三日目 魔法区域音妙堂書店

 音妙堂書店のアルバイトチーフは本木暦という男子大学生だ。アルバイト初日に舟雪をバックヤードへと案内してくれたのが彼で、以来この店に不慣れな舟雪に色々と教えてくれている。親切な人だ、と舟雪も彼を信頼していた。そして同時にこういう親切で真面目な人がこの妙な書店で働いていて平気なのだろうかと要らない心配をしたりもしていた。そう、要らない心配なのは分かっているのだ。何故なら舟雪はここではあくまで手伝いであり新参者で、以前からずっと働いている暦が実際どう感じているかはともかく平気でなければ勤め続けられるはずもないのだから。

 しかしそうは言っても暦はいつも忙しそうだ。昨日も栗栖の呪符によってあっさりと犯行が露見した万引き犯をバックヤードへ連行し、手ぐすね引いて待っていた松山店長が犯人にやたらとねちねちとした説教攻撃をしている間に手早く学校や警察への連絡を済ませて、万引きされた商品のチェックと店の見回りまでこなしていた。他のアルバイト店員もそれぞれに己の職分を全うしているのだが、それにしてもやはり暦の業務量は多い気がする。主に万引き犯と栗栖のせいで。

 いや、栗栖が悪いわけではない。昨日あれからもう少し話をしてみたところ、彼は基本的にはとても温厚で正直な人物のようだった。舟雪に対していきなり喧嘩を吹っかけたことを暦にいさめられると彼は叱られた子犬のようにしゅんとしながら舟雪に頭を下げた。「興奮して失礼なことをしてしまってすみません」と。明らかに年下である舟雪にそうやって丁寧な謝罪をすることができるというのは今時稀有な存在かもしれない。またどうやら彼は暦のことをとても信頼して慕っているようで、暦自身のリーダーとしての資質もあってか暦のいうことであれば大抵は素直に聞くようだ。特殊な能力を持つがやや暴走しがちな栗栖と、基本的に常識人だが不慮の事態にも動じない冷静さを持つ暦というのは実はいいコンビなのかもしれない。どちらも仕事熱心で万引きなどの悪事に対して怒りを覚える正義感を持ち合わせているのも、二人を結び付けている共通点なのだろう。

 舟雪がハンディモップを片手に棚の埃を拭っていると、暦が「苗田君」と声を掛けてきた。振り返った舟雪に暦は休憩時間であることを告げる。そういえば時計を見ていなかった。

「今はお客さんもいないし、コーヒーでも飲んできたらどう? もう少ししたら混む時間帯だし、休めるときに休んでおいた方がいいよ」

「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて……本木さんも休憩ですか?」

「うん、今一段落したからそのつもり」

 清々しい表情で言う暦は額に軽く汗をかいている。舟雪よりは背が低く決して体格がいいわけでもない彼だが、本という重量級の商品を扱う仕事を意外なほどに軽々と済ませているところを見ると実は腕力もかなりのものなのだろう。一見そうは見えないところが面白い。

 舟雪は暦と連れ立ってバックヤードに入ると、休憩室のポットでインスタントコーヒーを作って暦に手渡した。暦は笑顔でカップを受け取ると椅子に腰を下ろし、舟雪にも座るように促す。互いに好みの量のスティックシュガーを入れたコーヒーを一口飲んでから、暦がそっと切り出した。

「苗田君、今日で三日目だけど店には慣れた?」

「ああ、はい。業務内容は前の店とほとんど同じですし、他のスタッフも気のいい人ばかりなので」

「そう? そう感じてくれているならよかった。昨日は天津君と色々あったみたいだけど、それも大丈夫なのかな」

「天津さんも悪気があったわけじゃなさそうですから、特に気にしていないです。まあ、さすがに式神召喚で万引き犯確保っていうのはビビりましたけど……」

「うんまあ……普通はそうだよね……」

 苦笑と共に暦はコーヒーを二口すすった。苦笑の中に何か見守るような温かさを感じるのはどういうわけだろう。まるでやんちゃな子どもを持つ母親のような表情に舟雪は暦がいわゆるオカン属性の持ち主なのかと想像する。

「でも来てくれたのが苗田君で本当によかったよ。短期ヘルプのアルバイトだから、こうやってすぐに順応してくれる人に来てもらえてすごく助かっているんだ」

「そういえばどうして短期なんですか?」

 人手不足が理由なら期間を短く区切っての救援要請というのもおかしな話だ。今は特に忙しい季節でもないし、臨時に舟雪を雇った理由が気になるといえば気になる。素直に疑問を口にした舟雪に対して暦はこれまた正直な調子で答えをくれた。

「普段来てくれているアルバイトの子、西園さんっていう高校生の女の子なんだけどね。彼女が模試の勉強をするから数日休ませてもらえないかって。高校三年生の大事なときだから、店長も快くシフトの調整をしたんだけど」

「あー、調整しても穴が埋まりそうになかったと」

「うん、そういうこと」

 つまり、高校三年生で受験を控えているそのアルバイト店員の穴埋めとして舟雪は呼ばれたということらしい。それだけ聞くと大変真っ当である。高校生のアルバイト店員には勉学を優先させ、減った人手をきちんと補うというのだから松山店長の判断は雇用主として大変模範的だ。世のブラック企業のお偉方には是非見習ってほしいものだが、だからといって松山店長が好人物かどうかというとそれはまた別の問題としか言いようがない。

「そういうわけだから、短い間だけど改めてよろしくね。苗田君」

 笑顔の暦にそう言われて舟雪も「よろしくお願いします」と座ったままで軽く頭を下げた。さて、休憩はこのくらいにして業務再開である。

 客足が少しずつ増えてきている。舟雪はゲーム雑誌の並ぶ棚で立ち読みをしている学生の後ろを通り過ぎながらさりげなく辺りに目を配った。本屋で万引きの多い時間帯といえば開店直後と閉店間際の人の少ない頃だが、その時間帯にしか万引きされないというわけでもない。客の全てを疑ってかかるわけではないにしてもそれなりに不審な人物がいないかチェックを怠ることはできないのである。

 そしてそのための専門スタッフが万引きGメン……ここの場合は陰陽師なので陰陽Gメンの栗栖というわけだ。彼も今は店内を回っている。あの呪符があればこまめな見回りはそう必要なさそうだが、それでも彼は結構な警戒ぶりで、しかし本屋の中を歩き回ることを純粋に楽しんでいる様子で巡回をしている。やはり基本的に人がいいのだろう。その栗栖がちょうど舟雪の行く手にある書架の脇から姿を現すと、周りの客から変に思われない程度の早足でこちらへと寄ってきた。

「苗田さん、ちょっといいですか」

 怪しいお客がいるんですよ、と栗栖から耳打ちされる。舟雪が音妙堂書店で働きはじめてまだ三日だ。二日目である昨日は万引き犯に出くわし、今日もまた怪しい客に遭遇するのはいくらなんでも運が悪いと思いながら栗栖の示した方向を見た舟雪は思わず「あ!?」と大きな声を出した。

 大きめの帽子を目深にかぶって薄手のコートを羽織っているが、襟元から見えているのは舟雪の見慣れた学生服だ。「怪しい客」は目当ての本がある様子でもなく何となく店の中を歩き回っている。時々背伸びをして書架の上の方を窺ったり、背負った鞄を意味もなく揺らしてみたりといかにも怪しい行動が多い。というよりもあからさまに怪しすぎて逆に滑稽にすら思えてくる。舟雪は栗栖を制して帽子の学生へと歩み寄ると、「おいこらお客様こっち向け」ととても客に対するものではない口調で話しかけた。

「お?」

 帽子の学生は特に気を悪くした様子もなく素直に舟雪へと向き直り、それから「よう」と気軽な調子で片手を挙げる。舟雪はがくりと肩を落としながらも言うべきことを言おうと口を開く。

「何しに来たんだよ! あんたの好きな出版社のコミックス発売日は来週だろうが!」

「おお、ワンコお前そんなことまで把握してたのかよ。すげぇな」

「何しに来たって聞いてんだよっ」

「いや、お前が怪しげな本屋で働かされてるって小耳に挟んだからどんなもんかと思って見に来たんだけど」

 そう言うと帽子の学生、こと舟雪と同学年で同じ部活動に所属している明園修威あけぞのしゅういはきょろきょろと音妙堂書店の中を見回した。見回しても書架以外に何があるわけでもない。ここは本屋であって、それは間違いのない事実だ。と、そこで舟雪はふと気が付いて修威に尋ねる。

「怪しげな本屋だとか、そんな話誰に聞いたんだよ?」

 アルバイトの許可を申請している関係上、担任や部活動の顧問教諭にはここのことを話してある。しかしそれ以外の誰かに話した覚えはない。教諭が他の生徒に個人の事情を簡単に漏らすとは考えにくく、そうなると一体どうして修威がここのことを知っているのかが不思議になってくる。そう訝る舟雪の目の前で修威は学生服のポケットから折り畳まれた携帯電話を取り出した。

「誰に、っていうか、なあ」

 修威が携帯電話の画面を開いて舟雪の目の前に突き出す。そこにはPHL……ぽくじんホットラインという彼らが所属する部活動専用連絡ツールの初期画面が表示されていた。そしてそこに『重要連絡』という見出し付きでひとつの記事が載せられている。

「『ナエダが怪しげな書店でアルバイトをさせられていまス。暇があったら様子を見に行ってみてくださイ。ぽくじん』……おいなんだこれ」

 ご丁寧なことに記事にはここ音妙堂書店周辺の地図と学校からのアクセス経路までが添付されていた。ぽくじんというのは舟雪達の所属する木人部のマスコットとでもいうべき存在で、人間ではない。では何かと問われると少しばかり困るのだが、とりあえずはただの木の人形である。それに生命が宿っているのかどうかは微妙なところだ。

「ぽくじん様からのお達しでこの俺と真奈貴ちゃんが部を代表して様子を見に来てやったんだ。で、どうよ? うまくやってそうだけど」

「大和瀬も来てるのか」

「うん。気になる本があるからってそっち見に行った」

「そりゃあもうただの普通の客じゃねえか! いやむしろそれで正しいのか?」

「真奈貴ちゃん、本好きだからねー」

 修威がそう言ったまさにそのとき、レジの方から「すいません」と耳慣れた声が聞こえた。あ、真奈貴ちゃん。そう呟く修威をその場に残して舟雪は店員としてレジカウンターへと向かう。そこでは黒髪を長く伸ばしたセーラー服姿の女子高生が穏やかな佇まいで文庫本を三冊携えながら会計を待っていた。舟雪がレジカウンターの中に入ると彼女、大和瀬真奈貴はするりと本を台の上に置く。

「これ、お願いします」

「……ああ、はい。カバーはお掛けしますか」

「お願いします」

「少々お待ちください。お会計は1944円になります」

 真奈貴が鞄から財布を取り出す間に舟雪は慣れた手つきで彼女の購入した本のスリップを抜き取り、代わりに店の名前の入った紙製のブックカバーで丁寧に本を覆う。そして真奈貴がレジに置いた2050円を受け取ってレジのキーを叩いた。

「まず商品と、おつりの106円です。お確かめください」

「ありがとう、苗田くん」

「……大和瀬、ちょっといいか?」

 店員と客としてのやり取りが済んだところで舟雪は辺りの様子を窺いながら切り出す。真奈貴もそれを予想していたのか、表情を変えずに頷いた。

「この店、『魔法区域』……だよな?」

「そうだね。どうしてかは分からないけど、かなり強力な魔法の気配に満ちていると思うよ」

「やっぱりか。店、全体がそうなのか?」

「外の駐車場辺りまでは」

「……まるごとってわけか」

「苗田くん、大丈夫?」

「今のところは特に。店には他に魔法使い……陰陽師もいるし、スタッフは慣れてるみたいだ。妙なことだとは思うけどな」

「ふうん」

 少しだけ考え込む素振りを見せた真奈貴だったが、やがて「まあ問題がないならいいんじゃない」と何とも呑気な意見をくれた。

「大和瀬……そういうもんなのか……?」

「私たちにここの魔法区域をどうこうすることはできないから」

「そりゃそうだけど」

 魔法区域とはその名の通り、魔法を使うことのできる特別な場所のことだ。普通、魔法というのは限られた条件のもとでなければ行使することができない。たとえば舟雪たちの通うレーネ大和瀬高等学校では課外授業と呼ばれる魔法を学ぶための専門カリキュラムがあり、その時間帯だけは校舎全体が魔法区域になる。また天然の魔法区域というものも存在し、それは基本的に政府の管理下に置かれている。魔法による事件や事故を防ぐためだ。

 そのはずなのだが、どういうわけかこの音妙堂書店は野放し状態の魔法区域になっているのだった。舟雪が最初に店に入ったときに感じた気配は間違いではなかった。栗栖が呪符を発動させたときに予想は確信に変わり、その後舟雪自身も自分の魔法が発動することを確認している。

「あ、そうだ苗田くん」

 買い物を終えて立ち去ろうとしていた真奈貴がふと思い出したように口を開いた。

「PHLで連絡が回ったから、先輩たちも多分この辺りを巡回してくれると思うよ。念のために伝えておくね」

「……念のためっていうのがすでに物騒だな」

「大丈夫、多分」

「多分かよ!」

 こらえきれなくなった舟雪のツッコミに真奈貴はにっこりと微笑みを返すばかりだ。分かっている。こういうときの彼女は何も確信めいたことを言ってはくれない。ただ裏を返せばそこには舟雪自身が言うところの「物騒」な出来事がすでに控えているということなのかもしれない。可能性がないなら真奈貴はきっぱりと否定するだろうから。

「まあ、色々気を付ける。野放しの魔法区域っていうだけでもう結構ヤバいしな」

「そうして。じゃあ私たちはもう行くね」

「おう。お買い上げありがとうございました」

 真奈貴はいつもより三割は機嫌がよさそうな雰囲気で長い黒髪を揺らしながら立ち去る。後を追うようにして修威が小走りに駆けていき、途中で「真奈貴ちゃん置いてかないでー」と楽しげに声を掛けている。学生服を着ていても修威は真奈貴と同じ女子高生で、こうして二人が並んで歩いている様子を見るとそれなりに微笑ましい。

「あれ、真奈貴ちゃんなんか機嫌いい? いい本あった?」

「うん。前から探していたのが置いてあったから買っちゃった。ここ、品揃えいいよ」

「おお、それは何より」

 そんな会話を交わしながら店を出て行く二人を見送りつつ、舟雪は「ああ、大和瀬は欲しい本が手に入ってご満悦だからいつもよりも口数が多かったんだな」と納得したのだった。

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