第4話 秀吉の執着

 大天守最上階につながる階段を降りながら、秀忠は軽くため息をついた。彼とても、内心は外見ほど平静ではなかったのである。


 上手くいった。最悪、偏諱は捨てざるを得ないかと思っていたが、何とか守り通せた。


 何しろ、あの父親は他人の心を見通すことが上手い。幼少時から人質として過ごしてきたせいか、他人の思惑に敏感である。その父親から己の本心を守り抜けたというのは、誰にも言えないが、己には誇れる事だろう。


 秀忠が、太閤秀吉に抱く感情は、ただの尊敬に止まらないのだから。


『そなたが長丸か? なかなか良い男ぶりじゃのう』


 太閤殿下に初めて会った時の事を思い出すと、秀忠の頬は緩む。他人に、あれほど温かく迎えられた事は、それまでの生涯で一度も無かった。いや、実の父、家康にすら無かった。


 天下を取って後に生まれた子に対しては、それまでとは別人のように甘くなった家康ではあるが、若い頃に生まれた子に対しては親しみを見せる事はなかった。


 だが、秀吉は違った。最重要の家臣の嫡子とはいえ人質である事に変わりはない。にも関わらず、まるで実の子に対するかのように親しく、優しくもてなしてくれた事は、秀忠にとって大きな衝撃であった。


 だが、それを更に上回る衝撃を、彼と今の正妻、お江との婚約の時に味わう事になる。人払いをして二人だけになった時、秀吉が言ったのだ。


『不満かの? お江は確かにそなたより6つも年上。しかも出戻り、こぶ付きじゃ。じゃが、こぶがあるのは石女うまずめでない証。良い子をたくさん産んでくれるであろう』


『太閤殿下の思し召しに、不満などあるはずもございませぬ』


 否定する秀忠に、ニヤリと笑いながら秀吉は問うた。


『なぜ、そなたにお江をめあわせるか、分かるか?』


『某に、おひろい様の義叔父おじとしての働きを期待されての事かと思いますが』


 秀吉の子で、後に秀頼となるお拾は、お江の姉である淀の方の子である。お江と婚姻する事により、彼は秀頼の義理の叔父となるのだ。


『表向きは、な』


『は?』


 秀吉の言葉の意味が分からず、思わず問い返す秀忠。


『本当の理由はな、そなたが、いずれ天下人になるからよ』


『はあ!?』


 驚愕する秀忠を見て、楽しそうに笑う秀吉。


『不思議ではあるまい。そなたは大納言殿の嫡子じゃ。大納言殿の後を継いで天下人になるであろう』


 そこで、一気に顔を引き締め、これ以上ないくらいに真剣な顔で秀忠を見据える秀吉。当時、権大納言であった家康の事も、決して呼び捨てにはせず、必ず官職で呼ぶのは、それだけ家康の事を重視していた証であろう。


わしが死んだら、大納言殿が天下を取る。それを分からぬ儂と思うか?』


 答えられない秀忠の様子を見て、もう一度表情を和らげて言葉を接ぐ秀吉。


『儂はな、天下を取って二つ大きな過ちをした。ひとつは、大納言殿に大封を与えてしまった事じゃ。関八州ごとき、からを取れば小さいものと思っておったのじゃがな』


 そこで一度ため息をつき、言葉を続ける。


『もうひとつは、唐入りを始めてしまった事じゃ。手強いと気付いた時は後の祭り。もはや引けん所まで来てしまった。儂が死ぬまで、この戦、やめられまいよ』


 何も答えられない秀忠を見やりながら、さらに言葉を続ける秀吉。


『唐入りをしていなければ、大納言殿の力を強引に削ぐ事もできた。あるいは、もう一度、今度こそどちらかがたおれるまで雌雄を決してもよかったのかもしれん』


 そこでくわっと目を見開き、秀忠を見据えて言葉を続ける。


『じゃがな、天下人として、つ国との戦中に、国内くにうちでも戦はできぬよ。儂には天下人として、帝から民草にいたるまで、この国のすべての者に責任がある』


 そこで、疲れたように笑って、口調を変える。


『じゃからな、儂は家を残すことを諦めたのよ。儂が死んだら天下は大納言殿に取られよう。さすれば、豊臣家の存続を許す大納言殿ではあるまい』


 それには、秀忠も頷かざるを得ない。父、家康は甘くない。あの石橋を叩いて渡る性格からすると、逆転の可能性のある芽は必ず摘むであろう。


『鶴松が生きておれば、儂も家の存続に執念を燃やしたかもしれん。じゃが、鶴松は死んだ。もう、我が家にこだわる必要も無い』


 その言葉に、秀忠は疑問を覚え、思わず問い返した。


『ですが、お拾い様がおられるではございませんか?』


 それに、じろりと見返して、鼻で笑う秀吉。


『フン、いくら年老いたとはいえ、この秀吉、十月十日を数え損なうほど耄碌もうろくはしておらんぞ』


 その返答に驚愕する秀忠。その言葉が意味することはひとつしかない。


『なのに、なぜにお拾い様を……』


『それはな、儂の、最後の我が儘じゃよ』


『我が儘?』


『そうじゃ。我が子がおらぬとなれば、かつての憧れの君の孫を天下人にしてやりたかったのよ……形だけでも、な』


『お市の方……』


『そうよ。天下まで取ったこの秀吉が夢見て、唯一手に入れ損ねたひとよ』


 呆然とする秀忠に、秀吉は渋く笑いかける。


『我がたねでなかろうと、茶々の子でお市様の孫には変わりあるまい。そのために、罪も無い甥を殺し、その妻子まで殺し尽くした。儂も罪深い男よ。じゃが、天下の権の争いとは、左様なものじゃ。秀次の器量では百万石の太守程度なら勤まるが、大納言殿を抑え切るのは無理じゃ。お拾いに継がせる前に天下を乗っ取られてしまうわ』


『だから……』


『儂が死んでしばらくは、大納言殿もお拾いを天下様として仰ぐだろうよ。儂が三法師君を仰いだようにな。じゃがな、天下を取ったら、お拾いをそのままでは置くまい。そこで、そなたに果たして欲しい事がある』


 そこで、ジロリと秀忠を見据える秀吉。その視線に慄然としながらも、何とか言葉を絞り出す秀忠。


『某に、お拾い様をお救いせよと……』


 ところが、秀吉の次の言葉を聞いて愕然とする。


『逆じゃ。そなたが率先して、我が豊臣の家を、お拾いを滅ぼせ!』

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