11-2
私は奮い立っていた。思いやり、思いやり。合言葉のように口の中で唱える。世間がおぼろくんを傷つけるのなら、その分私がおぼろくんに優しくすればいい。腹を立てるよりもまず、おぼろくんのために何かをすべきだ。
兄の思いやりという言葉は、怒りで何も見えなかった私の道しるべとなっていた。
毛だらけの白い足を見て、私はケーキが並んだショーケースを前にしたときと同じ興奮を覚えていた。この足から黒い毛が完全にいなくなるのを想像しただけで、じっとしていられないほどわくわくした。おぼろくんは絶対、もっと綺麗になれる。
手の震えを堪え、毛抜きで一本一本脛毛を排除していく。狙いを定めるたび、おぼろくんの足がわずかに反応した。女の子のそれとは違うたくましい毛は、どんなに注意深く引っ張ってもすぐに血が滲む。
女の子として生まれてきていれば、経験せずにすんだ痛みだ。頑張れ、頑張れ、と毛を挟むたびに念じる。
だけど自らも毛抜きを握るおぼろくんは、もう十分頑張っていた。なら他に、どんな言葉を掛ければいいのだろう。
「うぅぅ腰が痛い」
無理な体勢を続けていたおぼろくんは、呻き声を上げて背伸びをした。細っこい腕が立体的に盛り上がる。筋が浮き出たおぼろくんの腕は、やっぱり私の腕とは全然違う。
「抜かないで剃ったほうがいいのかなぁ。……とりあえず、おやつでも食べながら休憩しよっか」
「うん、そうしよう。思ったより重労働だね、ムダ毛処理って。ちょっと疲れちゃった」
珍しく弱音を吐いたおぼろくんは、おやつには手を出さず後ろに倒れ込む。散らかり放題の部屋で、後ろも確認せず横になろうとするなんて自殺行為だ。私はすかさず這いずって、おぼろくんの頭が落ちてくる位置に体をねじ込んだ。
固いもの上に座った感覚が尻に広がるのと同時に、おぼろくんの頭が太ももに乗った。尻で何を踏み潰してしまったかなんて、もうどうでもよくなった。
「ありがとう」
意に反して完成した膝枕だったのに、お礼をいわれてしまった。仰向けから横向きに体勢を変えたおぼろくんは、すんなりと私の太ももを枕にしている。
この状態で黙るわけにはいいかないのに、頭が回らない。目線のすぐ下におぼろくんの顔があることを強烈に意識しながら、私は雲柄のカーテンに視線を上げたまま動けなくなった。
これは、脛毛を抜いていた前傾姿勢より辛いかもしれない。腰から下は感覚が麻痺して何も感じないのに、腰より上からは凄まじい勢いで血が巡っている感覚がはっきりと感じ取れた。心臓の音が漏れ出さないように、私は精一杯背筋を伸ばす。
必死にその姿勢を保っていると、下からおかしな呼吸が聞こえてきた。そっと視線を忍ばせると、膝の上のおぼろくんは目を閉じていた。規則的な寝息に合わせて、上半身が膨らんだり縮んだりしている。
あれこれ考えて押し黙っていたのは私だけだった。大胆な居眠りに緊張の糸が解けると、無駄に伸びていた背中が丸くなる。すると、おぼろくんと顔の距離が近付いた。
濃い下まつ毛が頬に影を落とし、肌が一段と白く見える。色白を通り越して、血が通っているのか心配になるほど青白い。よく見ると、目の下がとくに不健康な色をしていた。
ちょっと目を離した隙に眠ってしまうおぼろくん。眠れぬ夜が幾度となく訪れるのだろうか。起こさないよう下半身に気を配りながら、私は膝の上の寝顔を満喫した。油断しきった締まりのない表情を独り占めだ。
眠っているおぼろくんを見るのは初めてだった。性別を超えた、ありのままの姿を見た気がした。
「やだなぁ僕、ゴリラみたい」
突然喋り出したおぼろくんは、とろりとした声で謎めいたことをいう。寝言なのか話しかけられたのか分からず困っていると、膝の上の頭が動いた。
「今、バナナ食べてる夢見てた」
目も開けずにおぼろくんが続けた。寝言ではないことが分かったものの、本当に起きているのかも怪しい。さっきから口がむにゃむにゃ動いているのは、まだバナナを食べているせいかもしれない。
私はゴリラ化したおぼろくんの姿をウホウホと想像して、ぐらつく心を抑えようとした。
「おぼろくん、お腹空いてるんじゃない?」
「ひとふさ、皮ごと食べてた。野蛮だなぁ」
「起きて、おやつ、食べたら?」
「いい気持ち。なんだか幸せ」
まだ半分夢の中にいるのか、話が噛み合わない。「でも本当はバナナ、そんなに好きじゃない」といいながら、ずれてきた頭を私の腿に乗せ直してくる。刈り上がった髪が腿に刺さってちょっぴり痛い。
「大丈夫? 小春ちゃんは眠くなぁい?」
おぼろくんは目を閉じたまま、間延びした声で話しかけてくる。またすぐバナナの話に戻るかもしれないのに、私は感激に溺れた。半分眠りながらも、私を気遣ってくれるおぼろくんの優しさが奇跡に思えた。
「私は平気、眠くないよ。だからおぼろくんは、寝てていいよ」
開きかけた瞼が、私の返事で静かに閉じていく。膝の上でまどろむおぼろくんは、ぎゅっと抱きしめたくなるほど無防備で、ゆったりと動く薄い唇は触れてみたくなるほど扇情的で、それなのに、別の生き物みたいに上下している喉仏だけが男の子だった。
心の中が女の子じゃなかったら、おぼろくんのことを好きにならなかったかもしれない。私は、他の男の子にはない魅力を持った彼に惹かれ続けてきた。オカマと揶揄する人がいる一方で、そういうところ愛しく思っている人がいることも、どうか知って欲しい。
安らかな寝顔を見ていたら、湧き起こる気持ちが抑えきれなくなった。この途方もない想いを、どう伝えたらいいのだろう。
喉の奥から引っ張り出せないふるふるとした膨大な感情は、出口が見つからず体の中で足掻くばかりだ。鮎子には簡単に好きだといえるのに。どうしておぼろくんが相手だと、ちっとも上手くいかないんだろう。
おぼろくんが、また寝返りを打つ。私は背中を丸め、仰向けになったおぼろくんに顔を近付けた。鼻から漏れる細い寝息が、頬にかかって涼しい。こそばゆい潤った風を受けながら、私はさらに頭を垂れる。
俯いてできた自分の影に視界が奪われ、目を閉じる必要はなかった。それでも、私の瞼はひとりでに瞬いた。口先をかすめた柔らかな感覚。その温もりは、唇同士の接触が叶ったことを教えてくれた。
キスとも呼べないような、触れるか触れないかのささやかな行為だった。それなのに、私が頭を上げるより先に、強い力に押しやられ唇が離れた。魂ごと突き飛ばされたような衝撃だった。
私を払いのけ飛び起きたおぼろくんは、指先の色が変わるほど強く手を押し当て、口元を覆い隠している。私は彼に触れたばかりの唇を噛んだ。肩に叩きつけられた拒絶が、じんじんと疼いている。
「急に何するの、小春ちゃん。お腹空いて、僕が食べ物にでも見えた?」
おぼろくんは口から手を離さぬまま、冗談めかした高い声を出した。声は弾んでいるのに、目は少しも笑っていない。
心臓に、これまで感じたことのない強烈な痛みが走る。このまま死んでしまうのではないかと怯えた私は、握った拳を患部に押し当て鼓動を確認しながら、無理やり笑顔を作った。
「おぼろくんの寝顔があんまり可愛かったからつい、キス、したくなっちゃった」
「……馬鹿にしてるの?」
おぼろくんの声だった。静かだけど怒りのこもった、紛れもないおぼろくんの声だった。聞きなれない声色で、すぐには何をいわれたのか理解できなかった。それでも、安易な言葉でおぼろくんを怒らせてしまったということだけは分かった。
「小春ちゃんはいつまでたっても分かってくれない。僕は女なんだよ」
おぼろくんがこんなに大きな声を出すなんて信じられない。無表情だった顔に、明らかな怒りが張り付いている。眉間に現れた皺が、瞬く間に深くなっていく。
私はもう、どうしたらいいのか分からなくて、握り拳を胸に押し当て続けることしかできなかった。拳が、体にめり込んでいく。だけど、疼くのはもっと奥のほうだった。空回りした心が摩擦を起こしている。痛くて熱くて破れそうだ。
謝らなくちゃ。そう気付いたときにはもう、おぼろくんは私の気持ちが届く距離にいなかった。怒りの宿った背中が遠ざかっていく。
しばらくして、玄関の扉が閉まる音が届いた。控えめな音は、さらに私の心臓を締め付ける。こんなときでも、おぼろくんは力任せに扉を叩きつけたりはしなかった。
空っぽになった部屋には、ゴーヤチップスが山盛りに乗った皿が残っていた。辛いもの、しょっぱいもの、酸っぱいものときて、最後に残った苦いもの。横取りせず自分で買ってきた渾身のおやつだった。
「何が、何が思いやりだ!」
大声に出して自分を罵った。それだけじゃ足りなくて、ゴーヤチップスが乗った皿を思い切り蹴飛ばした。半円型の緑が飛び散る。壁にぶつかって嫌な音を立てたのに、皿は割れなかった。
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