8-3

 いつもは着替えの遅い私を待っていてくれるのに、今日の鮎子は違った。素早く体操着に着替えると、さっさとひとりで更衣室を出て行ってしまった。


 私はそのまま体育の授業をサボった。早く早くと急かしてくれる相手を失って、着替えが間に合わなかったのだ。上半身は体操着、下半身はスカートという中途半端な格好のまま更衣室を飛び出した。置いてけぼりをくらったこの場所に、いつまでもいたくなかった。



「待って!」


 廊下を疾走していた私の耳は、幻聴めいた呼び掛けを聞き逃さなかった。誰の声かを脳が判断するより先に足が止まる。つんのめりながら振り返ると、窓にもたれてひょろっと佇むおぼろくんがいた。

 気付かずに素通りしていたとは。思いの外、私は鮎子のことで頭がいっぱいだったみたいだ。


「びっくりした」


 声を掛けてもらって嬉しかったのに、愚直な言葉しか出てこない。学校では知らんぷりをされることがいつしか当たり前となっていたから、喜びより驚きのほうが勝っていた。


「僕のほうがびっくりだよ。そんな格好で走ってくるから」


「あ、これは、着替えが間に合わなくって、体育サボっちゃったの。それで、うっかりそのまま出てきちゃった」


「小春ちゃんはきっと、パジャマの上から制服を着てきちゃうタイプだね」


 気の抜けるほどのんびりとした鼻声が、ささくれた心に沁みる。いつもの他人行儀な態度はどこへやら、おぼろくんが私相手に微笑んでいた。感極まった瞼が、ぽかぽかと熱くなる。深い瞬きをして、獲得した貴重な笑顔を瞼の裏に仕舞い込んだ。


「おぼろくんは見学なの? 男子は確か、水泳だったよね」


「僕もただのサボりだよ」


「おぼろくん、もしかしてかなづち?」


「うーん、そうじゃなくて……。着替えたり、水着になったり、ちょっと嫌でさ。でもズル休みもそろそろ限界かなぁ。夏に入ってから、ずっと風邪引いてることになってるんだよ、僕」


「じゃあ塩素アレルギーっていうのはどう? おぼろくん、そんな感じだし。塩素で肌がただれちゃうんですぅ、とかいっとけば、風邪より長期的に休めるよ」


「わぁすごい! 小春ちゃん、ズル休みのプロみたいだ」


 見開いたまん丸の目に見つめられ、私は再び強く瞬きをする。私はズル休みのプロではなく、おぼろくんを想うプロなのだ。おぼろくんをこよなく愛する私は、どんな口実でも簡単にでっちあげることができるのだ。


「でもこうして見てると、冷たくて気持ち良さそうなんだよね。プールの匂い、懐かしいなぁ」


 密やかな自惚れは、未練がましい声に遮断された。おぼろくんの視線の先には、太陽を反射して眩しく光る水面があった。窓から、校庭の隅にあるプールが一望できる。涼しげなプールは魅力的だけど、水中やプールサイドにうじゃうじゃと散らばる男子生徒のせいで暑苦しくも見えた。


 制服姿のおぼろくんを足元からつむじまで見返して、海パン姿を想像してみる。きっと、はんぺんみたいに白くて薄っぺらい体をしているのだろう。確かに、あの中に混ざるのは酷だ。


「あ、鈴ちゃん!」


 おぼろくんの声が高くなった。窓から身を乗り出して、指をさしている。鈴木くんを映しているであろう瞳がみるみるうちに大きくなった。目を輝かせているおぼろくんをこのまま見ていたいけど、私ものろのろとプールに視線を飛ばす。右目でおぼろくんを、そして左目でおぼろくんと同じものを見ることができたらどんなに便利だろう。


 スタート台に立っていた鈴木くんは、笑えるほど日焼けの境目がくっきりと分かる体をしている。斑らの体をしならせると、水しぶきを上げて飛び込んだ。力強いクロールで、他のレーンを泳ぐ生徒をどんどん引き離していく。あっという間に反対側に到着すると、ここまで音が届いてきそうなほど豪快なターンを決めた。


「相変わらずすごいや。いつも息継ぎなしで二十五メートル泳いじゃうんだよ」


 自分の自慢話をするみたいに、おぼろくんは鼻を膨らませた。息継ぎが苦手な私は、空気が吸えずに水ばかり飲んで、いつもスタートから十メートル足らずのところで足をつく。確かに鈴木くんはすごいと思った。


 だけど、話し掛けてもプールに釘付けで上の空だろうから、鈴木くんが泳ぎ切るまでは黙っているつもりだった。それなのに、鈴木くんがゴールするより先に、おぼろくんが口を開いた。


「そういえば、川島さんとはどうなの。あれから何か話した?」


 おぼろくんは瞳に鈴木くんを映したまま、少しだけ首の角度をこちらに曲げた。年季の入った扇風機を思わせる、ゆっくりとした動きだった。


 私も慌ててプールに視線を戻す。目を離した隙にスタート地点まで戻ってきていた鈴木くんは、疲れた様子も見せずにプールサイドに上がった。案の定、盛大な水しぶきが上がる。いちいち賑やかな人だ。


「あんたの兄貴と付き合ってるって、いきなり宣言されちゃったよ。それも、ふたりを目撃しちゃったすぐ次の日にだよ」


「それで、小春ちゃんは何て答えたの?」


「何もいえないよ。鮎子、いうだけいってさっさと逃げて行っちゃうんだもん。熱愛発覚へのコメントくらい、聞いてくれたっていいのに」


「なるほど。だから最近、ふたりはちょっと変な感じだったんだね」


「うん。ちょっとどころか、実はすんごく気まずい」


「早く元に戻れるといいね。隣の席で小春ちゃんが笑ってないと、何だか寂しくってさ」


 一体どんな顔をして、こんな胸が焦げ付くことをいっているのだろう。ついプールから目を離した私は、大きく息を飲んだ。きらきらした水面を眺めているのに、おぼろくんの瞳は真っ黒で、本当に寂しげだった。


 私は余計に鮎子が恋しくなって、唇を噛んだ。変な味がする。日焼け止め、唇にまでつけていたみたいだ。

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