第2話 家康の憂鬱
源氏長者、徳川家康は満足していた。己の最後の宿願が果たされたからである。豊臣家の滅亡。これで、徳川家の天下を揺るがすものは、この国にひとつとして無くなった。もはや心配は何も無い。いつお迎えが来ても安心して死ねるというものだ。
大坂攻めを終え、戻ってきた駿府の城。その大天守から見渡す城下には、かつて己が今川家の人質として辛酸を嘗めた頃の面影はない。この城も、城下も、己の隠居所として好みのままに作り変えたものだ。
出生の地である岡崎よりも、むしろ幼少期を過ごした駿府にこそ、彼の原風景はある。その地を、思いのままにできる。いや、この日の本の国すべてが、今や彼の思いのままである。
なるほど、
朝廷が豊臣家に好意的であることは分かっていた。だからこそ、あえて右大臣を辞し、太政大臣や准三后の内示も断ったのだ。
これから、禁中並公家諸法度を飲ませねばならない。帝といえど、
だが、彼自身も恣意で帝を圧迫しようとは思ってはいない。かつての同盟者にして事実上の主君、織田信長の道は取らない。なればこその法度である。これが通ったなら、今度こそ太政大臣を受け、臣下に戻ろう。
人臣最高位。あの秀吉とようやく同格に並べるのだ。そう思うと、彼の頬は緩む。彼が膝を屈さざるを得なかった相手、太閤、豊臣秀吉。
人間的には、決して好かぬ相手ではなかった。むしろ、金ヶ崎の
だが、彼、家康自身もまた、天下を狙う者であった。信長の横死後に先手を取られ、結局は従わざるを得なかったという事には、忸怩たる思いがある。
好敵手なればこそ、負けた事に受け入れ難い思いがあるのだ。
だからこそ、豊臣家は滅ぼした。残すことも不可能ではなかった。秀吉が織田家にしたように、少禄で飼い殺しにする方法もあった。
だが、微禄から成り上がり、一度たりとも主家たる織田宗家、すなわち信長、信忠、三法師秀信には弓を引いたことがない秀吉とは、立場が違う。秀吉の場合、下克上とは言っても穏便な乗っ取りであり、無理に潰す必要はない。古の
それに対して、家康は一度秀吉に負けているのだ。長久手で一矢報いたとはいっても、小牧の役そのものは彼の負けである。その時勝っていたなら、徳川の天下は十年は早く実現していただろう。
そこから挽回して天下を取ったとはいえ、豊臣家が残っている限り、旧主家という事は変わらない。それは、家康が一度は負けたという証に他ならない。
だからこそ、あえて天下を取った後に、さらに十余年の隠忍自重を重ね、万全の上にも万全を期して、ついに豊臣家を滅ぼしたのだ。
今、彼、徳川家康の権力は絶頂にある。この国で、彼の思いのままにならぬ事など何も無い……たったひとつを除いて。
純白に染め上げられた世界に残った一点の染み。
帝すら法で縛り得る彼の権力に逆らう者がいる。それが彼を困惑させている。何しろ、その男こそ、今まで天下で最も彼に従順だと思われていた男だからだ。そして、彼自身が、その男の従順さを一度たりとも疑ったことはなかった。
その男とは、征夷大将軍、徳川秀忠。彼自身の三男にして後継者である。
これが、既に亡い長男の信康、次男の秀康なら分かる。彼らによく似た利かん気な六男の忠輝も、父に逆らう事はあり得るだろう。
だが、秀忠にそれは無い。そう思っていた。そういう従順な息子だからこそ、戦下手であっても、あえて後継者に選んだのである。
そして、その目論見は外れていなかった。今まで、一度たりとも彼の命に逆らったことはない。いや、今でも、たったひとつのことを除いて、逆らってはいないのである。
だからこそ、その真意を問いたかった。あえて、人払いをして、この大天守最上階に二人だけになったのも、腹蔵なくその本音を聞きたかったからである。
「何故だ?」
一言問う。意味は分かるはずだ。彼と秀忠の間には、他に何ひとつとして問題はない。
「意味がありませぬゆえ」
平静な答え。この男は常に平静である。
いや、戦には猛る戦意、気合いというものも必要なのだ。この男が戦下手なのは、平静さのみあって、猛る気合いが無いからだろう。ある意味、関ヶ原で戦った敵の首魁、石田治部少輔三成と通じるものがある。あの男も冷静さのみを持ち合わせ、猛ることなどない男だった。
そういう平静さに少し苛立ちを覚えながら、家康は反駁する。
「意味がないことはあるまい。太閤の跡は残さぬ、という事をはっきりと示せよう」
「さような事、既に事実で示し申したではございませぬか。既に豊家は跡形もなく、近々豊国廟も
この男は、今のように他に誰もいない場であっても、決して彼の事を「父上」など親しげには呼ばぬ。「大御所様」と尊崇する。一晩の無聊を慰めさせようと送った腰元さえも、「大御所様からの上使」として扱い、指一本触れずに送り返したような男だ。
それは逆に言うと親しみがない、という事も意味している。常に平静さを失わず、本音も見せぬ。
その平静さは、他の兄弟のように暴走はせぬだろうという安心感にもなり、己への絶対の忠誠と従順の証とも思ってきた。だが、今、その平静さをもって逆らわれると、逆に小面憎く思えてくる。
家康は、常にない激した口調で、改めて問うた。
「だからこそ、何故だ!? ここには他に誰もおらぬ。正直に申せ。なぜ、秀忠という名にこだわるのだ?」
激した口調で責められようとも、秀忠は顔色ひとつ変えなかった。ただ、常の平静さを保ったまま、ゆっくりと答えた。
「尊敬する、太閤殿下より賜りました偏諱ゆえ」
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