6-2

 おぼろくんの淹れてくれる紅茶は格別だ。同じ茶葉でも、私が淹れたものとはまるで味が変わる。給食で出される断面が干からびた半球のみかんと、列車のボックス席で食べる冷凍みかんくらい、味わいも感慨も違う。


 おぼろくんの紅茶が美味しい秘密は、ただ正当な手順で淹れているからじゃない。丁寧に心を込めて淹れているからこんなにも五臓六腑に沁みるのだ。

 テーポットを手にしたおぼろくんの職人気取りの顔を思い出しながら飲むと、芳醇な味わいはより一層深くなる。至れり尽くせりな美味しさだ。


「小春ちゃん、もしかして猫舌?」


 貴重な紅茶をもったいぶって堪能していた私の姿が、どうやら飲むのに難儀しているように見えたらしい。気遣わしげな目を向けられてしまった。


「暑いから、アイスティーのほうがよかったかな」


 ついさっきまで、隣に座る私をしらんぷりし続けていた張本人とは思えない、熱のこもった声だった。

 冷蔵庫のドアポケットにいつでも待機している自家製麦茶のようなさりげなさで、今日も私の家にいるおぼろくん。相変わらず学校の中と外とでのメリハリが素晴らしい。


 小洒落たティーカップと上等な茶葉がタッグを組んでも、優雅にティータイムを楽しむという行為が上手くできない私は、肩肘を張るのをやめ喉を鳴らして紅茶を流し込んだ。


「大丈夫。あったかい紅茶、だんだん癖になってきたよ。もう、アイスティーには戻れないかも」


「本当? それはよかった。僕もホットのほうが好きなんだ」


「私も、紅茶はあったかいほうがうまい気がする」


「やだなぁ小春ちゃん、女の子なんだから美味しいっていわなきゃ」


「うまいも美味しいも同じだよ。うまいうまいうまーい!」


 開き直った私は、うまいうまいと口ずさみ続けながら紅茶を啜る。ズリズリと音を立てて特別下品に。勢いづいて、おやつのぬれせんべいを一枚丸ごと頬張った。

 醤油のたっぷり染みたそれはしょっぱくて、今度こそおぼろくんの口に合うことを祈って二度目の横取りに手を染めたのに、さっきから私ばかりが食べている。


 女の子として生まれてきたくせに、女の子らしくあれない私。おぼろくんの目には、疎ましく映るのだろうか。


 今日の私は、ボタンの取れかかったからし色のTシャツに、色の抜け切ったデニムの短パンという部屋着丸出しのスタイルで、気軽にコンビニにも行けない格好をしていた。

 三度目の突撃訪問を予期していながらも、あえてこの服を選んだ。乙女チックな洋服だって持っていないわけじゃないけれど、着るのが躊躇われた。だってそれは、私よりおぼろくんが着たいはずの服装な気がしてならなかったから。


 制服姿のままのおぼろくんは、白い腕で座布団を胸に抱き、脚を斜めに揃えて座っている。私はもちろん胡座だ。座布団は当然、尻の下だ。


 ぬれせんべいは軟弱な歯ごたえのわりに噛むほどに歯に絡みついてくるばかりで、なかなか飲み込めない。仕方なく口の中に大量のせんべいを残したままティーカップを傾けると、盛大に咽せた。初体験の醤油フレーバーな紅茶に喉が驚いている。


「もう。そんなに大きいの、丸ごと口に入れちゃうからだよ」


 ため息交じりの鼻声には、咎めるような響きは一切こもっていなかった。おぼろくんは綺麗な歯並びを公にして笑っている。本来なら口元へ持っていく手で、ティッシュを差し出してくれていた。


 淑やかな微笑みに包まれていたら、不意に頭がふわふわと柔らかくなっていく感覚がした。起きているのに夢の中にいる気分で、私は薄れかける意識を懸命に手繰り寄せ、揺らめく頭の中で愛しい鼻声を反芻する。心地の良いこの時間が、永遠に続けばいいのに。


 でも、こんな気持ちに浸っているのは所詮私ひとりなのは分かっている。おぼろくんの心が、いつもどこかを彷徨い歩いていることを私は知っている。


 例えば、紅茶の葉が開くのを待つとき。

 最後の一滴を私のティーカップに絞り出すとき。

 紅茶の水面を覗き込んだとき。


 度々おぼろくんは、別のことを考えているような遠い目をする。心を隠すかのように抱えられた雲柄の座布団。気に入って買った座布団カバーなのに、おぼろくんの胸に広がる空色が、今は目に痛い。


 懲りずにせんべいを掴み、今度は注意深くひとくちだけ齧った。歯型がついたせんべい越しにおぼろくんの様子を窺いながら、私はやっと思いついたいい訳を口にする。


「やっぱり、紅茶におせんべいはちょっと合わなかったかもね」


「あんなにもりもり食べてたくせに?」


 一笑されてしまった。重ねようとしたいい訳は「でもね」と続いたおぼろくんの声で不発に終わる。


「食べてる小春ちゃん、僕好きだよ」


 私はまたも咳き込んだ。喉に変な圧力が掛かったせいで、今度は音の出ないかすれた咳だった。


「大丈夫? 今おかわり入れるね」


 おぼろくんは自分の発した言葉の威力には気付かない様子で、とぽとぽと紅茶を注ぎ足してくる。好きだよといわれた興奮が醒めなくて困っているというのに、おぼろくんは「冷めちゃったかなぁ」と紅茶の心配をしていた。


 きっと今の私が飲んだら、淹れたての紅茶だって冷たく感じるだろう。顔を隠すために慌ててティーカップを傾ける。私は冷えた紅茶をできるだけゆっくりと口に含んでいった。貪ったり咳き込んだり汗をかいたり、ひとりで大忙しな自分が嘆かわしい。


「ねぇ。僕は、どうしたらいい?」


 心の声が漏れ出したみたいな、しみじみとした囁きだった。のぼせた耳が、その前にあったはずの言葉を聞き逃したのかと焦るほど、その質問は唐突だった。


 でも、私の耳が静かな部屋でおぼろくんの声を聞き逃すことなどありえない。視界を遮っていたティーカップを唇から離すと、さっきまで微笑んでいたはずのおぼろくんは少しも笑っていなかった。

 突然の真剣な表情にたじろいだ私は、聞き返すタイミングすら掴めない。


 どうしたらいい、という戸惑いに満ちた声が、しつこく頭に響いている。

 何のことを指した言葉なのかも定かじゃないのに、ひどく説得力のある疑問だった。本当に、おぼろくんはこの先どうしたらいいのだろう。


「なんてね。やっぱり今のなし、忘れて」


 私の答えなど始めから期待していなかったみたいに、おぼろくんは笑った。目の細まった表情は観念したようにも達観したようにも見えて、喉が余計に苦しくなった。


「待って、待ってよ! なんで勝手に自己完結しちゃうの、気になるじゃん! 寂しいじゃん!」


 戸惑いを飛び越えて出た私の声は無駄に張り詰めていて、自分の必死さが可笑しくなった。それなのに、すべてを知っていながら苦しみを分かち合うこともできない自分の不甲斐なさが骨身に沁みて、上手く笑えなかった。

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