11 膝の上のおぼろくん
11-1
おしるこ風クロワッサンを口にしたら、イチゴ牛乳から味が消えた。あんなに美味しかったのに、甘みを素通りして今はイチゴの香料臭さしか感じない。私の舌はもう、クロワッサンの甘さしか分からなくなってしまった。
こうして色々なものに鈍感になって、いつしか私は当たり前のことにすら気付けなくなっていくような気がした。
「助けて鮎子。さっきからイチゴ牛乳がちっとも甘くないの」
「甘いパンに甘い飲み物合わせるからでしょ。どっちかひとつにすればいいのに」
この欲張り! と喝を入れられるのを待っていたのに、それきり口を噤んだ鮎子はちらりと私を見やっただけで、すぐに視線を手元に落とした。どちらも甘くない鮎子の昼食。カレーパンにブラックコーヒーという刺激的な取り合わせだ。
だけど鮎子がよそよそしいのは、胃が悪くなりそうなものを口にしているせいじゃない。私たちの間には、相変わらず気まずさがギクシャクと音を鳴らして居座っていた。
「これ、ひとくち飲んでみたら」
鮎子の声は、いつもに増して低く無愛想だ。くれ方まで可愛げがない。缶コーヒーを手の甲で私の机に押しやってくる。納豆を練り上げている食卓の兄に、「ちょっとお醤油とって」と頼んだときの仕草に似ていた。
私は何ともいえない気持ちのまま缶に口をつける。想像通り、苦い。舌が縮こまるのと一緒に目までしょぼしょぼした。
「さっさとイチゴ牛乳飲んで。飲み終わるまでそのパン食べるの禁止ね」
「うわっ甘い、最初に飲んだときより甘いよこれは。やったよ鮎子! ありがとう!」
コーヒーとイチゴ牛乳を握ったまま全力で喜んでみても、場はまったく盛り上がらなかった。
私が喋るのをやめたら、今度は鮎子が「あ、そうそう」と口を開いた。一緒に餅つきをやったら、私たちは案外いいチームワークを発揮できるかもしれない。そんなことを考えながらイチゴ牛乳を啜っていると、無意識のうちにストローを噛み締めていた。
「何ていうか、悪かったね。その、色々とさ」
いい淀む鮎子は、稀に見る歯切れの悪さだ。兄の話だとすぐに分かった。鮎子は悪いことは何もしていないし、かといってあれ以来ずっと気まずいのも事実だし、何と答えたらいいものか悩んでいると、せっかちな鮎子は開き直ったようにひとりで話を続けた。
「うん、分かってる。あたしだってそう簡単に許してもらえるとは思ってない。だけどもう限界。いい加減、息が詰まって仕方ないんだけど。だから、そろそろわだかまりを解消したいんだけど。いつも通りに戻りたいんだけど。いい? いいよね?」
いちいち乱暴に跳ね上がる言葉尻。挑発的に細くなる鮎子の目を見ていたら、堪えきれずに噴き出してしまった。こういうときは普通、猫なで声でご機嫌を伺うものなのに、鮎子ときたら踏ん反り返って頭ごなしにまくし立てるんだもの。斬新な和解の申し立て方に、笑いが止まらない。
そうだった、兄は鮎子のこういう強情なところに惚れたといっていた。
「ちょっと何よ! 人が真剣に詫び入れてんのに笑うことないでしょ」
「だって鮎子、全然謝ってるように見えないんだもん」
「失敬な! ちゃんと悪かったっていったでしょ」
「鮎子は、私に謝らなきゃいけないようなことしてないよ」
「したよ。だって、隠してた」
「えぇー! この前は隠してたわけじゃないって、いったくせにー」
「だって、そうでもいわないと格好がつかないから、つい……」
「やーい嘘つきめ!」
「だからこうして謝ってるんでしょ。本当に悪かったと思ってる。ごめん!」
鮎子のごめんは、ごめんなさいのごめんというより、忍者が口にするような気迫のこもった御免だった。笑い話で片付けてしまいたかったのに、鮎子はまた真摯な顔に戻っている。相変わらず頭も下げなければ目線も下げない。ただ一心に私を見つめていた。
「謝らなくていいよ。その代わり、ふたりを引き合わせた私に感謝してよね。恋のキューピッド様だよ」
「それなら、あんなろくでもないのじゃなくてもっといい男を紹介して欲しかったわ」
「キューピッド小春的にはお似合いだと思うよ。ろくでもないお兄ちゃんには、鮎子みたいなのがぴったりだもん」
「ですよね。黙って友人の兄貴に手を出すあたしも相当ろくでもないからね。似た者同士、ぴったりですよね、はいはい」
鮎子は自棄になったようにコーヒーを飲み干すと、荒々しい音を立てて缶を机に戻した。私も負けじとイチゴ牛乳を啜り上げる。
「そうですよ、ぴったりですよ。お兄ちゃんみたいなどうしようもない男には、鮎子みたいなしっかりした彼女がいたほうがいいんですよ。だからこれからも、お兄ちゃんを、どうかよろしくね」
何もいい返してこない代わりに、鮎子はむき出していた前歯を徐々に唇で回収していく。最後には、唇をすぼめた乙女の表情になった。初めて見る顔に、私は再びストローを齧った。
鮎子は頭に爪を立てている。本当に痒いのか怪しい後頭部をひとしきり掻き毟ると、そっぽを向いたまま口を開いた。
「よし、わだかまり解消記念に今日は甘いものでも食べ行こう」
「うわーい! ご馳走になりまーす」
「馬鹿いわないでよ、割り勘に決まってるでしょ」
「ひどい。この流れからしたら絶対鮎子の奢りなのに」
「謝る必要ないって自分でいっといて何よそれ」
鮎子に額を小突かれ、顔が右を向いた。顔中に笑みが残ったまま、隣のおぼろくんと目が合った。そのまま笑いかける勇気も、真顔に戻す覚悟もない私は、中途半端に緩んだ顔を、それでも反らせずにいた。
次の瞬間、我が目を疑った。おぼろくんの顔に、ほんのりと笑みが浮かんだのだ。首を曲げて後ろを確かめる。窓があるだけで誰もいない。もう一度、恐る恐るおぼろくんの様子を伺うと、違わぬ笑顔をそこにあった。そこまでしてようやく、笑いかけてくれたという事実を受け入れることができた。
おぼろくんは、鮎子と仲直りができたことを祝福してくれるように、パチパチと意味ありげな瞬きを送ってくる。ありがとう、という意を込めて私も瞼を下ろすと、おぼろくんは小さく頷いて、鈴木くんに視線を戻した。
目を反らされても、もう心が乱れることはなかった。
「うそうそ、割り勘にしよ」
綻びがまったく出て行ってくれない頬をぬくぬくと両手で押さえ込みながら、財布を探っていた鮎子に向き直る。にやけた声は誤魔化せなかった。
「いい、やっぱりあたしが奢る。だからこれからも、どうぞ、よしなに」
帰ってきたのは、ずいぶん古風な返事だった。鮎子は膝の上の鞄に目を落としたまま、パトリシアさんカットを揺らして頭を下げた。目の前に現れたつむじの渦は、あの日以来心に居座り続けたしこりをすっきりと流してくれた。
「じゃあ、いっぱい食べちゃうよ。もりもり食べちゃうよ」
「好きなだけ食べるがいいわ。小春のそういうちゃっかりしたところ、実はあたし、嫌いじゃないから」
「そういうところが好きって素直にいえない鮎子が、私は好きだよ」
鮎子は眉毛を持ち上げて軽く鼻で笑った。そんなことはいわれなくても分かっているというような勝ち誇った表情だ。じゃあ、この際知らないことも教えてあげよう。
「お兄ちゃんは、鮎子の強情なところに惚れたらしいよ」
「うげぇ、最悪。あんたたち兄妹でそんな話してんの? やめてよ気色悪い、鳥肌立つわ」
ようやくいつもの手厳しさを取り戻した鮎子は、大口を上げてカレーパンを食べ始めた。私はクロワッサンに伸ばし掛けた手を止めて「お兄ちゃん、もう他の女の子なんか目に入らないくらい、鮎子に骨抜きの首ったけらしいよ」と追い討ちを掛けてみる。
胸焼けよりも、鳥肌のほうがずっといい。咽せる鮎子を堪能しながら、心が満たされていくのを感じた。
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