7-2

 フリル満載のエプロンを付けたお母様が、次々に皿を運んでくる。良すぎる手際に圧倒され、手伝いを申し出る隙もない。小さなテーブルが料理で埋め尽くされていく様子を、私はおぼろくんの隣で着席したまま見守っていた。


 夕食はなんと、カツカレーだった。私の可愛げのない好物が、お母様にまで知れ渡ってしまっていたとは。高そうな食器に盛られた魅惑的な褐色を目の前にしながら、兄を恨まずにはいられなかった。


 カツカレーはとても手間が掛かる料理だ。カツだけでもカレーだけでも、それぞれ一食が成り立つというのに。私なんかのために、カレーを煮込ませた上、カツまで揚げさせてしまったことに申し訳が立たない。


 だいたいにしてうちの母は、トンカツやカレーライスは作ってくれても、カツカレーなんて作ってくれた試しがない。我が家では、カツカレーは買って食べるものだと相場が決まっている。


「お待たせしました。はい、食べましょ食べましょ」


 リビングとキッチンの往復を終えたお母様は、私の真正面の席に腰を下ろすと、囃し立てるように手を鳴らした。壮大な調理をこなした後とは思えない軽やかな手拍子に合わせて、小首まで左右に揺らしている。

 なんて爽やかな夕食の始まりなんだろう。


「いただきます」


 おぼろくんは胸の前ですっと手を合わせると目を閉じた。それを合図にノリノリだったお母様も動きを止め目を閉じる。空気が一瞬にして引き締まった。

 カレーから立ち上る湯気の音まで聞こえてきそうなほど静まり返った空間にひとり取り残されてしまった私は、ふたりに習い慌てて合掌する。


「さぁどうぞどうぞ、召し上がって。たっくさん作ったから、どんどんおかわりして頂戴ね」


 沈黙を破ったのは、伸びやかな声だった。目を開いたお母様は、表情豊かなノリノリ状態に戻っている。口元より目と眉毛をたくさん動かして喋るから、見ているだけの私の顔面までもにょもにょとした。


「いただきます」


 と宣言してから私が最初に頂いたのは、草花の彫り物が施されたグラスに注がれた水だった。ひとくち含み、咽せそうになるのを堪える。無色透明な水から柑橘系の香りがした。咳を押さえ込んだせいで水が鼻に回り、喉よりも先に瞼が潤ってしまった。


 鼻に回ってきませんようにと祈りながら、カレーの海にスプーンを忍ばせる。

 よく見ると、中に眠るじゃが芋も人参も玉ねぎも、すべてが四角い形をしていた。うちの母が作るじゃが芋ばかりが馬鹿でかいカレーや、お弁当屋さんのルーに溶け出して具が行方不明になったカレーとは、早くも一線を画している。


 カルチャーショックを受けながら、私はいよいよおぼろ家のカレーを口にした。鼻への侵入を警戒し、細心の注意を払って咀嚼する。この味でおぼろくんが育ってきたんだと考えただけで、また瞳に水気が帯びた。


 間違えてこんにゃくでも揚げたんじゃないかと疑いたくなるほど肉々しさのないカツも、水の量をしくじったとしか思えないほど薄味のルーも、上品すぎるが故の味わいに感じる。噛んで噛んで噛みまくって、味覚を研ぎ澄ませた。


「どう? お口に合うかしら。私、お料理あんまり上手じゃなくって」


「そ、そんなことないです! すごいとっても美味しいです! 高級料亭の味です!」


「カツカレーは高級料亭じゃ出ないと思うよ。それより小春ちゃん、こっちも食べて」


 おぼろくんは冷静な指摘を下すと、自分の箸で私の小皿にサラダを盛り付け始めた。レタス、トマト、キュウリ、アボカド、エビ、と一品ずつ取り分けてくれる。


 分かっていたことだけど、少しだけ胸が苦しい。間接キスとも取れる行動を母親の前で何の躊躇いもなくやってのけるおぼろくんは、やっぱり本当に女の子なのだ。


「はい、どうぞ」


「ありがとう、いただきます」


 瑞々しいサラダと共に、複雑な気持ちを胃に納める。さっきから何を食べても味が感じ取れないのは、きっとお母様の料理のせいじゃない。非日常的すぎるこのひとときに混乱した私の舌が、正常に機能していないだけだ。

 冷房が効いていて体は冷えているのに、頭だけが熱でもあるみたいにほかほかとしている。


「サラダも、とっても美味しいです」


「よかったわ。遠慮せずにどんどん召し上がってね。そうそう、ドレッシングも色々あるの。私はね、ゴマが好きなんだけど、つばちゃんは青じそがお気に入りなのよ。小春ちゃんはどんなのがお好みかしら。どれでも好きなのを使って頂戴ね」


 甲斐甲斐しくドレッシングを並べ終わると、お母様はようやく食事を始めてくれた。食べながらも、にこにことずっと私を見てくる。気まずくはない。ただ、ずいぶんと気恥ずかしい。目が合って思わず会釈をすると、お母様は口元にあった笑みを顔中に広げた。


 かしこまる一方の私の舌は、俄然味を感知しなくなる。だけど期待に応えておかわりをするべく、私は大盛りのカツカレーと、青じそ味であるはずのお洒落なサラダをせっせと食べ進めた。


 食卓からは、スプーンが動く音しかしなくなった。

 というか、さっきからちょっとカチャカチャと音がしすぎている。学校でも私の家でも常に上品にものを食べるおぼろくんが、音を立ててカレーを食べていた。


 信じられなかった。母親の前ではずいぶんとわんぱくな食べ方をするおぼろくんが、大きなお弁当にがっつく鈴木くんの姿と重なって見える。


 不快感はない。どんなにお行儀が悪くても、たとえ私の皿にくしゃみをぶちまけたとしても、サンキュー塩味! とばかりに私は食事を続行できる自信がある。だけどそれは、おぼろくんにとっても私にとっても良くないことに違いなかった。


 おぼろくんはきっと、内なる部分を母親に気取られないために、故意にそうしているだけなのだから。


「こらこら、つばちゃん。もっと静かに食べなきゃだめよ」


「ごめんなさーひ」


「もう、口にものを入れたまま喋らないの」


 ついに注意されてしまったおぼろくんは、悪戯が見つかった子供じみた顔をして首をすくめた。彼には似合わない表情だと思いながらも目が反らせない。


 薄味だった口の中のカレーが、完全に無味無臭になった。グラスに手を伸ばす。爽やかな香りがしていたはずの水も、今は喉に重たいばかりだ。

 皿を叩くスプーンの音は止まらない。おぼろくんがおぼろくんでなくなっていくようで恐ろしかった。


 学校で会うおぼろくん。放課後私の家にやってくるおぼろくん。そして今、すぐ近くにいる自宅でのおぼろくん。私は色々な彼を見てきた。それはもう、ストーカーのごとく執拗に見続けてきた。

 けれどそのどこにも、本当のおぼろくんは存在していない気がした。


 誰にも見つからない胸の奥深くで、きっと本物のおぼろくんはひとりでもがいている。言葉尻に不自然な「だぜ」をつけて、暗闇の中お風呂に入って、スプーンとお皿をぶつけ合って、唇にカレーをこびりつかせて、超えられない大きな波に抗っている。


 もがき続けるおぼろくんの重苦は、どんなに想像を働かせたって私には計り知ることができない。だけど、ひとつだけ確かなことがあった。

 このままじゃ、おぼろくんはいつか必ず溺れてしまう。

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