8-2
いい争う声が、兄の部屋まで届いてくる。母と兄、ふたつの尖った声がドアの隙間からズキズキと迫ってきて心臓に悪い。
兄と話がしたくて帰宅してからずっと待ち伏せていたのに、母に先を越されてしまった。勝手に兄の部屋に上がり込んでいた手前、出るに出られなくなった私は、ドア越しにふたりのいさかいが収まるのを窺っていた。
机の上に首だけで鎮座しているパトリシアさんに、立ち聞きを見られている気分でどうも落ち着かない。おまけに小洒落た兄の部屋は、湯上りの浴衣美女が放つような甘く爽やかな香りで満ちていて鼻がムズムズする。
「ちょっと待ちなさい、まだ話は終わってないの! こないだお向かいの奈々ちゃん車に乗せてたでしょ。お母さん見たわよ」
「それが? 見たから何?」
「何じゃないでしょ。奈々ちゃんはまだ中学生になったばかりよ。分かってるの?」
「何だよそれ。店に来てくれたから送っただけなんだけど」
「じゃあ何で助手席なんかに乗せるのよ。少しは弁えなさい恥ずかしい!」
「変な目で見てる母さんのほうが恥ずかしいっつーの。あの車、後ろ狭いの知ってるだろ」
「あんたが年中だらしないことばかりして歩いてるから、変な目でだって見たくもなるわよ」
含みのある母の声で、私は反射的にパトリシアさんの耳を両手で塞いだ。されるがままのパトリシアさんは、相変わらず固い瞳で私を見ている。自分の行動の馬鹿さ加減に呆れながらも、手を離すことができない。
兄は特別顔がカッコイイわけでもないのに、美容師という肩書きやお洒落ぶった身なりに騙される人は多かった。さすがに奈々ちゃんに手は出していないだろうけど、奈々ちゃんの姉の桃ちゃんに手を出しかけていたことを私は密かに知っている。母の心配通り、奈々ちゃんに手が伸びるのも時間の問題かもしれない。
女に奔放な兄にあれこれ口を出すつもりはなかった。度重なる母の苦言も、家の空気が悪くなるからやめて欲しいとさえ思っていた。でも、事情が変わった。
『どいつもこいつも口を開けば愛だの恋だの、いい加減胸焼けがする』恋をしているはずの鮎子にこんなことをいわせたのは、間違いなく兄なのだから。
「送ってあげるのは構わないけど、今度から狭くても後部座席にしなさい。分かった?」
「もう乗せねぇよ」
投げやりな低い声と共に、粗暴な足音が近づいてくる。パトリシアさんに添えていた指先が震えた。わけの分からない震えを握りつぶすため手を離すと、汗ばんだ手のひらに張り付いたパトリシアさんの髪の毛がひらりと動いた。廊下の窓で風を受ける鮎子の横顔が浮かんでくる。
胸焼け、治まるといいね。心の中でこっそりマネキンに話しかけていると、手荒くドアが開かれた。
「お、どうした小春ちゃん。部屋間違えてるよ」
私を見つけるなり、兄は肩を揺らして笑った。さっきまでの不機嫌をリビングに忘れてきたような屈託のなさだ。私は笑い返すことはせず、消えない震えを握りしめ続けた。
「お兄ちゃん。私に何か、いってないことない?」
兄はのんきに長い前髪を頭のてっぺんで結び上げながら、考えている素振りを見せる。全開になった広い額を見つめる私の視界はどんどん狭くなった。
「あぁそういえば! 今月のおこづかい、まだ渡してなかったな」
「違う、そんなことじゃない」
「え、なに? じゃあいらないの?」
「……いらない」
「ちょっとやだやだ、何怒ってんのよう。冗談だって、ちゃんとあげるって」
「いらない!」
「ほぉら落ち着いて。この前お友達にあげたウィッグ、あれ結構高かかったんだよ。お兄ちゃんの健気な心意気にも気付いてよぉ」
あやすように頭を撫でてくる手の感覚が不愉快だった。その手で、鮎子のことも触っていた。鮎子以外の女にもたくさん触れてきたのだろう。
「触らないで!」
「あぁ……そうか。いわなきゃいけないこと、思い出したよ。ごめんな小春ちゃん」
兄は両手を持ち上げて、降参するように数歩後ろに下がった。結わいたばかりのゴムを力なく外すと、頭をぐしゃぐしゃとかき回す。乱れた前髪で兄の表情は見えなくなった。
「鮎子ちゃんのことだろ。別に小春ちゃんに内緒にしてたってわけじゃないんだ。ただ、ちゃんと報告もしてなかったね。仕事とか忙しくてさ。ほら小春ちゃん、寝るの早いし、お兄ちゃん起きるの遅いし、なかなかいうタイミングなかったんだよ。ごめんな」
諭すような口調だったけど、説得力はまるでなかった。苦しすぎるいい訳に、私の方が窒息しそうになる。鮎子と同じようなことをいうから、口裏を合わせているようで嫌だった。
だけど、私が怒っている本当の理由に気付かないことのほうが何倍も嫌だった。
私自身もようやく分かった。いつまでも治らないこの震えは、間違いなく怒りのせいだ。
「鮎子と付き合うなら、他の女の人と遊んだりしないで!」
「違うって! 奈々ちゃんとは本当に何でもないんだって。あれは母さんが勝手に勘違いしてるだけだから」
「奈々ちゃんのことなんていってないもん。他にもやましいことたくさんあるくせに、どうして平気でいられるの? 最低! 不潔! ひとでなし! 馬鹿! ばかばかばーか!」
もっとこてんぱんに罵りたかったのに、言葉が続かなくなって、私はひたすら馬鹿と繰り返した。この世には、恋も自由にできない人だっているのに。
結ばれていながら胸焼けから逃れられないなんて、そんなの絶対間違ってる。
「あらあらまぁまぁ。兄妹喧嘩なんて、またずいぶん珍しいこと始めたわねぇ」
馬鹿の連撃が、陽気な声に阻まれた。ドアの陰から半分だけ顔を覗かせた母は、声と違わず目を輝かせている。母もまた、リビングに忘れ物をしてきたみたいだった。
「喧嘩じゃないよ。俺がお説教されてただけ」
「あらそうなの。じゃあちゃんとここへ正座しなさい。で、小春ちゃんはお兄ちゃんの前にこうやって仁王立ちして。違う違う、もっと偉そうに胸を張って……お兄ちゃんもそれじゃダメでしょ、もっとすまなそうに頭を下げてなさい。そうそう、上手。はい、じゃあお説教再開!」
嬉々として指示をし終えた母は、手を叩いてけしかけてくる。上手と褒められていただけあって、深く頭を垂れた兄は、毛布か何かを掛けてあげたくなるほど惨めな姿だった。力が抜けると、母に作られた仁王立ちが簡単に崩れる。
「もういい」
「あらもったいない。こんなチャンス滅多にないんだから、いいたいこと全部いっちゃいなさい」
「さっき全部いったから、もういい」
「本当に? お兄ちゃん、文句いわれるようなことばっかりしてるんだから、あんな短い時間で全部いい切れるわけないでしょ」
「本当にもういいの」
「優しいなぁ小春ちゃんは。だけど母さんは容赦がないね」
「優しい小春ちゃんにこれ以上嫌われたくなかったらね、あんたはもっとちゃんとしないとダメよ」
何もかもお見通しみたいな母のひとことで、頭にばかり回っていた血液が正常に体内を巡り始めた。
「思い出した、お兄ちゃんにいいたいこと。やっぱりおこづかい、ちょうだい」
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