9 セーラー服とおぼろくん

9-1

 今日のおやつは、母お手製のレモンシャーベットだ。直々にリクエストをして作ってもらったそれをひとくち食べるなり、私は味見をしなかったことを後悔した。

 酸っぱさで硬直した頬が悲鳴を上げている。甘くしないでと頼みはしたけど、まさかここまで酸味を前面に押し出した仕上がりになっているとは。


「おぼろくん、無理して食べなくていいからね」


「無理なんかじゃないよ、美味しいよ」


「それより、おぼろくんが持ってきてくれたカステラ食べようよ」


「カステラは小春ちゃんが食べてよ。僕はシャーベットを食べるから」


「やめてやめて、そんなに食べたら胃がおかしくなるよ。絶対これ、体に悪い酸っぱさだもん」


「じゃあ、紅茶に溶かして飲んでみよう。レモンティーになるね」


「ならないよ! せっかくの紅茶がただの酸っぱい液体になるだけだよ」


「そんなことないよ、美味しいよ。うん、美味しい……でも、もうちょっとだけ紅茶を足してみようかな」


「もう! お腹壊しても知らないからね」


 完食しようと奮闘するおぼろくんをよそに、私はカステラを頬張りさっさと口の中の酸味を鎮火した。

「うひゃあ絶品」と大袈裟に美味しさをアピールしてみても、おぼろくんはシャーベットに掛かりっきりで酸味地獄から出ようとしない。表面張力が見られるほどなみなみと注いだ紅茶を、笑みを絶やさず飲み続けている。


 こうしておぼろくんは、たくさんのことを無理に飲み込みながら生きているのかもしれない。すぐ甘いカステラに救いを求めた自分が少し恥ずかしくなった。

 でも、次に私が口にするのは酸っぱいシャーベットではなく、やっぱり甘いカステラなのだけど。


「あのね、小春ちゃんに一生のお願いがあるの」


 改まった声にカステラから顔を上げると、おぼろくんの顔がびっくりするほど近くにあった。強いレモンの香りに思わず顔を背けると、回り込んできたおぼろくんがまた真正面から見つめてくる。

 再び首を動かそうとすると、おぼろくんの両手に頬を押さえつけられた。私はそのまま動けなくなる。


「一生のお願いがあるの」


「それはさっき聞いたよ。何? 一生のお願いって」


「その前に、笑わないって約束して」


「そんな笑われるようなことに一生のお願い使っちゃうの? なになに? どんなお願い?」


「だめだよ。笑わないって、ちゃんと約束してくれなきゃいえない」


「分かった、笑わないから」


「本当に? 絶対だよ? 絶対笑わないでよ?」


「うん、絶対。絶対笑わない」


「じゃあ、いうけどね。恥を承知でいうけどね」


 といいつつ、おぼろくんは口を開けたり閉じたりと忙しそうにするばかりで、なかなかお願いを打ち明けてくれなかった。頬に触れていたおぼろくんの指が、するすると離れていく。キスをされるのかと慌てたほどの距離感があっさりと解消された。


 自由になった頬を、三口目のカステラで満たす。いつの間に飲み干したのか、お盆に乗ったおぼろくんのティーカップは空になっている。一生のお願いをするための献上品だったかもしれないカステラを食べながら、愛しい鼻声が再び聞けるときがやってくるのを待った。


 何をいい出すのかという期待と不安で、舌が鈍っている。カステラの甘さが感じられない。今なら母のシャーベットも食べられるかも、なんて考えていたら、突然早口言葉のような勢いでおぼろくんの一生のお願いが放たれた。


「小春ちゃんの制服、一度でいいから着させてください!」


 いい終わる前に頭を垂れるから、呆然とする私の目の前にはおぼろくんの見事な土下座が完成していた。なるほど、もったいぶっただけはある。想像を絶する一生分のお願いだ。

 怯む私を置いてけぼりにして、おぼろくんは開き直ったように顔を上げた。


「だってほら、セーラー服ってすごく可愛いでしょ? 真っ赤なスカーフとか、スカートのひらひら具合とかが絶妙なんだよね。襟元の地味目な青も好きだなぁ。スカーフの赤が映えるよね」


 羨望の色を少しも隠そうとしない輝く瞳に射抜かれ、私は飲み込み損ねたカステラを口の中で持て余した。おぼろくんがそんな目で見ていたのはセーラー服だけではなかった。セーラー服を着た、私のことを見ていた。


 どうしておぼろくんは、女の子に生まれてくることができなかったんだろう。おぼろくんが何万回と繰り返してきたであろう当然の疑問を、私はこのときになってようやく嘆いた。


「いいよ、私なんかのでよかったら、いくらでも貸すよ」


 おぼろくんは口元に手を当てるとそのまま静止した。頬にカステラが詰まった私なんかの言葉で完全に声を失っている。それは、オーディションでグランプリを取った乙女の喜び方だった。

 こんな切迫した一生のお願いを、一体誰が笑うというのだろう。






「おまたせ。もう入ってきていいよ」


 着替えの終わりを告げるか細い声に、私は軽く咳払いをしてから部屋のドアを開く。カーテンが締め切られた室内は、まだ日暮れ前だというのにずいぶん薄暗い。四角く浮かぶカーテンの雲柄が異空間じみていて、それを背に直立している女子高生のおぼろくんは、あたかも架空の人物のようだった。


 セーラー服の裾から素肌がわずかに露出している。脂肪も筋肉も見えないぺたんこのお腹が確認できた。やっぱり、私のサイズでは丈が足りていない。スカートの長さは程よいけれど、さらけ出た不健康そうな白い足は、薄暗い中でも脛毛がよく目立っていた。

 だけど襟元のスカーフは私よりずっと上手に結んであって、何だか無性にほっとする。


「ごめんね、時間掛かっちゃって」


 おぼろくんは仰々しく下げた頭を元に戻すと、顔に掛かった髪の毛をこともなげに整えた。変わっていたのは服装だけではなかった。顔には化粧が施され、頭には見覚えのあるきなこ色のカツラが装着されている。

 兄がしてくれたより少しだけアンバランスな仕上がりだったけど、私はとても感動した。


 これが今のおぼろくんの精一杯なのだ。それが痛いほどよく分かるから、たまらなく愛おしかった。外国人の、拙いけれど一所懸命な日本語が胸にきゅんとくるのと同じだ。

 今のおぼろくんは、同じ制服を着たクラスで一番の美女、及川さんにだって負けはしない。


「それで悪いんだけど、靴下も貸してもらえないかな」


 口にしかけた賛辞の言葉は、さらなるお願いに打ち消された。胸の前で手を合わせるおぼろくんは、男物の靴下に包まれたつま先をもじもじと擦り合わせている。


「ちょっと待ってて」とタンスを探ってみたものの、おぼろくんに貸しても恥ずかしくない綺麗な靴下など持っていなかった。履き込んだものばかりで、どれもほつれていたり生地が薄くなったりしている。


 悩んだ末、劣化が分かりにくい黒のハイソックスを選んだ。脛毛も目立たなくなりますようにと念を込めて、おぼろくんに渡す。


「はいコレ。きつかったらごめんね。私、足小さくて」


「じゃあ、僕が履いたら伸びちゃうかな」


「平気平気、ふくらはぎは私のほうが断然太いもん」


「僕と比べたら誰だって太いよ。ほら僕、貧弱だから」


 おぼろくんは大真面目な顔をして、私の足の太さを否定する。こんなときまで気を使うことないのにと思ったら、異様な雰囲気で張り詰めていた気持ちが少し楽になった。


 平常心を取り戻し、靴下を手にするおぼろくんを見守った。小さい靴下を丁寧に広げ、慎重につま先を押し込んでいる。

 苦しそうで不憫だった。男だの女だの、いい加減窮屈だろう。


「よし、履けた」


 私の心配をよそに、おぼろくんはご機嫌だった。完成したセーラー服姿に満足した様子で、鏡の中の自分に向かってはにかんでいる。こだわっただけあって、ハイソックスのほうがセーラー服との調和が取れていた。脛毛も半分以上は見えなくなっている。


「ちょっと変かな。うーんでも、思ってたほどは変じゃないかなぁ」


 鏡の中の自分に問いかけるおぼろくんの口調は滑らかだ。体の向きを変えて、全身のチェックに余念がない。髪型や化粧よりもセーラー服が気になる様子で、何度もスカートの位置を確認していた。


「うん、全然変じゃないよ」


「……ありがとう。小春ちゃんのおかげで、自分のことがちょっとだけ、好きになれそうな気がする」


 声から滑らかさが消えていた。

 おぼろくんはやっぱり自分のことが愛せていないのだと確信して、胸の奥がぎゅっと固くなった。心細げに下がる眉毛を祈るように見つめ、私はもう一度同じ言葉を繰り返す。


「大丈夫だよ、変じゃないよ。本当に、すっごく似合ってるよ」


 おぼろくんは弱々しく微笑むと、深く息を吐き出し鏡の前から離れた。そして眉毛を元の位置に戻し、「じゃあ行こうか」と静かに呟いた。あまりに当たり前のようにいうから「どこに行くの」とは聞けなかった。

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