第3話 秀忠の従順

「なに!?」


 何を言ったのだ、此奴は? 信じがたい思いで問い返した家康に、秀忠は重ねて答えた。


「某は太閤殿下を尊敬しておりますゆえ」


「何故だ!?」


 先にも増して激した口調で問うた家康に、秀忠は変わらぬ様子で答える。


「大御所様にお勝ち申した方ゆえ」


 思わず絶句した家康に、秀忠は言葉を接ぐ。


「大御所様もおん自ら、武田信玄公を尊敬されておいでではございませぬか」


「む……」


 家康が、秀吉よりも前に戦で負けたことがあるのは、甲斐の雄、武田大膳大夫晴信、入道号信玄である。三方ヶ原では完膚なきまでに負けた。


 その信玄も後継者には恵まれず、その子勝頼は信長と家康に滅ぼされた。だが、武田の滅亡後にその遺臣を抱えた家康は、軍法を武田にならって変えた。自らに勝った武田信玄を師表としたのである。


「大御所様にとっては、太閤殿下は小身からの成り上がり者かもしれませぬが、某にとっては物心ついた頃から天下の雄にございます」


 天正七年に生まれた秀忠にとって、小牧の役は五歳の頃の出来事である。秀吉が信長の家臣だった時代には、まだ物心はついておらず、父に勝って天下を取った姿しか知らないのである。


「天下人として、何をなすべきか、何をなしてはならないのか。それは、大御所様も信長公と太閤殿下を見て学ばれた事でございましょう」


「否定はできぬな」


 苦々しい口調ながらも、認めざるを得ない家康。


「某も、太閤殿下と殿からは、大いに学ぶ所がございました」


 関白、豊臣秀次。太閤秀吉の後継者とされながら、不行跡を理由に切腹を命ぜられ、妻子まで皆殺しとされた秀吉の甥。本当に天下を譲られたとした男。


「なるほど、な」


 この男の従順さの根底はそれか。腑に落ちた様子の家康を見て、秀忠は次の矢を放った。


「なればこそ、一度竹千代を継嗣にすると決めたからには、国松を立てる事はございませぬ。いかに国松が利発であろうと、お江が騒ごうと、将軍家を継ぐ者は竹千代にございます。もし国松に僭上の沙汰があれば、厳しく罰しましょう」


「む……」


 豊臣家滅亡の原因のひとつは、秀吉が一度は後継者に立てた秀次を強引に廃した事である。その轍を践むことはできない。その事を、自らの子の事として言う秀忠。愛しているのは、利発な国松の方であり、それは妻のお江も変わらない。だが、兄の竹千代の方を継嗣と決めたからには、情愛でそれを覆す事はしないと言っているのだ。


 竹千代を継嗣にする事は、家康が指示したことである。自分はそれを従順に守る、と秀忠は言っている。


 なればこそ、家康もまた、己の継嗣である秀忠を廃する事はできないのだ。


「そなたが、これほど頑固だとは思いもせなんだわ」


 そう言って苦笑する家康。諦めたのだ。鬱陶しく、忌々しい事ではあるが、この男は「秀」の字を墓に入るまでは持ち続ける積もりらしい。だが、それがこの従順な息子の唯一の我が儘なら、聞いてやろうではないか。


 何より、此奴は思っていたより余程したたかだ。戦は下手だが、これから先は戦など起きまい。政治まつりごとなら、この平静さと強かさで上手く乗り切るだろう。


の子でございますから」


 そう言って、初めて頬を崩す秀忠。なるほど、頑固という事なら家康も誰にも負けまい。


「言いおるわ」


 軽く目を見張った家康は、そのまま呵々大笑した。ここで、あえて親子という決め手を打って駄目を押した秀忠の評価を、さらに上げたのである。

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