10 おぼろくんはおぼろくん

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 人の気配で目が覚めた。ベッドに横たわったまま首を捻ると、ぼやける視界に丸まった背中が見える。兄が前のめりでテレビゲームをしていた。何かの間違いかと瞬きを繰り返してみても、兄の姿は変わらずそこにあった。


 黙々とコントローラーのボタンを押している。テレビの音が聞こえない代わりに、ちらちらと切り替わる画面の光りが鬱陶しい。カーテンの隙間から差し込む明かりは赤い。まだ日が昇り始めたばかりのようだ。


「お、小春ちゃん起きたか! おはよう!」


 体を起こすと、一心に画面を見つめていた兄の顔がこちらに向いた。私が起きるのを待っていたらしい。無表情だった顔には生気が戻っている。兄の満面の笑みを無視して、私は大きなあくびをかました。

 起きたばかりのだるい頭で、生き生きと目を漲らせた相手と会話をしなくちゃいけない状況にげんなりする。


「朝っぱらから人の部屋で何してるの」


「レベル上げてた」


「なに勝手に人のキャラ育ててんの?」


「お金も貯まったし、勇者にもいい装備買ってあげろよ。仲間ばっかり高級装備で笑っちゃったよ」


「なに勝手に装備までチェックしてんの?」


「勇者だけが毎回瀕死になったら誰だって気になるだろ。何で魔法使いが勇者よりいい武器装備してるんだよ。非力な魔法使いが高い剣持ったって宝の持ち腐れだろ」


「だってお財布握ってるのは勇者だもん。自分の装備を真っ先に買うわけにいかないじゃん。だから健気にみんなのお古を使ってるの」


「なんちゅう世知辛い冒険してんだ小春ちゃん」


「うるさいなぁ、私の勝手でしょ」


 ベッドから這い出して、コントローラーを奪い取る。じっとりと生暖かかった。いつからここにいたのだろう。勇者のレベルが七つも上がっている。所持金も桁違いに増えていた。

 私はカーテンを開け放ち、兄の顔に朝日を浴びせる。


「それで、私に何の用なの?」


「あぁそうそう。お兄ちゃん、ついに年貢を納めてきました」


「勇者に年貢制度なんてないよ」


「いや、ゲームの話じゃなくて。お兄ちゃんが年貢を納めたんだって」


「お兄ちゃん、何時代の人?」


「どう見てもバリバリの現代っ子だろ。だからそうじゃなくてさ、なんていうか、この前小春ちゃんに色々いわれたじゃん? それで俺もそろそろ年貢の納めどきだよなって、心を入れ替えたっていうか、なんつーか……」


 濁した言葉を誤魔化すように、兄はまたコントローラーを握ろうとした。阻止すると、行き場を失った指先で唇を小刻みに叩き始める。煙草が吸いたくなったときの癖だ。


「私が頭悪いから、年貢とかいわれても分かんない」


「分かった、もうはっきりいう。小春ちゃんのいう通り、もう他の女の子と遊ばない! これからはお兄ちゃん、鮎子ちゃんだけにする!」


 口調もいい回しもいきなり幼稚になった兄は、表情だけが真面目腐っていた。だけど指先はまだ煙草を求めている。


「美容室で金払うっていい張ってたときの、あの一歩も退かない強情さに惚れちゃったんだよな。それに俺たちはふたりとも、小春ちゃんのことが大好きだろ? だから話が合うんだよな、うん。妹のことを語り合える彼女なんて、鮎子の他に誰もいないよ。もうお兄ちゃん、骨抜きですよ」


 聞いてもいないのに自ら根掘り葉掘り語った兄は、最後に鮎子のことを呼び捨てにした。白々しくちゃん付けを繰り返していたこれまでの努力が台無しじゃないか。起き抜けの状態じゃなかったら、恥ずかしくてこんな話まともに聞けなかったに違いない。

 兄は照れを隠すように、そそくさと立ち上がると開けたばかりのカーテンを閉め始めた。


「寝てるとこ勝手に入ってごめんね。まだ早いから二度寝しな。時間になったら起こしてあげるから」


「いいよ、もう目が覚めちゃったもん。それより装備買いに行く」


 カーテンを閉められたところで、あんな話を聞かされたらもう眠れるわけがない。私は兄から取り上げたコントローラーを握り直し、武具屋に向かう。一夜にして強くたくましくその上大金持ちになったというのに、勇者ご一行は少しの驕りも見せずお得意の一列縦隊で店先に並んだ。

 さっそく装備一式揃えちゃおうかしら。でも新しい町に着いたらもっといい装備が売っているかもしれない。


 なんて武具屋を冷やかしていたのに、「お、そういえば」という弾んだ声に水を差された。部屋を出て行きかけていた兄は、猫背でゲームをしていたとは思えぬ身のこなしでくるりと振り返る。


「その後、オカマの友達はどんな感じ? 元気にしてる?」


 兄は楽しげな声で、私の一番嫌いな三文字を易々と口にした。腹の奥でとぐろを巻いて蠢き続けていた感情を、私はもう、どうやって制御したらいいのか分からなくなった。


「オカマって何? そんないい方、いくらお兄ちゃんでも許せない!」


 怒りに任せてコントローラーを放り投げた。兄の肘に直撃したそれは、ゲーム機の上に墜落した。テレビの画面が固まる。増えたレベルとお金と一緒に、兄の顔からも表情が消えた。

 兄に悪気がないことは分かっているのに、くすぶっていた怒りがうねり出して止まらなかった。


 オカマとかゲイとかホモだとか、性同一性障害とか性別違和感症候群だとか、私だってそういう言葉はそれなりに知っていた。だからこそ、おぼろくんがどれに当てはまるのかなんて考えたくなかった。そんな言葉でおぼろくんを推し量る必要なんてどこにもない。だって、おぼろくんはおぼろくんじゃないか。


「ひどい、オカマなんてひどいよ。おぼろくんは真剣に悩んでるのに、それをそんないい方! 最低! 信じられない!」


「違う、違うよ! そんなつもりでいったわけじゃないんだって」


「じゃあどんなつもりなの? どんなつもりでおぼろくんのことオカマだなんていうの?」


「ごめん小春ちゃん。お兄ちゃんが悪かった。本当にごめん」


 おろおろと頭を下げながら、兄は自分の肘ではなく私の背中をしきりにさすってくる。痛々しい色に変わってしまった肘を見ていたら、自分でも何をそんなに憤っていたのか分からなくなった。


 私が抱えているのは、兄にぶつけたところでどうにもならないもっと大きな怒りだ。分かっている。この世はいつも、並べたらキリがないほどの不条理でまみれていることくらい分かっている。それをいくら嘆いても仕方がないことくらい分かっている。

 それなのに、どうしてこんなに悔しいんだろう。叫び出したい気持ちが一向に収まらないんだろう。


 息が上手く吸えなくなって喉から間抜けな音が漏れると、背中を撫で続けてくれていた手の動きが変わった。子供を寝かしつけるような、トントンという優しい振動が背中に刻まれる。

 喉の音は止まらなかった。瞳は痛いくらい乾いているのに、泣いているみたいな情けない音だった。背中に感じる手のひらのリズムに合わせて、しゃっくりと一緒に疑問を吐き出した。


「ねぇお兄ちゃん。どうしておぼろくんが、あんな目に、合わなきゃいけないの。どうして神様は、あんなひどいことをするの」


「神様だって、悪意があってやったわけじゃないと思うよ。きっとどこかで何かが間違っちゃったんじゃないのかな。神様のくせに、何をやってんだよって感じだけど。……お兄ちゃんは人のこと、いえないけどな」


 兄の声に自嘲が帯びた。手のひらのリズムは崩れない。


「ごめんねお兄ちゃん。肘、大丈夫? 痛くない?」


「小春ちゃんが謝ることないって。お兄ちゃんがいけなかったんだから。思いやりの心が欠如してんだよな、いっつも俺は」


 ひとりごとのように続けられた兄の言葉で、腹の中が冷えていくのが分かった。

 思いやりって何だろう。体に冷気が増すのを感じながら考える。


 私に息の吸い方を教えてくれる兄の手のひらは、おぼろくんを女の子に変えてくれた魔法の手のひらでもあった。その手に思いやりの心が宿っていなければ、おぼろくんはあんなに喜ばなかっただろう。それなのに兄は、自分にはその心が欠如しているという。そんな兄を、頭ごなしに怒鳴ってしまった。


 大事なものが足りていないのは私のほうだ。自分で自分が怖くなった。

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