7 トドメのおぼろくん

7-1

 母が渡したビニール袋いっぱいのおすそ分けが、大変な事態を呼んだ。なんと、お礼に夕飯をご馳走したいと申し出られてしまったのだ。


 それはつまり、おぼろ家に招待されたことになる。食べきれないものを押し付けただけだからお礼なんていいと何度も断ったのに、おぼろくんは引き下がらなかった。

「親が張り切っちゃってるんだよね」という説得は、余計私の頭を真っ白に染めた。おぼろくんの家で、おぼろくんの親御さんと一緒に夕飯を食べるだなんて、考えただけで体が弾け飛びそうになる。


 あげたのはお母さんなんだからお母さんがお礼を受けに行って来てよ、と母を相手にギリギリまで無謀な駄々をこねていた私は今、何だかんだで待ち合わせた駅に向かっていた。


 気を抜くと、すぐに手と足の動きが一緒になろうとする。普段の汗っかきが嘘みたいに体は冷えて硬直していた。コンクリートから照り返す熱も、焼けるような西日の強さも、なぜだか今日は私の体に届いてこない。そればかりか、信号が変わったことにもなかなか気付けない。


 私はどうかしていた。

 血迷って、長い間タンスで熟睡していたレース付きのワンピースなんかを着てしまったせいかもしれない。それじゃなかったら、ここまで来る途中に出来心で買ってしまった発色するリップを、かさついた唇に塗ってしまったせいかもしれない。いや、ワンピースとリップの相乗効果だ、と思いあぐねていると、私から落ち着きを奪う一番の原因が姿を現した。


 ポロシャツから伸び出た腕が眩しい。白と青が入り混じった色合いのポロシャツだった。複雑な心の内が溶け出したようなマーブル模様に、一瞬息が止まる。


 おぼろくんは駅の真ん中で手を振っていた。頬の横で、ふわふわと。それも、両手で。早足で歩いていた帰宅途中と思しきスーツ姿のおじさんが、首だけで振り返り周囲を見回していた。彼が誰に手を振っているのか、確かめたくなったのだろう。それほど胸を打つ手の振り方だった。


 私もつい、背後を確認してしまう。本当にあの歓迎的な両手が、自分に向けられたものなのか信じがたかった。後ろに手を振り返す人の姿はない。前に向き直ると、おぼろくんの手の動きが大きくなっている。

 ふわふわ、ふわふわ。揺れる手のひら。この光景を、私は一生忘れないだろうと思った。



 おぼろくんの家は、思い描いていた外観とはだいぶかけ離れていた。人間より散歩中の猫と多くすれ違う平和な枝道を十分ほど歩いてたどり着いたのは、拍子抜けするほど小さな建物だった。


 ベージュ一色でこってりと塗装された二階建てのアパートは、単身赴任中の父がひとりで暮らしている家によく似ていた。ひまわりのリースがあしらわれた季節感溢れる表札の部屋もあれば、玄関ドアから大量の新聞紙が乱雑に溢れ出している部屋もある。ちぐはぐな雰囲気まで父の仮住まいにそっくりだった。


「ここだよ」


 おぼろくんは一階の左隅で立ち止まる。玄関横の格子窓に、小さなサボテンの鉢植えが整列する部屋だった。それを目にするなり、急にここがおぼろくんの家だという現実味が湧いてくる。

 頭にちょこんと真っ赤な花を咲かせたサボテンたちが可愛い。等間隔を保った六つの鉢植えは、きっとおぼろくんが並べたのだろう。


「それにしても珍しいよね、小春ちゃんのおめかし」


 今やっと気が付いたみたいに、おぼろくんは目玉をくりくりと動かした。表情にそぐわない抑揚のない声で、私も今さら気付かされる。

 今の自分の服装は、普段避けていたはずの女の子らしい格好だった。本当に今日の私はどうかしている。自分の愚かさを隠したくて、無駄にひらひらと広がりたがるスカートを両足で挟み込んだ。舞い上がっていた気持ちも、一緒に封じてしまいたかった。


「そうだよね、変だよね、似合わないもんね」


「そんなことないよ。ただ、びっくりしちゃった」


「だ、だって! いつもみたいな格好じゃさすがにまずいかなぁって思って……」


「スポーティーな小春ちゃんでも大歓迎なのに」


「人様のお宅にお邪魔するときくらい、ドレッシーな小春ちゃんにならないと!」


「そんな気を使うような家じゃないから平気だよ」


 ようやく声に起伏を取り戻してくれたおぼろくんは、ドレッシーとは程遠い私の出で立ちを見返して、頬にえくぼを浮かべた。しかし「あぁそいういえば」と人差し指を下唇に当てがうと、すぐに笑みを引っ込めてしまう。ついでのように切り出したわりに、思慮深げな表情をしている。


「あのね、うちね、父親がいないんだ。兄弟もいないし。だから、家族は僕と母親、ふたりだけなんだ」


 今どき片親なんて珍しくないのに。深刻そうに告げてくるおぼろくんが少し気の毒になった。だけど妙に納得もした。シングルマザーを支える孝行息子というのは、おぼろくんのイメージにぴったりだ。


「じゃあ、お母様にしっかりご挨拶しないと!」


 女の子らしい服装が問題だったわけじゃないと分かり、不謹慎にもほっと胸を撫で下ろした私は、足の隙間から解放したスカートを両手で正した。


「では狭苦しい家ですが、どうぞ中へ」


 おぼろくんの手によってドアが開かれた途端、心地よく冷えた空気に体を撫でられた。同時に、嗅ぎ慣れない匂いに鼻腔をくすぐられる。普通の家庭ではなかなか醸し出せないであろう、生活臭とは違う独特の匂い。デパートの一階を彷彿とさせる、女の人の香りだった。


 外観はそっくりだったのに、入り口からしてもうすでに父の部屋とは天と地の差だ。電気代が気がかりなほど明るい玄関は、四隅までしっかりと照らされているのに塵ひとつ見当たらない。清潔な空間すぎて、自分の靴の汚さが浮き彫りになる。

 気張ってワンピースを着てきたくせに、足元にまで気が回らなかった私は、いつもと同じかかとの擦り切れたスニーカーを履いてきてしまっていた。


「お邪魔します」


 そそくさと上がり込み、薄汚い靴を揃えて隅へ追いやっていると、おぼろくんがスリッパを出してくれた。我が家では、お客様にスリッパなど出したことがない。育ちの違いを痛感しながら、今度うちにもおぼろくん用のスリッパを新調しようと心に決める。


「いらっしゃい、小春ちゃん」


 毛足の長いスリッパのふかふかした感覚を楽しんでいると、後ろから声がした。耳慣れない声から親しげに名前を呼ばれ、私の心臓はより活発に動き出す。常に鼻声のおぼろくんとは対照的な、高く澄み切った声だった。


 まだ名乗ってもいないうちに名前を呼ばれたことへの違和感は、すぐに照れ臭さへと変わる。おぼろくんは母親相手にも、何の恥じらいもなく私のことを小春ちゃんと呼んでいるのだろう。


 意を決して振り返った先に待っていたのは、目覚ましく綺麗な女性だった。お母さんという響きは到底似つかわしくない。桃色のカーディガンに黒いロングスカートという服装で決して派手ではないのに、兄の美容室があるお洒落な通りでも先陣を切って歩けそうな華やかさを纏っている。

 そのせいか、どこかで会ったことがあるような不思議な感覚がした。


「こんばんは、お邪魔します」


 私が第一声を発すると、目の前の女性は小首をゆったりと傾けて微笑んでくれた。首の動きに合わせて、控えめなカールを描く茶色い髪が、華奢な肩の上を滑る。この人がおぼろくんのお母様だなんて、アパートを前にしたときより現実味が湧かなかった。


 どこか近寄りがたい雰囲気を感じてしまうのは、丁寧に施された化粧に遮られ、表情が読めないせいではない。微笑みかけてくれているのになぜだか素直に笑い返すことが躊躇われる。お母様は、そんな力のこもった目をしていた。


 私は、できる限りの元気な声を絞り出す。


「初めまして、山本小春です。今日はお招きくださって、ありがとうございます」


「こちらこそ、先日はたくさん美味しいものを頂いちゃって。どうもありがとうね」


 何度もイメージトレーニングを重ねた挨拶を披露してしまうと、後はもう、何を喋ったらいいのか分からない。相変わらずお母様の表情は美しい笑みで満ちているのに、目の奥の鋭い光りは増すばかりだ。


 私がどんな人間なのか、品定めをされている気がした。おぼろくんへの一方的な想いまで見透かされそうで、思わず目を伏せる。すると、頭上に温かい感覚が舞い降りた。


「いつもつばちゃんと仲良くしてくれてありがとう」


 私の頭を撫でながら、お母様は飛び切り甘い声を出す。これじゃあまるで、小さな子供みたいだ。でも、悪い気はしなかった。何より「つばちゃん」という響きが良かった。噴き出しそうになるのを堪えるのが大変なほど、とても気に入った。


 だけどおぼろくんが視界に入った途端、私は我慢できずに笑ってしまった。お母様のことを恨めしそうに見つめるおぼろくんの顔には「つばちゃんて呼ばないでっていってるでしょ」と、はっきり書いてあったから。


「あらあら、なぁに? 私、何かおかしなこといったかしら?」


「母さんがつばちゃんなんて呼ぶからでしょ」


 ニヤニヤするので手一杯な私の代わりに、おぼろくんが尖らせた唇で投げやりに答える。私が突然笑い出したわけに納得したのか、お母様は眉毛を高々と持ち上げて笑いに参加してきた。

 おぼろくんも諦めたように、唇の尖りを解消している。ふたりの頬に刻まれたえくぼを見てはっとした。目の前にあるふたつの笑顔は、とてもよく似ていた。


「どうぞ上がってください」


 私の笑いが治まるのを見計らったように、お母様の手によってリビングへ続くドアが開かれた。玄関同様よく片付いた、清潔感のある明るい室内が見渡せる。


 クリーム色で統一されたシンプルな家具は、控えめな広さのリビングによく馴染んでいた。定員二名サイズの小ぶりなソファーは、お洒落な新婚カップルの部屋を連想させる。

 サイドボードの上に置かれたガムテープだってバームクーヘンに見えてきそうなほど、潤いに満ちた空気が流れていた。

 たったふたりで暮らしているという侘しさは、欠片も感じられない。


「小春ちゃん、手洗おう。もうすぐお夕飯だから」


 おぼろくんに視線を戻すと、新たに開かれたドアの向こうに背の低い洗濯機が見えた。収納スペースだと思っていた細長いドアは、洗面所に繋がっていたらしい。


 おぼろくんは石鹸を手に取ると、身を縮めて一歩右にずれた。何もふたり一緒に並んで洗わなくても! と内心そわそわしつつ、私はそのスペースにお邪魔する。

 ぶつからないように肩をすぼめて蛇口に手を伸ばすと、おぼろくんが泡立てた石鹸をこんもりと分け与えてくれた。きめ細やかな真っ白い泡に見惚れていると、まだ聞きなれない朗々とした声が洗面所に反響した。


「つばちゃん、電気くらいつけなさい」


「まだそんなに暗くないから大丈夫だよ」


「だめよ、明るいところでちゃんとよく見て洗わないと」


 いい終わらないうちに、洗面所にぱっと明かりが広がった。照らし出されたおぼろくんは、鏡の中の自分とにらめっこしているみたいに顔をしかめている。つられて私の眉間の幅も狭まった。


「まったくねぇ、つばちゃんは昔から暗いところが好きで困っちゃうのよ。お風呂なんて、いっつも電気も付けずに入るんだから」


 鏡ごしに笑いかけてくるお母様に、曖昧な笑みしか返せなかった。当の本人は素知らぬ顔で石鹸を洗い流している。日焼けを嫌うおぼろくんが、暗いところが好きという事実に疑問はない。だけど、すんなり聞き流すことができなかった。


 マニアックなお風呂の入り方の真意を探ろうとした私の思考は、ぎゅるごごごごという怪奇な音に遮られた。ドキリと心臓が疼く。薄っぺらいお腹をしきりにさするおぼろくんは、表情のない顔をしている。


「お腹空いたよ」


「はいはい。じゃあ早くお夕飯にしましょうね」


 すぐ耳元で聞こえたおぼろくんの腹の音は、内部で男と女が熾烈な戦いを繰り広げているような、居た堪れない音だった。

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