6-3

「お邪魔しました。それじゃあ、またね」


 その「またね」が、次に顔を合わせる教室では適用されないのを知りつつ、私も同じ言葉を返した。


 扉を開け放つと、待ち伏せしていた熱気がすかさず玄関に上がり込んでくる。夕焼け色に染まった空のせいで、外は一層蒸し暑く感じた。こんな中おぼろくんは家に帰って行くのだと思うと申し訳なくなる。

 「またね」以外にも掛けるべき言葉がたくさんあるはずなのに、相変わらず私の口は役立たずだ。


 おぼろくんはこちらに背を向けてから、手でひさしを作って赤い空を見上げた。

 細長い背中越しに、見慣れた人影が目に入った。ハンカチで汗を拭いながらせっせと歩いてくる、私にそっくりな丸みを帯びた小さい体。母だ。

 私たちに気付くと、母は足を速めて一気に距離を詰めてくる。それに伴い、汗を拭く手のスピードもアップした。


「まぁまぁ! お客さんなんて珍しいからびっくりしちゃった。知らない人が立ってるもんだから、自分の家間違えちゃったかと思ったわ」


 どちらに話しかけるともなく声を上げると、母はドハハハと体を揺すって豪快に笑った。廊下中に響き渡る笑い声。私は唇に人差し指を突きつける。


「お母さん、声が大きいったら。またご近所さんから苦情が来ちゃうよ」


「やぁね小春ちゃん。また、なんていわないの。お母さんがいっつも怒られてるの、バレちゃうじゃない」


ねーぇ、と続けながら、母は同意を求めるようにおぼろくんを見上げた。母にしろ兄にしろ、どうしてうちの家族は初対面の相手を前にしても臆さずに、こうも馴れ馴れしくできるのだろう。


「初めまして、朧椿と申します。すみません、先ほどまでお邪魔していました」


 私が人差し指を下ろさぬままでいたせいか、おぼろくんは母に顔を寄せ、ひそめた声で挨拶を始めた。「んまぁ遊びにきてくれてたのね」と喜ぶ母は、つられて声のボリュームを下げたものの、おぼろくんの言葉尻に噛み付かんばかりの早口だ。


「せっかく会えたのに、もう帰っちゃうなんて残念だわ。もっとゆっくりお話しできればよかったのにねぇ」


「お会いできてよかったです。お母様に、ご挨拶をしたかったので」


「まぁまぁ、なんて礼儀正しい良い子なの!」


「とんでもないです。いつも勝手にお邪魔してしまっていたので、一度ちゃんとお礼がいいたくて」


「あらいつも! そんなに小春ちゃんとたくさん仲良くしてくれてるのね。本当にどうもありがとね」


「こちらこそ、いつもありがとうございます」


「またいつでもいらしてね。おばさん、あまり家にいなくてお構いできないのが残念だけど、今度なにかおやつ作っておくからね。また遊びにきてちょうだいね」


「はい、ありがとうございます。楽しみにしてます」


 ひそひそ声のまま交互に頭を下げ合うふたりを見ていた私の頬は、いつの間にか緩んでいた。夕焼けに照らされ足元から伸びた影まで、一緒にぺこぺこと頭を上げ下げするから余計に可笑しい。


「あ、そうだ! ちょっと待ってて、朧椿くん!」


 母は口と目をまん丸に開いて手を打つと、覚えたばかりのフルネームを大声で呼んだ。私はすぐさま非難の目を向ける。しまったとばかりに首をすくめた母は、これ見よがしに唇を固く結ぶと、手振りだけでおぼろくんを玄関に招き入れた。

 そして扉が閉まるのも待たず、玄関脇に陣取るダンボール箱を探り出す。


「これねぇ、田舎から送ってきたんだけど、よかったら持って帰ってちょうだい。見た目は悪いけど、味はちゃんとしてるのよ」


 おぼろくんのことを気に入ったのか、母は極めて上機嫌だ。何だか私まで嬉しくなる。……気がしたのはほんのひとときで、いそいそとビニール袋におすそ分けを詰めていく作業を見ていたら、すぐに気が変わった。


 人参、玉ねぎ、じゃが芋、名前の分からない無駄に長い棒状の野菜、毒々しい色をした果物らしき球体、野菜か果物か判別もできない茶色い塊などが次々に投入され、ビニール袋は容赦なく膨らんでいく。

 どう見てもこれは、ありがた迷惑以外の何物でもない。


「よぉし、いっぱい入った。破れないように、袋は二重にしてあるからね、安心安心!」


 袋の強度には気が回るくせに、袋が破けんばかりの大荷物を持って帰る労力にはお構いなしだ。満面の笑みで大袋を差し出す母を制止しようとした私の手は、思いがけずおぼろくんに阻まれた。


「ありがとうございます。こんなにたくさん、きっとうちの母も喜びます」


 おぼろくんはにこやかに一礼すると、左手で大袋を受け取った。腕には筋が浮き上がり、指からはみるみる血の気が失せていく。

 でも、右手に持ち変えることも、両手で持ち直すこともしない。旺盛なやせ我慢は、少しでも重たい素振りを見せたら無礼にあたるとでも思っているような頑なさだ。


 お礼とお辞儀を散々繰り返してから、おぼろくんはようやく帰っていった。左手にぶらさげたありがた迷惑な善意によろめきながら遠ざかる背中を、こうして母とふたりで見送るのは妙な気分だった。


「お母さん、張り切ってちょっと詰めすぎちゃったかしら」


「ちょっとじゃないよ、どう見ても詰め込みすぎ。見てみなよ、重さで体が傾いてるじゃん。あれ、家まで持って帰るの絶対大変だよ」


「やだどうしよう、ちょっと減らしてあげたほうがいいかな」


「今さら遅いよ」


「もーう、だったらどうしてもっと早く教えてくれないのぉ」


「だってお母さん、止める間もなくどんどんどんどん詰めちゃうんだもん!」


「やだ小春ちゃん、そんなにプンスカ怒鳴らないで。ご近所さんから苦情が来ちゃうわよ」


 私は反論しようと開きかけた口を噤んだ。おぼろくんが立ち止まり、こちらに振り向いたのだ。

 私の喚き声が聞こえたのかと焦ったけど、エレベーターに乗り込む前にもう一度挨拶がしたかっただけらしい。姿勢を正してからぺこんと頭を下げ、顔を上げると今度は手を振った。


 お辞儀は母に、バイバイは私に。せっかく人がそう解釈して満悦しているというのに、隣では、母が私へのバイバイを横取りしてハンカチを振り返し応答している。

 何の動作も返せなくなった私は、おぼろくんがエレベーターに飲み込まれるのをただじっと見守るはめになった。


 きっと今頃、ひとりきりのエレベーターの中で重すぎる荷物を持て余しているのだろう。右手に持ち替えただろうか。それとも両手を駆使して重さを分散しているだろうか。はたまた一旦下に置いてみたりしているのだろうか。


 色々想像してみたけれど、なぜだかおぼろくんは、重たい荷物をまだ左手に食い込ませ続けているような気がした。

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