第4話 霊峰の出会い

 辺境って言うのは差別用語だったかな? よく考えたら妙な表現だ。何に対する「辺」で「境」なんだろう。ここは大陸のど真ん中。どうして「辺境」なんだ。はじっこって言うならむしろ、沿岸諸国なんか辺境中の辺境だろう。けど、明らかにあっちのほうがにぎわってる。海のそばに生まれたかったな。そうすれば、こんな緑臭いところをうろうろしなくても済んだのに。

 おっと。これは自分の意志でやっていることだった。

 しかし俺って馬鹿なんじゃないのかな。いくらお国の一大事だからって、伝説なんかに頼らなくてもいいような気がする。霊峰ファタルに入るって言った途端、ガイドたちは逃げやがった。ああ、旅費も持ち逃げされたっけ。今度会ったらぶん殴ってやる。いやいやあんなやつのことを考えてる暇じゃない。俺だって結構ピンチだ。声に出して言っちゃうぞ。

「……ここ、どこだよ?」

 誰も答えてくれない。三人いたガイドは今頃麓の村で一杯やってるんだろう。俺の金で。いやいや国民の血税で。ちょっと心が痛む。

 こんなことならバスキアに潜入して破壊工作でもやった方がよかったかな。じゃなかったら社交界で情報収集。一国の王子がやったらまずいか。いっそこのまま失踪しようか。俺が帰ろうが帰るまいが、王国にとってはかわんないだろうし。……帰れたらの話だな。

 まったく馬鹿オヤジめ。全部お前のせいだっつーの。

 国家存亡の危機を招いたのはお前だぞ。自覚あんのか?

 まあ気持ちはわからなくもないけど、困るのは次の世代なんだから、始めたことはきちっと始末しておけよ。

 ぼやいていたら喉が渇いてきたな。水は……ありゃ、これしかないのか。仕方ない。汗もずいぶんかいたし、水場をさがしてひとっ風呂浴びるとするか。

 ……しっかし、いけどもいけども山だなぁ。めっちゃ木が生えているのに「森」じゃなくて「山」の印象が濃いのは、この急な坂のおかげだろうな。なるほどこんな地形じゃ材木を切り出すのも難しいし、亜人やら妖精やらがいてもおかしくない。ん? この先ちょっと下ってるな。川があったらラッキー。川沿いに歩けばさすがに山を出られるだろう。

 お? なんだよ川じゃないよ沼だよ。うへえ、どろどろだ。これじゃ飲めないよなあ。水浴びなんかしたら余計汚くなりそうだ。

 疲れた。気が抜けたのかな。ちょっと休もう。

 ふう。静かだ。風が気持ちいい。葉ずれの音が眠気を誘う。ちょっとだけ……ちょっとだけ。

「………………?」

 眠る直前にある酩酊かと思ったけど、違う。地面が揺れたような気がした。そーっと頭を起こして周囲を伺うと、

「わ、わ……なんだ?」

 地面が盛り上がっている。地面の下を何かが動いているんだ。モグラにしては長いようで、蛇にしては太い。地面がぶるぶる震えている。まずいんじゃない?

 声もなく、そいつは身をくねらせて躍り出た。ミミズだ。

「……ミミズ……か?」

 子供の頭くらいの太さがあって、長さは見当もつかない。出てきた部分だけでも俺の身長よりでかいそれを、ミミズと呼んでいいのか? でもミミズにしか見えない。飛び散った土の下から、桃色のぬめっとした頭(?)が出てきた。目も口もない。頭全体から、どろっとした液体がにじみ出ている。ぽたりと落ちた液体が、生えていた草を溶かした。唾液……だろうな。さわったものを溶かして吸収するのか。

「冷静に見てるなよ俺、逃げろ!」

 一目散に斜面を駆け上がる。ちらちら振り返ると、ミミズは地面をするすると進んで俺を追っていた。蛇みたいな動きだ。鱗がない分余計怖い。生肉で作った鞭に見える。

 ここで死ねるかこんちくしょう。俺は全力で走った。鍛えていたつもりだったけど、慣れない山歩き、しかも当てもなくさまよったせいで体力を消耗していた。木に肩を打ち、下草に足を取られ、ついに転んでしまった。何とか立ち上がったときに、ざざざざ、という草をかき分ける音が俺の後ろで止まった。追いつかれてしまった。

 こうなりゃやけだ。

 俺は剣を抜き、ミミズと向き合った。見た感じ皮膚は柔らかそうだ。切れないことはない……と思う。通じるのか? 人間以外に刃物を向けるなんて初めてだぜちくしょう。

 ミミズはぼたぼたよだれを垂らして震えた。

「卑猥だよ、お前」

 こんなのだけには殺されたくないね。震えを軽口でごまかして、俺は剣の柄を両手で握りしめた。先手必勝!

 告白すれば、じっとしていられなかったんだ。都会育ちの俺が、種類も知らない木に囲まれて、名前も知らない化け物に襲われて、それでも冷静に剣を振るえたはずがない。内側で爆発した恐怖が俺をはじき飛ばしただけだ。

 ミミズに突撃して、横なぎに振った剣は、木の幹に引っかかって手からすっぽ抜けた。慣性に動かされた俺(丸腰だ!)だけがミミズに突っ込む。体当たりをよけるだけの知能は、ミミズにはなかった。ぷにょっとしているのに固さもある。気持ち悪い生き物と俺は、もつれ合って転がった。

「うわ。よせ!」

 ミミズの側には倒れたという意識はなかったに違いない。鎌首をもたげたような姿勢は獲物への恫喝であって、こいつの本来の体勢は地べたを這うものだろう。ミミズはするすると俺の体にからみついた。締め上げる。獲物を絞め殺してからゆっくり食らうのが、こいつの補食なのだろう。って冷静に考えるな俺。動け。しかし動きたくても、こうも関節を極められてちゃ。もしかして――。

 思わずぞっとしてしまった。ミミズ。知能はなくても脳みそはあるはず。何度もやっていればこの程度は覚えられそうな気がした。

 ――こいつは、人を食い慣れている。絶望のあまりの暗さに、俺は意識を失いそうになった。

 その時だった。

 風切り音がいくつも聞こえ、とすとすとす、と小気味よい衝撃が地面を伝う。ミミズの力が緩む。

「こっちへ!」

 若い女の声。それが誰だか見もせずに、俺は声のほうへ走った。風切り音がまたいくつも聞こえた。弓矢だ。

「大丈夫?」

 女が言った。狩猟用の小さな弓を、まだ構えている。腕は細かったが筋肉質。指の皮は俺よりずっと厚かった。額に青い入れ墨をしていた。左右非対称の、呪術的――に見える円と波線の組み合わせ。意味はわからない。

「下の人間が何をやっているの?」

 その表現を聞いた瞬間、俺は今までの苦労を全部チャラにしてもいいとさえ思った。

「近くに誰かいると思ってた」

「どうしてよ」

「あの化け物、人間の締め方を知っていた。近所に食べる相手がいるってことだ」

「ミーム」

 唐突に、女はそう言った。名前か。

「あ、俺はガム。助かったよミーム。あり」

 ありがとうと言おうとしたところで、女が顔を伏せて震えているのに気付いた。笑っている?

「ごめんなさい。あなたが化け物って言ったあれの名前がミームよ。私はユラ。風の子のユラ」

 俺は社交界で幾多の女を骨抜きにした自慢の笑顔で言った。

「君に会えて幸せだ」

 ユラはまた笑った。正し今度は、天を仰いでげらげらと。

 失礼な女だ。それが彼女の第一印象だった。

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