9-2

 太陽が最後の悪あがきをしていて、外は強い夕陽に包まれていた。普段は赤くて暑苦しいばかりの夕焼けが、今は好ましい。何もかも同じ色に染めてしまうから。辺りを漂う空気も夕焼け色をしている。

 その空気を吸った私の体も、同じ色に塗り替えられていく気がした。暖かい色でいっぱいになって、おぼろくんの心に充満している靄もすべて溶けてしまえばいい。


 家から程近い商店街は、いつも通り日暮れ前の賑わいを見せている。買い物袋をぶら下げた主婦、仕事帰りのサラリーマン、本屋で立ち読みをする学生、駄菓子屋に群がる子供、長椅子で休憩する老夫婦。


 それらの人を横目に、私は通いなれた店を一軒一軒、おぼろくんに紹介して歩いた。だけどあまり上手くいかない。夕陽を浴びた街並みは私の目にも知らない場所に見える。セピア写真の中に迷い込んだ気分だった。

 とにかく私は、家を出てからずっとそわそわしている。


 行きたい場所があったわけじゃなかった。おぼろくんはただ、完成した姿で外を歩きたいだけだったのだ。知り合いに出くわしたらどうするんだろうと気を揉む私をよそに、おぼろくんはきなこ色のボムヘアーを揺らし、小さい歩幅ながら相変わらず背筋を伸ばして歩いている。

 チャレンジャーなのか、バレないという自信があるのか、はたまた何もかも考えていないのか、驚くほどのマイペースだ。


「そこのお弁当屋さん、山本家ご用達のカツカレー弁当のお店だよ。それであっちのパン屋さんは、クリームパンがすっごく美味しいの。夜になると二割引になってお得なんだよ」


「本当だ、パンの焼けるいい香りがするね」


「そうなの、もうあっちこっちから美味しい匂いがしてくるから、歩いてるとどんどんどんどんお腹が空いてきて困っちゃうの。あ! そこの和菓子屋さんはね、黒豆団子がおすすめだよ。隣の喫茶店はホットケーキが分厚くてふっわふわなの。……で、ここのお惣菜屋さんは大学芋が激うま!」


「さっきから小春ちゃんのおすすめは、食べ物屋さんばっかりだね」


 握っていたレースのハンカチを口元に添え、おぼろくんはうふふと上品に微笑む。セーラー服を着て本領を発揮したおぼろくんは、三百六十度、どの角度から見ても心が震えた。ドキドキを通り越してズキズキした。


 風が吹くと、髪の毛と一緒にさりげなくスカートを押さえる。汗を拭くときはハンカチをそっと肌に押し当てる。通りすがる犬には、揃えた指で控えめに手を振る。

 仕草のひとつひとつが女の子そのもので、欲目なんかじゃなく、おぼろくんは可憐だった。


「じゃあそこの八百屋さん! じゃんけんに勝つときゅうりを一本おまけしてくれるんだよ」


「へぇ、それは楽しいね。出店のチョコバナナ屋さんみたい」


「……って、結局きゅうりも食べ物だ。いわれてみたら私、食べ物絡みのお店しか詳しくないかも。ほら、あっちの電気屋さんなんて一度も入ったこと……」


 背伸びをして、電気屋の青い看板を指差したそのときだった。


「げ、オカマだ」


「うっわ! 気持ち悪っ」


 活気に満ちた雑踏の中で、私は自分の心臓が脈打つ音をはっきりと聞いた。煮えたぎる鍋が気泡を放つ響きに似た、重くこもった音だった。


 すぐさま辺りを見渡した。声の出どころを探した。

 だけど誰も彼もがおぼろくんを貶めようとする悪意にまみれた顔に見えて、誰を睨みつけたらいいのか分からなかった。


 眼球に力が入りすぎて街がものすごい勢いで回転している。おびただしい怒りで、顔面が崩壊していくのが分かった。引き攣る頬に連動して、唇までぴくぴくと動き出している。


 おぼろくんは立ち止まり俯いていた。うなだれたせいで、発達した肩甲骨が小さなセーラー服越しによく目立った。立ち尽くしたまま、光らない瞳で自分のつま先をじっと見つめていた。

 私はおぼろくんとの身長差を呪った。伏せたはずの隠したい顔が、こんなにもはっきりと見えてしまうのだから。


 大きな悩みをひとりで背負い込みながら、いつも涼しい顔でふふふと微笑んでいるおぼろくん。頑丈な人だと思っていた。それなのに、靴の裏を地面に貼り付けたままのおぼろくんは悲しいほど脆かった。


 見ていられなくて俯くと、靴下の綻びが目に入る。私がもっと、ちゃんとした靴下を貸してあげることができていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。


『げ、オカマだ』


『うっわ! 気持ち悪っ』


 おぼろくんの笑顔を奪い去った声が、こびりついて離れない。絶対に笑わないでと頼まれたのに。男と女の狭間に放り出されながらも、諦めずに本当の自分を追い掛けるおぼろくんに浴びせられたのは、あろうことか半笑いの声だった。

 おぼろくんをこんな風に傷つける世の中に吐き気がした。


「何情けない顔してんの、おぼろくん! いつもみたいにしっかり背筋伸ばして! ほら、ちゃんと前向いて!」


 必要以上に眉毛を下げるおぼろくんの背中を、私も必要以上の力でガシンと叩いた。飛び上がるように背筋を伸ばしたおぼろくんはもう卑屈な顔をやめていたのに、私は悔しくて噛み締めた唇から前歯を離せない。

 あんなに輝いていた笑顔が、見知らぬ誰かのひとことで簡単に消え去ってしまうなんてどうしても許せなかった。


「ちょちょ、ちょっと待って小春ちゃん! 待って待ってよ!」


 私はどこへも行っていないのに、おぼろくんは待って待ってと連呼する。


「待って。ねぇどうして? どうして小春ちゃんが泣いてるの?」


 おぼろくんはひとりで大パニックだ。私は強く瞼を閉じて涙を追い出す。だけどすぐに次の涙で満たされた。抑えきれないやるせなさが、情けなく頬を滑り続ける。どうしても止められなかった。

 私は鼻を啜り、できる限り平然とした声を出す。


「おぼろくんがあんな顔、するからでしょ」


 本当は気遣う言葉を掛けたかったのに、気の利いたことがいえなかった。だってそれじゃあ、私はあなたのことを想って泣いていますと恩を着せるみたいじゃないか。


「ごめんね、そうだよね。なんだか僕、浮かれてた。初めて女の子の友達ができて、毎日楽しくってさ。一緒に歩いてみたいなんて考えちゃって、ひとりではしゃいでた。ごめんね。でももう大丈夫だから。僕は何をいわれてもへっちゃらなんだぞ! おとといきやがれぇい、片腹痛いわぁぁ!」


 おぼろくんは人目を憚らず、かすれた声で雄々しく吠えた。全身全霊の強がりは、余計私の瞼を重くする。

 桃色の口紅が塗られているのに、おぼろくんの唇は紫に変色していた。病的な唇を震わせて「だから泣かないで」と囁くと、私の顔を覗き込んでくる。

 その慈悲深い瞳の、一体どこが気持ち悪いというのだろう。


「おぼろくんのせいじゃないよ。私だって、毎日すっごく楽しいもん」


「ありがとう。……あぁ、だめだなぁ僕は。もっと強くならなきゃ」


 おぼろくんは歯を見せずに笑った。奥歯を噛み締めているのか、唇が描く柔らかな弧とは対照的に、頬は強張っている。その力の限りの笑顔は、決して弱くは見えなかった。


 どうして彼がこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。腹が立つのも悔しいのもごっちゃになって、涙は加速するばかりだった。

 滲んだ瞳で見る商店街は、夕焼け色の大洪水だ。おぼろくんはすっかりいつもの泰然とした様子に戻っていて、私はひとり、涙で水没した街に取り残された気分だった。


 おぼろくんが差し出してくれたレースまみれのハンカチは、男の汗の臭いがした。私は鼻先にハンカチを押し当てながら、もう二度と笑われなくていいように、おぼろくんをもっともっと女の子にしたいと思った。

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