第19話 処刑
顔は知らない。
美しく、速く、純粋であったとだけ聞かされた。
ルウが立てるようになるより早く、ユラは死んだ。
親の不在がハンデになると思ったことはなかったし、事実そうだった。
ルウは五歳になるのを待たず、竜に乗れるようになった。風の子の中でも早いほうだが、受け皿の子としては、やや遅かった。ユラは三歳で竜を選んだそうだ。
母の竜がどれなのかも知らなかったし、母がどうしていないのかも知らなかった。
もちろん、どうして自分が「かわいそうな」と形容されるのかも、酒の入った大人が「あの女の」と嫌悪感もあらわに漏らす理由も知らなかった。
クロワを選んだのは、その子が一番大きくて、一番速そうだったからに過ぎない。けれど、大人たちはなぜか「ああやっぱり」という顔をした。
その竜は、かつて里に侵入した男が乗っていた竜だった。
その出来事がなければ、ルウには、クロワの弟、クロトが与えられるはずだった。
クロトは、問題の男が連れ去ったと聞かされた。
自分が「裏切り者の子」と認識されていることを、ルウは知った。
ユラは騙されていたのだ、と考える大人は少なくなっていた。表面的にはその言葉を口にしたが、それは、ルウに対する気遣いでしかなかった。
ユラは遺書を残していた。
間違っているのは里のほうだ、と。血と戒律だけを信じて生きている風の子は間違っている。竜たちは自由に飛ばせてやるべきだ。こんな山奥で、飼い殺される生き物ではない。
ユラは、自分も飼い殺されている、と感じていたのかも知れない。
血を残すためだけに、何のためにあるのかもわからない戒律のために生かされていることに、耐えられなくなったのかも知れない。
『もう待たない。わたしはあの人の所に行く』
そう書き残して、ユラは毒を飲んだ。
母は命と一緒に、里を捨てたのだ。
残されたルウは、古い一族の手で育てられた。
里のために腕を磨き、竜を取り戻して、里を裏切った母の不始末を片付けようと、そう考えるようになった。
自分は間違っていたのだろうか。
縄を打たれ、柱に縛られ、憤怒の視線に刺されながら。
里のために生きてきた。それが、純血の一族の使命だと信じていた。
なのに今、全ての責任を押しつけられて、王都を引き回されている。
生卵が飛んできて、ルウの額に当たった。
かすかに腐った臭い。
このために用意したのだろうか。
低俗だ。
笑う気にすらなれない。
取り戻したかっただけなのに。
何を?
エメラダは何度も、自分の手を見ていた。
王都で号砲が鳴らされる。祝いの席ではないから、ただの告知だろう。処刑まで後十分、と言ったところか。
「何してるの?」
アセラスとサリューだった。
一番隊で、動ける竜騎兵はもうこれだけだった。
ちょっと前まで倍の人数がいたのに、とエメラダは思った。
「アセラス、気付いた?」
「何?」
「さっき、あの子を柱に縛ったでしょ?」
嫌な任務だった。触りたくないくらい嫌な相手だから、ではない。血と泥にまみれた皮膚の感触が残っている。エメラダが感じていたのは、人間が本来持つ、グロテスクなものへの忌避感だ。
「夕べも縛った」
「そうだね」
「気のせいだと思うけど」
なんだかはっきりしない言い方に、アセラスはじれったくなった。
「今更かわいそうだとか言うなよ。あいつは悪党、そう思わないと」
そう言うアセラス自身、憐憫を否定できずにいたのだろう。ルウをつかまえたのは風の子たちだ。つまり、あの怪我は、仲間だったはずの連中がつけたのだ。崖から落ちただけで、ああまでなるはずがない。彼女がなぶられたことは、容易に想像できた。だが、同情することは、死んだ仲間たちへの冒涜のような気がして、アセラスは嫌な気分だった。
「そうじゃないの」
エメラダは言った。
「昨日より、つかみやすかった」
「え?」
「骨がつながっていた。つかんでもぐにゃぐにゃしなかった。治っているのよ! あの子!」
「そんなまさか」
たった一晩であの大怪我が治るはずがない。
いや。
可能性はある。
ミリアは二十メートルの高さから落ちて頭蓋骨を骨折したが、三日で復帰した。
竜騎兵より遙かに強力な血誓を持つであろう風の子は、治癒力も当然遥かに高いはずだ。
たった一晩ではない。一晩もあったのだ。
「……副長の所へ行こう。まずいことになるかも知れない」
その頃、シモンズの所に一頭の竜騎兵が舞い降りていた。騎手は顔面蒼白で、まともに息もできないくらいに憔悴していた。
三番隊の若手だとは思ったが、名前が出てこなかった。
報告を受けて、名前などどうでもよくなった。
「……見間違いじゃ、ないのか?」
若手ははっきりとうなずき、そこで膝をついた。限界だった。限界以上の速度を出し、一昼夜ぶっ続けて飛んできたのだ。
看護兵に彼女の看病を任せて、シモンズは王宮に走った。
大合唱が聞こえる。
殺せ。
殺せ。
殺せ。
あるいは、内なる声だったのかも知れない。
誰かが、殺せ、殺せ、と繰り返している。
誰を? 誰が?
ぎらつく陽光の刺激を受けて、ルウの意識は目覚めた。
殺せ。
殺せ。
殺せ。
里のためにやったのだ。皆が望んだのではなかったのか?
その始末がこれか?
殺せ。
殺せ。
殺せ。
なのにこの仕打ちは何だ?
ぎりぎりと奥歯をかみしめる。血の味がした。
体が動かない。ひどい熱がある。肉体が修復されていく発熱だ。
しかし、間に合わない。適度な補給があっても、動けるようになるまでまだかかる。
縛られ、柱に巻かれたこの状態では、何もできない。殺されるのを待つしか無い。
いや――このままでもできることがある。
奴らに一矢報いる方法を思いついた。
刑吏に気付かれないよう、細く長い息を吸った。純血の竜使いの血は、ルウの怪我を、声を出せる程度にはもう回復させていた。
「聞け! 竜王国の民よ!」
沈黙が、広場を支配した。
「わらわは風の子の姫である! だが、風の子にはわらわを亡き者にして実権を得ようとする連中がいた! 同じように、お前たちの中に、王を殺して実権を奪おうとした簒奪者がいた! そこに仲良く並んでいる連中だ!」
ルウは目線でジンとハーリントンを示す
「全てはそこの二人の共謀であるぞ! 互いの指導者を亡き者にして権力を得ようとする虫どもの仕業だ!」
度肝を抜かれた、と言うのがもっとも適しているだろう。
ルウが全ての裏を悟っていたとは思えない。ジンは彼女を駒として扱っていた。ルウは利用されていただけだから、ハーリントンとジンの密約に気付くはずはなかった。
だが、二人が並んで死刑台を見上げているのを見た瞬間、何か取引があったのだと、嫌でも理解させられた。
許しては置けない。
そう思ったとき、使える「武器」を周囲に見つけた。大博打だった。
「ぬしらの王を殺せと言ったのは、ぬしらの王の家臣である! 考えよ、これが裏切りでなくてなんなのだ! 本物の悪党は誰だ!」
民衆が動揺するのが伝わってきた。
ルウの足下に薪を積んでいた刑吏までもがまごつく。
ルウは笑いたくなった。
民衆の何割かは、裏付けもないルウの言葉を信じている様子だ。
なるほど、策略とはこうやるのか。何とも簡単だった。
いらいらしながら、ジンは立ち上がった。怒鳴る。
「反逆者の世迷いごとなど聞かなくていい!」
ルウはまだわめき続けていた。どこにあんな体力が残っていたのだ? いや、それは予想してしかるべきだった。失策は、王国に身柄を渡したことだ。受け皿の子の力を、王国の兵士は理解できなかったに違いない。
「ジンを信じるな! いつか、ぬしらを根絶やしにする男ぞ!」
「早く火をつけろ! そいつは姫なんかじゃない! 頭がおかしくなっているんだ!」
シモンズが広場に走り込んだのは、その時だった。
異様な雰囲気に彼は息を飲んだ。
が、役目を思い出してハーリントンの元に駆け寄った。
「何ごとだ? この大事なときに」
ハーリントンは、権力者の口調で言った。シモンズはそれに嫌な気持ちを引き起こされたが、軍人の口調を維持して言った。
「三番隊からの報告です。バスキア軍が我が国に向けて侵攻を開始しました」
「戦況は?」
「わかりません。伝令は交戦前に国境を離れております」
ハーリントンは横を向いた。
「処刑は中止だ。ただいまより戦時体制に移行する。軍部を招集しろ!」
刑吏が薪の山を崩しにかかる。
セルダン一世を敬愛していたらしい老人が、なぜやめるのだと叫びながら前に出た。警備兵が老人を取り押さえる。
ハーリントンは騒ぎを尻目に馬車に乗った。その隣にジンが飛び込んだ。
「なぜやめるのです! あれは純血の一族、すぐに動けるようになる。今殺しておくべきだ」
「裁判を開く必要がある」
「……なん、だと?」
「今殺せば、あの子供を黙らせるためにやったのだと民は思うでしょう。それは避けなければならない」
「しかし!」
「落ち着きなされ」
ハーリントンはそう言って、ジンの肩を叩いた。
「要は、民にどちらが信頼できるかわからせればよいのですよ。幸い、隣国がことを起こした様子。敵は強大です。いくつかの村が消えるかも知れません。風の子の……あなたの力でそれを撃退できれば」
ジンは下卑た笑いを浮かべた。ジンの売名のために民を犠牲にしようと、ハーリントンは言っているのだ。
「……急ぎましょう。新体制になって初の軍務ですぞ?」
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