第4話 供応
「この、うつけ者がッ!!」
信長の手から飛んだ腕が光秀の額を直撃した。
「違いまする、これは
額から血を流しながらも抗弁する光秀。だが、信長は更にいきり立って言いつのる。
「鮒寿司ぐらい知っておるわ! 問題は、このような臭い料理を供応に使おうとした、そちの見識の無さよ! 確かに近江の名物ではあるが、
安土城本丸の大広間に信長の怒声が響き渡る。その場に居並ぶ織田家の家臣も、そして賓客として招かれていた
「右府様、これは
何とか取りなそうとする家康。そもそもの始まりは、鮒寿司の臭いを嗅いだ家康の家老、
「いやいや、三河殿は我が盟友にして大切な賓客である! そのことへの心配りが足りぬわ!!」
「そうおっしゃっていただけるのであれば、この場は、この家康に免じて何とぞ穏便に……」
さらに興奮する信長だったが、当の家康が取りなしているのは無下にできず、それ以上の罵倒はやめる。
「もうよい、金柑、そちは三河殿の供応役から外す!
「御意!」
信長の命に即座に従う光秀。酷い言われようだが、この程度の悪口雑言は信長に仕えていれば日常茶飯事である。実際、秀吉も光秀も頭は薄いので、居並ぶ諸将の中にも言い得て妙と思わず苦笑する者さえ居た。
だが、そんな諸将も信長が放った次の言葉には思わず眉をひそめる。
「よいな、高松に着いたら筑前の
光秀と秀吉は、ほぼ同格の方面軍司令官格である。それが、光秀を明確に秀吉の下に付けるというのだ。もとより、それは信長本人が総指揮をとるために着陣するまでの臨時措置であろうし、指揮系統確立のためには必要な措置でもある。光秀にしても、今までに同様にして他将の指揮下に入ったこともある。
だが、この場でことさらに言い立てるのは、明らかに光秀の格を秀吉よりも下にして株を下げようという意図があるとしか思えない。信長は、非常に部下思いの一面がある一方で、時折こうして部下の神経をわざと逆なでするような面もあるのだ。
「……御意」
押し殺すように答え、流血する額を押さえながら退出する光秀。満座の諸将の目にも、その姿は必死に屈辱に耐えているように映った。
だが、光秀自身は内心でほくそ笑んでいた。
(上手くいった。誰もこれが狂言とは思うまい。これで我が軍が三河殿の一団を囲んでも誰も不思議とは思わぬだろう)
すべて、信長の密命を果たすための芝居だったのである。光秀は、その命を受けた時のことを思い出していた。
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「三河はよい。彼奴は己の分を知っておる。だが、家臣共がいかん」
家康への供応を命じるために光秀を呼び出した信長だったが、同時に家康の家臣団に対する不満も口にしたのである。
「井の中の蛙ですな」
家康の家臣、三河武士団は強固な忠誠と高い戦闘力を誇る精鋭軍団である。その一方で、非常に頑固で誇り高い。家康の命には服するが、例え格上の同盟者であろうと信長を軽んじるような態度を取る者も居るのだ。
「大海を知らせてやれ」
「御意」
「どうする」
信長の問いは、大抵は短い。その言葉から真意を受け取って、端的に答えなければ信長の気に入りの家臣にはなれない。
「堺にて我が軍で囲いましょう」
家康一行は安土で供応を受けたあと、堺に向かう予定になっている。せいぜい数十人の一行を光秀の軍勢一万三千で包囲する。いかに家康の家臣が精鋭揃いであっても、ほとんど被害も無く
「肝は冷えような。罰は」
主君の同盟者を脅すのである。形式だけでも光秀は処罰されなければならない。それをどうするのかと信長は問うているのだ。
「出雲、石見」
「であるか」
先に内示された転封を罰とすればよいと光秀は答える。加増にはなるし、余得の多い地ではあるが、畿内の地から移されるということ自体が左遷と見えなくもない。
「喧嘩は両成敗が鎌倉以来の定法ゆえ、三河殿は本貫の三河、
「聞くか?」
さらに、家康と、最近武田攻めに際して同盟を結んだ
だが、同盟を組んで長く、信長に従順な家康はともかく、氏政の方は命令を聞かないのではないかと信長は問う。
「聞かねば、宮内少輔と同じ道をたどりましょう」
長宗我部元親と同じように攻めればよい、と光秀は答える。それだけの力が今の織田家にはある。
「聞けば?」
「坂東の雄、北条も戦わずして上様の軍門に降ったことになります。天下統一も時間の問題ですな」
「よし。
信長は光秀の策を受け入れた。その上で、光秀が家康を囲んで脅す理由は何にするかと尋ねる。
「供応をしくじりましょう。それを上様に咎められて逆恨み」
「如何に?」
光秀ほどに気の回る者が供応をしくじるなど、それ自体が不自然であろう。それをどうやって自然に見せるのかと信長は聞く。
「鮒寿司を出しまする」
安土城がある近江の名物であり、美味である。供応に出しても不思議ではない。だが、同時に非常に臭い。知らない者が嗅いだら「腐った魚を食わせるのか」と怒る可能性は高い。気むずかし屋の多い家康の家臣団なら、ひとりくらいは怒る者が出るだろう。
「策士よな」
その臭さを思い出して思わず苦笑した信長だったが、すぐに光秀を褒め、その策を認めた。
そして、供応当日に光秀はこの上もなく上手にしくじって見せたのである。
(使える男よ)
退出する光秀のことなど忘れたかのように家康に笑いかけながら、内心では信長は改めて光秀のことを高く評価していた。
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