10-2
昨日おぼろくんが袖を通した制服を、今日は私が着ている。飛び切りの早起きをしたせいで目の下が黒ずんでいるのに、私は何事もなく学校にたどり着いた。
スカーフだって結び目が不細工だし、袖から飛び出る二の腕はパンパンに太いし、丸見えの膝小僧だって蚊に刺され放題で汚い。それなのに、私を笑うものはひとりもいなかった。絶対、何かが間違っている。
おぼろくんは朝から普段通りに見えて、だけど本当にそうか確かめる術もなくて、一度も目も合わさぬまま私たちは放課後を迎えた。
校門をくぐるおぼろくんの背中を、居残った教室の窓から見守る。完全に姿が見えなくなってから、私は渋々机の上に視線を落とした。追試のテスト用紙に名前を書きながら、帰り際のおぼろくんと鈴木くんのやりとりを思い出す。
『今日も暑かったね。帰ったら水ようかんでも作ろうかな』
『渋いなぁお前。せめてアイスとか食えよ。つーかわざわざ作るなよ、買えよ』
『自分で作ったほうが美味しいんだよ。作るのも結構楽しいし』
『なんか……ときめきに欠けるな、朧の放課後』
おぼろくんの発言が、私に向けられたさりげないメッセージのようで嬉しかった。「僕は家で水ようかんを作ってから小春ちゃんのお家に向かうので、どうぞゆっくり追試を受けてください」他愛ないお喋りが、私の耳にはそう聞こえたのだ。
回りくどい連絡手段を取らなければならない距離感を嘆くことも忘れ、私の心は水ようかんに踊った。
さっさと終わらせなければ。テスト用紙の皺を両手で伸ばし、気合を入れる。が、ペンは進まない。この場にそぐわないふたり組が気を散らせてくるのだ。席が一番後ろなせいで、否が応にも視界に入り込んでくる。
追試は私と及川さんだけのはずなのに、放課後にときめきを求めた坊主頭が居座っていた。「追試なんて、及川って意外とおバカさんなんだな」と、鈴木くんは頭の悪そうな笑みを浮かべて、及川さんの周りを徘徊しちょっかいを出している。
「追試じゃないよぉ。小テストがあった日、私風邪引いてて、受けられなかっただけなの」
「休んでなくても怪しいぞ。さっそく間違えてるし」
「え、どこどこぉ?」
「三問とも全部。及川は本当におバカさんだな」
「鈴木くんひどぉい。これでも一所懸命考えたんだよぉ」
及川さんは頬を膨らませると、鈴木くんの腕をぽかぽかと叩き出す。気分は小動物といった感じの、可愛らしい怒りの表し方。どう見てもダメージなどない攻撃を受けた鈴木くんは、痛い痛いと大はしゃぎだ。よそでやって欲しい。
及川さんは、実に乙女らしい乙女だ。私が気恥ずかしくて躊躇うことを果敢に網羅していく、女の子らしさ全開の乙女だ。
鮎子はぶりっこ女と前歯を剥き出すけれど、及川さんの良いところは誰の前でも分け隔てなく全力でぶりっこをしているところにある。男子の前だけとか、教師の前だけではなく、私たち同性の前でもちゃんと迫真のぶりっこを見せてくれるのだ。
だから、私は嫌いじゃなかった。でも、今日限りで嫌いになりそうだ。
「あぁそれな、こっからもう一度やり直してみ。そうそう……やればできるじゃん」
「これで正解?」
「おう大正解。大変よくできました」
得意げに指導する宿題写しの常習犯は、どさくさに紛れて及川さんの頭を撫でた。虎之助という硬派な名前には、到底似つかわしくない軽々しい振る舞いだ。及川さんは嫌がる素振りを見せずにツヤツヤの長い髪を指先でくるくるしている。
「ねぇ鈴木くぅん。もう数式とかいいよぉ。だから答えだけ教えて、ね?」
「おう、その代わりこのあとオレとデートだからな」
「やだぁ、最初からそれが目的だったの?」
「デートが嫌ならご褒美のチューでもいいよ」
「そっちの方がもっと嫌だよぉ」
「じゃあ、オレの彼女になってよ」
「もうっ! どんどんお礼が深刻になってるんですけどぉ」
まんざらでもなさそうに、いちいち語尾を甘ったるく伸ばす及川さん。付け入る隙を残した曖昧な返答に、鈴木くんは俄然落ち着きを無くした。立ったり座ったり、左に回ってみたり右にステップを踏んでみたりと徘徊のレベルがアップしている。
「冗談じゃないからな、今の。オレ、結構本気でいってんだぞ」
常に半笑いで喋る鈴木くんが、急に真面目な声を出した。普段はいつ涎が垂れてくるかと心配になるほどだらしなく半開いている口も、今は固く閉じられている。
机に両手をついて及川さんを見つめると、そのまま動かなくなった。一気に辺りが静まり返る。まさしくこれは、鈴木くんが求めていたときめきの放課後じゃないか。
「及川。マジでオレの彼女になってくれ」
予期せぬ展開に、関係ない私まで心臓が跳ね上がる。及川さんは答えない。長い髪をかき上げながら、小首を傾げて鈴木くんを見上げている。もったいぶった沈黙に、私は居ても立ってもいられなくなった。
おいおいちょっと待ってよ及川さん、相手は鈴木くんだよ?
勉強はできるけど、肝心なところがお馬鹿な鈴木くんだよ?
クラスの誰よりも顔が濃くてむさ苦しい鈴木くんだよ?
口を開けば下ネタばかりの下品チャンピオンな鈴木くんだよ?
親しく口を聞いたこともない及川さんに心の中で問いかけていたら、だんだん悲しくなってきた。おぼろくんは、鈴木くんのどんなところが好きなんだろう。友達として好きなんだろうか。それとも別の感情なんだろうか。
私は奮い立つ。普段、仲の良くない人とはできる限り口を利かないように過ごしている非社交的な私だけど、誰かの誕生日にはノリノリでバースデーソングを独唱できるくらいの根性は持っている。私は、やるときはやる引っ込み思案なのだ。
「ちょっと、イチャつくならよそでやってよ。気になって全然集中できないじゃん。次も追試だったらふたりのせいだからね。三代先まで呪うよ!」
私のド根性は、教室中に轟いた。及川さんは私がいたことを忘れていたのか、驚いた顔をこちらに向けている。鈴木くんは苦笑いだ。
「私、山本さんと一緒にやるぅ」
思わせぶっていた及川さんは、あっさりと鈴木くんに背を向けた。
「ちょい待て及川。まだ話、終わってねーぞ」
私の出現で突如防御力を上げた及川さんは、隙のない笑みを鈴木くんに返しただけで何も答えない。代わりにサラサラの長い髪を手の甲で払うと、細い指を左右に振った。さようなら、という五文字がぴったりくる高圧的な手の動きだった。
「うわ、冷てぇな。まんまと弄ばれちったよ、オレ。これは朧に慰めてもらうしかないな。あぁ胸が苦しい!」
鈴木くんはばつの悪さを揉み消すような大声で笑えない冗談をいうと、そのまま胸の痛手を訴え続けながら廊下へ出て行った。
想像していた以上にすんなりと、ふたりの仲を引き裂くことに成功してしまった。だけど高揚しかけた気持ちはすぐにへし折れる。こんなことをしても、結局何も変わらない。
「山本さん、どこまで終わった?」
うるさい坊主頭が消え去ると、及川さんが椅子を引きずって私の席に擦り寄ってきた。
「ここまで答え教えてもらったから、私の写していいよぉ」
よく光る爪で問い三を指差しながら、親しげに顔を近付けてくる。間近で見る及川さんは、まつ毛が長くて、毛穴がどこにあるのか分からないくらい顔中つるりんとしていて、なおかついい匂いがした。
私のせいですっぱり振られてしまった鈴木くんが今さら気の毒になってくるほど、及川さんは可愛らしい。形のいい唇で笑いかけられるたび、胸がざわついた。この場にいないのに、おぼろくんのことが頭から離れない。
「私、自力でやるからいい」
「山本さん、えらーい! いい子いい子、なでなで」
鳥のように尖らせた口で器用に微笑むと、私の頭に触れてきた。でも笑い返さなかったのが気に食わないのか、及川さんはすぐに真顔に戻る。そんな顔も綺麗だなんてずるい。
「山本さん、まだ怒ってる? うるさくしちゃってごめんね。どうしたら私、許してもらえるのかなぁ」
及川さんは整った眉毛をひそめた。彼女に似つかわしくない、しおれた表情だった。
「違うの! 及川さんのせいじゃないの。私、さっきからお腹が空いて空いて、もう死にそうなくらい腹ペコで、それで殺気立ってるだけだから。ごめんね、感じ悪くて」
「なぁんだ、よかったぁ。居残りなんてしてたらお腹空いちゃうよね。キャンディしかないけど、これ、一緒に食べよ?」
大きくてよく潤んだ瞳をすっと細めた及川さんは、おぞましいほど愛らしく笑った。そんな顔を向けられたら、女の私でもなんとなく照れ臭い。
「ありがとう。美味しい、空きっ腹に染み渡る!」
及川さんがくれたキャンディは、飴と呼ぶほうがしっくりくる、醤油味の玉っころだった。焼きおにぎりに似た、甘じょっぱくて香ばしい味がする。
かわいこぶりっこに手を抜かない及川さんが持っているにしては、渋すぎるチョイスだ。彼女にはもっと、ピーチとかラズベリーとか、香りの弾けるキャンディを持っていて欲しかった。
私は、着色料の味が残るカラフルなクッキーを思い出していた。きっとおぼろくんだったら、宝石みたいにキラキラ光る綺麗な色をした飴玉を選ぶだろう。
飴の味さえ自由に選べない人生を思うと、喉を掻き毟りたくなった。
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