第8話 神話

 ユラはまあ、失礼なだけで、持とうと思えば好感を持てる。ようするに世間知らずで率直なんだ。だから俺みたいなのをあっさり信用して風呂まで貸してくれたわけだけど、その叔父というのが、何とも食えないやつだった。

 ハマ。風の子の族長だ。

 小柄なのはユラと同じ。年の分だけ筋肉は落ちている。決定的な違いはハマが男だということ。それだけで好感度マイナスだけど、世間のことなんか知らないくせにやけに尊大なのが一番気に入らない。

「余所者がどうしてここにきたんだね」

「ガムさんは道に迷っていたのよ」

「黙ってなさい。客人に聞いているのだ。あんたはこの里のことを知っていて、探しに来たのではないのかね」

 その通り。わかっているなら聞くなよ。だけどそう言うわけにはいかない。少なくともこいつには。

「伝説は知っているよ。おとぎ話だと思っていた」

 大陸の創世神話は、おおよそこんな話だ。

 まだ大地と海が別々になっていなかった頃、神々は空に住んでいた。

 ある、たいそう怠け者の神が、散らかった宮殿を片付けるために、人間をこしらえた。

 神の宮殿は空の全てを覆っていた。掃除のためにはたくさんの人間が必要だった。十分な人数は、さすがの神にも用意できなかった。神と違って人は不死ではない。全ての仕事が終わる前に人間は死んでしまう。そのたびに新しい人間を作るのは面倒だと思った神は、人間が人間を作れるようにした。子を産む力を与えたのだ。だけど、与えた力は大きすぎた。人は天界を埋め尽くし、雲の隙間からこぼれた。

 最初の人は混沌に落ちて魔物になった。神は大地と海をわけて、人が混沌に落ちないようにした。

 さらに増えた人間は大地に落ちた。これが今の人類の祖先とされている。

 やがて宮殿はきれいになった。

 最後まで残った人間には、新しい仕事が与えられた。魔物になった最初の人間を駆逐することだ。手強い魔物に対抗するため、神は新しい生き物を作り、最後の人に与えた。それが竜だ。

 怠けて宮殿を散らかしたことで余計な仕事を増やしてしまった神は、これに懲りて勤勉になったという。

 散らかし好きの子供に聞かせる昔話だ。

 竜を与えられた人間が、この隠れ里の人間の祖先。

 風の子、と名乗っていることは、今初めて知った。

「今時そんな与太信じてる人はいないさ」

「我々は信じている」

「だろうね」

 じゃなかったらユラみたいな美人が山奥でミミズ狩りなんかしているものか。おっと、悪い癖だ。この女を口説くつもりなんかないぞ。後で面倒なことになるのはわかってるんだからな。

「俺はちゃんと帰れればそれでいい」

「期待に添いかねる、と言ったら?」

 おやおや。このおっさん。俺が思っていたより素直じゃないか。腹芸に慣れていないだけか? 歓待するとか言って足止めすれば波風も立たないし俺も油断したかも知れないのに。

「ここを秘密にしておきたいんだ?」

「当然だろう。我々は下界に関わってはいけない種族なのだ」

 ふん。気にいらねえ。自分たちが人間じゃないみたいな言い方だ。

「俺はただの向こう見ずな冒険者さ。帰って誰かに話しても、『またいつものほら話が始まった』で済むよ」

「それを我々が確かめる方法がないのでな」

「じゃあ、俺個人を信用できると思ったら、下界に返してくれ。それまでは監禁でも幽閉でも好きにすればいいさ」

 ハマはしばらくうなっていたが、やがて重々しくうなずいた。

 よしよし。これで第一段階は成功だ。


 さすがに、ユラの家には泊まれなかった。若い男女を同衾させては何かと問題がある、と考えるのはどうやら、文明の発達とは無関係らしい。なんて考えるのも失礼なんだろうな。

 風の子の隠れ里は、確かに田舎だけど、小さいながらもれっきとした社会だった。学校まであった。俺はその、学校に世話になることになった。ただ、俺の知ってる学校とは違って、先生は一人だけ。ユラの話に出ていた、ガン爺、と言うのがその役目にあった。名前の通りの年寄りで、教職者のくせに昼間っから酒を浴びていた。酔っぱらってはいなかった。里の住人もおおらかなもので、ガン爺がいくら飲もうが正体をなくすことはないと信じ切っていた。

 ガキどもと雑魚寝して三日が過ぎた。外からきた人間が珍しいのは当然で、俺はちびどもにせがまれていろんな話をした。

「俺の家は十階建ての塔がついていて壁は真っ白でだな……」

「うそつきー」

「休みの日になると通りという通りに芸人が集まって芸をするんだ」

「うそつきー」

「甘いお菓子が毎日」

「うそつきー」

 もうなんも教えてやらん。

 どっちかというとちびどもの話のほうが嘘っぽかったさ。ご先祖様は百万の魔物と戦って勝ったんだ。どこで? このまえ雲の上まで飛んでみたけど、神様の宮殿は見つからなかった。当たり前だっての。雲の上には太陽しかないんだよ。

 そんな話と同じ基準で判断されているんだろうなぁ。ちびどもの話が全部神話の類だったことに、俺は薄ら寒いものを感じた。こいつら、今の世の中がどうなってるか全然知らないんだ。山奥でひっそり暮らして、するはずもない魔物の復活に備えて竜を養っている。それってひどいことじゃないのか? ユラやおっさんは、外の世界の存在を知っていたけど。俺はこの疑問をガン爺にぶつけてみた。

「十何年かに一度、君みたいなのが迷い込む。君のような気のいい若者なら問題ないが、竜を見せ物にしようとする男や、我々を特異な生き物だとみなして研究しようとする輩も少なくない」

 そんな連中がいたことを、俺は知らなかった。霊峰ファナンに入るのは、自殺志願者ばかりだと思っていた。霊峰から戻ってきた人間は、いない。

「そいつら、どうなった?」

「聞きたいかね?」

 聞きたくなかった。一歩間違うと、俺もそいつらの仲間入りだ。

 ユラとの交流は続いている。彼女も、外から来た人間が珍しいのだろう。元々好奇心は旺盛と見た。そうじゃなかったら、俺を助けたりしなかっただろうし。俺はちびどもにしてやったのと同じ話を、ユラにもした。

「うそつきー」

「……ユラまでそんなこと言うのかよ」

 ユラはくすくす笑って「リリから聞いたのと違うんだもん。十階建てじゃなかったの?」

「八階が本当。半分は倉庫」

「いい家の子なんだ」

 そういう表現をされると、どう返していいのか悩む。実はボクは王子様なんだ、と言ったら、ユラは信じるかな。それとも「うそつきー」?

「ねえ。渡るのに一晩かかる川があるって本当?」

「それは本当。だけど、竜なら一時間もいらないんじゃないかな」

 ふと気付いた。

「フゥア川の本流はファナンから出てるんだけど、見たことないのか?」

 ユラはゆるゆると首を振った。

「この谷から出ちゃいけないの。外の人に見つかると大変だから」

 そのしぐさがすっごくざんねんそうで、俺は同情しそうになった。

「……見たいなぁ」

 見ない方がいい、と言えなかった。言えば理由も説明しなきゃならなくなる。今、フゥア川は交戦区域だ。毎日死体が流れる大河を、ユラには見せたくなかった。

 幻の大河を想像するユラの顔を、俺は罪悪感を抱えて見ていた。


             ◆


 谷に来てから一週間が経った。

 そろそろ帰らにゃまずいかも、と思う。

 唇をあわせているのにそんなことを考えているのは、女性に対してとんでもなく失礼なことだとの自覚はある。あるけど、ここに骨を埋めるつもりはない。

「……別の女の人のこと考えてたでしょ?」

 目を開けたユラが、俺を睨んだ。

 外れていたけど、どきっとした。

「まさか」

「ほんとう?」

「本当だよ。こんなことしたのは君が初めて」

 これは大嘘。だけど、そう言われて気分を悪くする女の子はいないはずだ。

「私も初めて」

 ユラはにっこり笑った。心臓がちくりとした。

 どうしてこうなってしまったんだろう。風の谷で暮らすうち、俺はユラに惹かれてしまった。そんなつもりはなかったのに。ユラの方も俺を好いてくれた。

 帰りたくない。国が滅びようが国民が皆殺しにされようが知ったことか。俺はここで俺の人生を全うするのだ。馬鹿オヤジの後始末なんかしてやるもんか。

 本気でそう思った。

 だけど俺は王子なんだ。責任がある。軍を強くし、帝国も十二都市連合も手を出せないようにしなければ、王国は死体の山を残して地図から消えてしまう。戦いたいわけじゃない。お互いに、戦わない理由を作るんだ。消耗が大きすぎて侵略は得策ではない、と帝国に思わせれば、それだけで十分なのだ。

 ユラがまたキスをせがんだ。俺はその肩をつかんで留めた。

「君と一緒にいたいよ。でも、俺には帰ってやらなければならないことがあるんだ。俺が帰らないと、何万人もの人が死ぬ」

 冗談にしたかったんだろう、ユラはふざけた調子でこう言った。

「うそつきー」

「嘘じゃない!」

 俺は叫んだ。生の感情を顕わにしたのは、実は初めてだった。俺はいつだって、へらへらした出来損ないか、政治のための道具の顔を演じていた。

「本当のことを言う、一度しか言わない」

 俺は話した。

 自分が王子であることを明かし、王国が今どんな状況にあるのか、極秘の任務を抱えていることも語った。ユラは黙って聞いていた。

 言葉にしてみたら、あっけないくらい短かった。なんか、ちびどもの話のほうが、よっぽどディテールが細かくて、現実味があった。

「俺は、竜を手に入れるためにここに来た」

 ユラはうつむいた。

「……うそつき」

 肩が震えていた。

 どだい無茶な話だったんだ。伝説の竜の力を借りて戦うなんてさ。俺が隠れ里を見つけただけでも、信じられないくらいの僥倖だったんだ。

「君に対する気持ちは嘘じゃない。自分でも、こうなるなんて思わなかった」

 うそつき、とユラは言わなかった。信じてもらえたのに、うれしくなかった。

「……あなたを助けたい。でも、竜は、渡せないわ」

「いいよ。これ以上君を苦しめたくない。麓に降りる道だけ教えてくれ」

「降りるの?」

「ああ。勝てないと決まったら、早めに降伏しないと」

 俺がこうしている間にも、前線では兵士が死んでいるのだ。

「どうして先に話してくれなかったの?」

 言うわけにはいかなかった。言えば、殺されていただろうから。ハマはいまだ、俺に敵意を持っている。

「どうしてあんなこと言ったのよ!」

 ユラは突然泣き出し、俺の胸を叩いた。

「あんなこと……?」

「君を探してたって……」

「あれは」

 その場の冗談だった。でも、そんなこと言い出せる雰囲気じゃなかった。

 ユラは俺を思いっきりひっぱたいた。涙がぼろぼろこぼれる。抱きしめたい。けれど、それは彼女への裏切りだ。ちくしょう。こうなることはわかっていたのに。どうして、どうして俺は気持ちを抑えられなかったんだ。

「本気じゃなかったって、それはわかってる。初対面であんなこと言われたって、誰も本気にしないもの。田舎者でもそのくらいの頭は回るのよ。でも、でも、わたし、夢見てた」

「……」

「わたしたちね、山より高く飛んじゃいけないの。子供がそんなことしたらおしりをぶたなきゃいけないの。外の世界に見つかっちゃいけないの。誰にも出会っちゃいけないの。血統を守らなくちゃいけないの! でも、夢を見るのは自由だった。……この山の向こうに、わたしの知らない世界があるんだって。わたしのまだ知らない素敵な人がいるかも知れないって。好きになる人は自分で選びたいって! 夢で終わればよかった!」

 俺たちは、似ていたのかも知れない。

 腕は、自然に回っていた。

「帰ってくるよ。絶対」

「うそよ」

「本当さ。降伏すれば戦争なんかすぐ終わる。そしたらまたミミズに襲われるからさ、助けにきてよ」

「……無理よ。王子様なんでしょ? 降伏したら捕まるわ」

「じゃあ敵をやっつける」

 それはもっと難しいことだった。出来ると信じたかったけど、無理だ。王国軍はがたがただ。補給もままならなくて、死体に刺さった矢まで回収して使っている。勝てるはずがなかった。

 竜があれば。

 それだけで戦況は一変する。

 伝説の生き物。魔物と戦うために作られた力。誰も手にすることが出来ない。それを従えたら? 勝てるはずがない、と敵に思わせた時点で、戦争は終わる。

「あんなこと、しなければよかった」

 ユラは唇に触れた。

「……ごめん」

 答えるなり、ユラは俺の唇にむしゃぶりついてきた。

 痛みを感じた。二度目の口づけは血の味がした。

 唇をかみ切られたのだ、と気付いたときには、口の中になま暖かいものが入り込んでいた。息が止まる。時間が止まる。世界が止まる。

「ごめんなさい」

 ユラはもう一度、そう言った。

「今、あなたを呪いました」

 言われた途端、俺は寒気を感じた。何しろ相手は神話の一族だ。何が出来てもおかしくない。

「今、あなたはわたしの血を飲みました。傷口からも、血が入ったはずです。風の子には、結ばれる前に互いの血を受け入れる風習があります。血の誓い、血誓といいます」

 唇の端から赤い筋を流しながら、ユラは言った。鬼気迫る表情。でも、美しい。一緒に死にたい、とすら思った。

「血誓……」

「裏切れば死が襲いかかる呪いです。血を介して、二人は一つになるのです」

 急に、頭がかあっと熱くなった。何故だか考える間もなく、熱は全身に広がる。幻覚でじゃない。本当に体がおかしい。呪いなのか? 俺の気持ちは嘘だったのか?

「俺、どうな、るん……だ?」

 もう考えるのも辛いのに、思い出すことがあった。

 こんな昔話があったな。妖精に恋した男がいた。二人は結婚したけど、男は人間社会に慣れない妖精に嫌気が差して浮気した。男と愛人は、妖精の涙を飲まされて死ぬ。

 俺はまだ裏切っていない。それとも、始めの動機が不純だった時点でダメだったのかな。


 朝がきたことが信じられなかった。

 昨夜と同じ岩棚の上で、俺はユラに膝枕されていた。彼女の口元にこびりついた血を見て、夕べのあれが夢じゃないと思い知らされる。

「……死にませんでしたね」

「死ぬと思ってた?」

「はい。わたしも死ぬつもりでした」

 嘘にも冗談にも聞こえなかった。

 俺は身を起こした。彼女の後ろに、一匹の竜が守るように鎮座していた。

「あれはなんだったんだ?」

「呪いです」

「それは聞いた」

「賭です。あなたは勝ちました」

「…………」

 人の命を勝手に賭けないで欲しかった。でも、同じ気持ちを抱いていたのは確かだ。だから文句はなかった。

「あなたは血に認められました」

「血に?」

 ユラは泣きそうな顔で笑った。

「わたしの、純血の一族の血は、竜に近いらしいのです。これを受け入れると、竜を従えることが出来るようになります」

「それは……」

「この子を連れて行っても構いません。わたしの竜です。ことが終わったら帰ってきて下さい。わたし、いつまでも待っています」

 山頂にかかった太陽が見える。さわと吹いた風が、森の臭いを運ぶ。

 朝だ。今は、生まれ変わった朝なんだ。

 竜が鳴き声を上げた。お前なんぞ気に入らないが、ご主人様のために手伝ってやる、と言っているように聞こえた。

「名前は?」

「クロワ」

 堂々たる体躯の竜だった。

「戻ってきたら夕べの続きだ」

「あ、あの」

「誓いの次は結ばれるんだろ?」

 真っ赤になったユラの頬に口づけして、俺はクロワにまたがった。

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