7-3

 顔に当たる生暖かい風が、非日常的だったひとときの終わりを実感させる。明るすぎる食卓から一転、日が落ちた外は陰鬱な空気で閉ざされていた。

 間隔の広い街灯に照らし出されるのは蛾の群ればかりで、猫で賑わっていた路地は今やもぬけの殻だった。ほんの何時間か前に通った道とは別の場所に見える。


『送ってあげなさい、男の子でしょ』


 お母様のあのひとことがなかったら、私は間違いなく迷子になっていた。今頃、蛾にまみれて半べそをかいていたかもしれない。

 だけど、何の迷いもなく男の子と口にするお母様の姿を、できることなら見たくなかった。あんな風に私の本性を探ろうとする鋭い視線を持ちながら、おぼろくんの秘密には気付いていないのだろうか。


 整理のつかない様々な出来事で散らかったままの頭と、容量いっぱいの胃袋で、体がひどく重たい。油断をすると引き離されてしまうから、私は時折小走りを交えて道しるべとなるマーブル模様のポロシャツに続いた。

 入り組んだ道を臆することなくほいほい進むおぼろくんは、いつになく頼もしい。


「ごめんね、わざわざ送ってもらっちゃって」


「いいのいいの、この辺の道って分かりにくいから。それにほら、僕、男の子だし」


 力んだのか、男の子、という部分で盛大に声が裏返った。思わず見上げると、おぼろくんも目線を下げて私を見た。目尻が下がったのに一緒に眉毛まで下がるから、笑いたいのか泣きたいのか判別できない顔をしていた。


「お母さんには本当のこと、いってないんだね」


「うん、そうだね」


 おぼろくんは他人事のように即答すると、坊ちゃん刈りのかりあげ部分を撫でた。しゃりしゃりという気の抜ける音が、閑寂とした夜道に放り出される。


「本当のことをいったら、ママは自分を責めると思うんだ。椿なんて名前を付けたせいじゃないかとか、男親がいないせいじゃないかとか、夜勤めで女の世界を見せたせいじゃないかとか、あれこれ理由をつけてね。それに、どうして女の子として産めなかったんだろうだなんて、勝手に悔やまれたりしたら嫌だしさ。だから、いわないの。いえないんじゃなくて、いわないだけなんだよ」


 しゃりしゃりをやめたおぼろくんは、ぞっとするくらい穏やかな声をしていた。母親のことを恥ずかしげもなくママと呼んだのは、勢いで口が滑ったせいかと思った。

 でもそれにしては、始めから用意されていたような淀みのない答えだった。今までそう自分にいい聞かせながら、たったひとりで悩んできたのかもしれない。


 私は自分の背の低さを母のせいにして、時々恨むときがある。そのときは大抵、長身の遺伝子を分けてくれなかった父まで恨む。父の遺伝子を独り占めにしてにょきにょき育った兄まで妬んだりする。

 おぼろくんに比べたら、私の低身長なんて腹が立つほどしがない悩みだ。


「おぼろくんは、お母さん想いなんだね」


「それはどうかな。ただマザコンなだけかもしれない」


 目の前にある無理して絞り出した出来損ないの笑みと、やんわりと潤んだ鼻声に、私はトドメを刺された。おぼろくんのことを好きになった理由に、今さら気付かされた気がした。

 押し寄せてくる想いに、押し潰されてしまいそうだ。


「あれって、小春ちゃんのお兄さんの車じゃない?」


 突然立ち止まったおぼろくんの背中におでこをぶつけた。接触の衝撃をものともしないおぼろくんは、「ほら、そこそこ」となぜか小声で囁きながら前方を指差す。人差し指の先に、見慣れた小さな自動車のお尻が見えた。


 十字路の角に止められた車のすぐ傍に、兄本人の姿も確認できる。街灯から離れた薄暗い中でも、銀色の髪の毛はよく目立っていた。

 どうして兄がこんなところに?

 疑問は一瞬にして頭の中で飛び散った。突きつけられた光景から目を反らすより先に、私はおぼろくんの背後に隠れた。


 ドアが開け放たれた車の前で、兄とセーラー服姿の女が抱き合っていた。

 唇を押し付け、互いの口の中の酸素を激しく奪い合っていた。

 ふたりとも歪んだ形相をしていた。

 体が不自然に密着していた。

 兄の指先がセーラー服の上を這い回っていた。


 目の前をポロシャツのマーブル模様でいっぱいにしても、焼きついた残像は消えてくれない。暗闇に浮かび上がった白いふくらはぎと、足元に転がる火の付いたままの煙草。その白と赤が、角膜の中でチカチカと点滅を続けて離れない。

 あれが恋人同士の姿だなんて、信じたくなかった。失望にも似た喪失感で、胃の中の物が逆流しそうだった。


 立ち尽くしていると、手に何かが当たった。冷たく長い、おぼろくんの指だった。ことさら優しく包み込まれたせいで、手を握られたのだと分かるまで少し時間が掛かった。

 肌の触れ合いは不潔だ。汚らわしい兄を見て吐きそうだったのに、私はその手を握り返していた。


「こっちの道から行こう」


 ふたりに背を向けると、おぼろくんは駆け出した。手を引かれるまま、私も後に続く。早くこの場から遠ざかりたかった。


 前を行く背中を夢中で追いかけていると、散歩に連れ出された犬の気持ちが少しだけ分かる。おぼろくんは、どんな気持ちでいたのだろう。彼の手首を掴み、がむしゃらに走った日のことを思い出す。

 そうして、瞼にこびりついた現実を追い払おうとした。

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