵いたしました。しかし、某が三河守様の手の者と分かって、それでもなお影としてお使いになられるお積もりですか?」
「先にも言ったぞ。三河殿は上様の盟友で、敵ではないとな」
ならば使えばいい。例え、これから脅す相手であっても。光秀の合理主義は徹底していた。
諦めたように、再度ため息をついた随風に対して、光秀は明日の予定を告げる。
「明日は
丹波亀山城は坂本城と並ぶ光秀のもうひとつの居城である。その北東にある愛宕山には全国的に有名な愛宕権現が祀られている。出陣前に、そこで戦勝を祈願するのであろう。
「御意」
平伏する随風をその場に残し、光秀は踵を返して私室に向かうのであった。
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