6 どうしたらいいのおぼろくん

6-1

 黒板を叩くチョークの音とノートを走るペンの気配で満たされた教室は、退屈が蔓延った睡魔の巣窟だ。黒板に向けて顔を上げているとあくびがこみ上げてくるし、ノートに目を落とせばつられて瞼まで落ちてくる。私は、未練がましく窓に視線を預けた。


 今日は日当たりが良すぎて、窓ガラスはずっと役立たずだ。夏の強い日差しに跳ね返されて、おぼろくんが映ってくれない。一日の楽しみを奪われた頭に浮かぶのは、昨日のおぼろくんの姿だった。


 記憶の中のおぼろくんにはどこか現実味がない。思い返すと恍惚とした気分に引きずり込まれる一方で、その後すぐ、白昼夢を見せられたような虚しさにも襲われる。


 昨日のおぼろくんと、今隣にいるおぼろくん。同一人物とは思えなかった。少なくとも隣のおぼろくんは、誰かの些細なひとことであっさりとふて腐れたり、意地悪をいって突然ひとりで笑い出したりなんてしそうもない。例え相手が鈴木くんであったとしても。


 もしかしたら、おぼろくんが学校で私を避ける理由はそこにあるのかもしれない。私は放課後のおぼろくんと仲良くなっただけで、学校でのおぼろくんとは親しくはない。だから、学校で馴れ馴れしくするのは間違っている。

 半ば強引にそう解釈してみると、不思議と納得ができた。あれほど心を縛り付けていたもやもやが、少し晴れた気がした。


 だけど同時に不安になる。それじゃあ、学校でのおぼろくんは何なんだろう。放課後のおぼろくんも何なんだろう。私はどちらのおぼろくんも同じように好きだけど、一体どちらが本当の彼なんだろう。


 考え出したら怖くなった。本来の彼は彼女であって、そもそもどちらも本当の姿ではないのかもしれない。目を凝らして窓ガラスを見つめても、答えなど分かるはずもなかった。

 分かったのは、消えかけていたもやもやが一転、ざわざわとした胸騒ぎに変わったことだけ。


 急に腹が立った。

 強すぎる太陽に。黒板に書かれた文字の羅列に。目の前に並ぶ様々な形の頭に。教室の半分を埋め尽くすセーラー服に。とにかくすべてに腹が立った。おぼろくんに集中しようとする私にとって、みんなみんな、ただの邪魔者でしかなかった。



 お腹にものを入れたら、怒りはみるみる静まった。チョコチップメロンパン一個で解消される程度の怒りで激昂していた、四時限目の自分が恥ずかしくなる。


 もっと透き通った気持ちで恋がしたいと、二個目のパンに噛み付きながら思った。ほわほわのイチゴミルク蒸しパンを舌先で転がしながら、恋っていうのは本来こういうものじゃないかしらと考える。


 ふんわりきめ細やかで、それでいてもっちりしていて。口当たりだけで十分笑顔になれるのに、イチゴの甘酸っぱさと濃厚なミルクの味わいまでプラスされている。桃色と乳白色が溶け合い織りなされるマーブル模様は、見るからに恋の色だ。

 パンごとにそれぞれに違った模様を描き出しているところにもそそられる。

 柔らかで甘くて可愛くて特別で、イチゴミルク蒸しパンは私が理想とする恋だった。


 でも実際私がしているのはああいう恋だ。

 鮎子の机に控えている茶色いパンに目を据える。歪な形をしたカレーパンは、パン粉に覆われてイガイガし放題。おまけにドロリとした中身をみっちりと蓄えている。中に潜むドロドロは、ひとたび出口を見つけるとすぐに溢れ出す。触れるものを容赦なく黄ばませる。


「そんなにじっと見たってあげないからね」


 私の視線に気付いた鮎子は、カレーパンを大事そうに手で覆った。


「別に狙ってないよ。カレーパンなんて、辛いしギトギトだし好きじゃないもん」


「あっそ。あたしは砂糖まみれの甘ったるいパンの方がどうかと思うけどね」


「美味しいのに、甘いパン」


 鮎子はまた「あっそ」と短く答えただけで、見るからに硬そうな明太フランスパンをガリゴリ齧り始めた。自慢の前歯が炸裂、鮎子様本領発揮! といった具合に、食べ方にはその人らしさが自然と滲み出るから面白い。

 つられて蒸しパンを強く噛み締めながら、ようやくいつもの働きをするようになった窓ガラスへ視線を忍ばせた。


「何でハンバーグっていつ食ってもこんなにうめぇんだろう。点数つけるとしたら星七つだな」


 自分の前言を無視し、点じゃなく大量の星を付けた鈴木くんは、せっせとこめかみを動かし満足げに頷いている。おかずだけじゃなく、愛情もたっぷり詰まっているのが伝わってくる大きなお弁当は、母親お手製のものに見えた。


 それを何の躊躇いもなく絶賛してのける鈴木くんの天真爛漫さに私は笑いを堪える。ハンバーグを語る声がしなくなったと思ったら、鈴木くんはまたガツガツとご飯をかき込み始めた。


「やっぱハンバーグのお供は白飯に限るな。ハンバーガーなんて、オレからいわせりゃ邪道だ邪道」


 弁当箱から顔を離した鈴木くんは、箸をくわえたまま行儀悪くまた喋り出す。まったく、食べたり喋ったり忙しい。

 それに引きかえ、食事中のおぼろくんはあまり喋らない。短い返事で鈴木くんをやり過ごしながら、木の実を手にしたリスにそっくりなひたむきさで、黙々とベーグルを咀嚼している。時々、紙パックの豆乳を口にする。成分は無調整らしい。


「つーかお前の飯、絶対栄養のバランス悪いよな」


「そうかなぁ」


「そうに決まってんだろ。そんなしょぼいパン一個でいいわけないだろ。ほら、これやるから遠慮せずに食え食え。ブロッコリーにニンジンに、プチトマトもあるぞ」


「あれ、トマトは食べられるようになったんじゃなかったの?」


「バカいえ。オレはブロッコリーだってニンジンだって、何だって食えるっつーの」


「なら自分で食べなよ」


「待て待て待て。せめてブロッコリーだけでも! 頼む、食べてくれ! オレは朧の体が心配なんだ!」


 ベーグルと豆乳だけという、ダイエット中のOLか! とツッコミを入れたくなるおぼろくんの昼食は、私の目からも栄養不足に見える。並んで視界に入る大きなお弁当と比較してしまうから尚更だ。


 おぼろくんに気を取られている隙に、すっかりカレーパンまで平らげていた鮎子は、早くもカツサンドに手を付けていた。

 私も次なるパン、焼きマシュマロラスクを頬張る。が、右手にはまだ蒸しパンが残っていた。指先で感覚を確かめる。いつまでたってもふわふわのままだ。


「ねぇねぇ。鮎子って、好きな人とかいないの?」


 いい終わらないうちに、睨まれた。鮎子は動かしていた口を止めると、食べかけのカツサンドを乱暴に机の上に放り出した。


「やめてよ小春までそんな話。そういう話がしたいなら、あちらへどーぞ」


 顎というより前歯で示された場所には、きゃぴきゃぴと黄色い声を上げる女子の集団がいた。食べることより喋ることに熱心な彼女たちを一瞥し、鮎子は短く鼻を鳴らす。


「どいつもこいつも口を開けば愛だの恋だの、いい加減胸焼けがする」


 いい足りないといった様子で、黙ってラスクをザクザク鳴らしていただけの私に追撃してきた。鮎子がわざとらしくため息を吐くと、タイミングの悪いことにその瞬間、教室中にこだまする黄色い声が勢力を増した。


 耳を塞ぎ一層眉をひそめた鮎子を見て、ラスクを噛み砕く力も失せた私は、唇でマシュマロをぱふぱふ弄ぶ。私には取るに足らない雑音だった。愛だの恋だので頭がいっぱいな私の耳には、鮎子の刺々しい声が突き刺さったままなのだから。


「鮎子はさ、恋なんてくだらないって顔して、本当はちゃっかり年上の男と付き合ってるようなタイプだよね。鮎子はそうやって自分を棚に上げて、ほかの誰かを上から見下ろさないと気が済まない性格だもんね」


「はぁー、お腹空いた。食べ足りない」


 ふんだんに悪意のこもった私の言葉を、鮎子は気の抜ける半顔面で受け止めた。大げさな動作であくびまで追加する。そのせいで、鮎子の瞳にはうっすら光りの膜が浮かび上がってしまった。吐き出した言葉を吸い込んで、今すぐ土下座をしたい気分になった。本当に私は、醜いカレーパンだ。


「これあげる。甘いのしかなくて、ごめん」


 土下座の代わりに丁重に頭を下げながら、シロップがたっぷり練りこまれたロイヤルメープルマフィンを差し出した。デザート代わりに残しておいた、甘い香りを放ち続けるとっておきのパン。鮎子は皺を寄せた鼻で匂いを確認してから、用心深くマフィンに前歯を立てた。


「うわ。想像以上に甘ったるい」


「うん、なんてったってロイヤルだから。ごめん」


「そしてびっくりするほど柔らかい」


「それじゃあお腹の足しにならないね、ごめんね」


「小春もいつまでも両手に持ってないでさっさと食べたら」


「うん、食べる。ごめんね」


「はいはい、もう分かったから」


 マフィンを口に詰め込んでから喋るから、鮎子の発音はままならなかった。でも、何を分かってくれたのかはちゃんと分かる。私も負けじと両手の蒸しパンとラスクを頬袋に押し込んで、「ありがとう」とお礼を述べた。

 両頬を膨らませ、メープルの香りを振りまいて笑う鮎子の顔を見ていたら、自分がどうしようもなく嫌になった。


 隣で静々と食事を続けているおぼろくんの昼食は、いつの間にか三種の野菜がトッピングされた不恰好なサラダベーグルに変化している。


 そう、彼は甘いものが苦手なんだ。穴の開いたシンプルなパンばかり食べていたのを、私は前から知っていた。真似をして同じものを買ってみたら、ドーナツそっくりな形をしているくせに少しも甘くなくて、クリームが届いていないチョココロネの先っぽを食べたとき以上にがっかりした。


 それなのに私は、彼が甘いものが嫌いなことには気付けなかった。彼が他の男の子にはない魅力があることは知っていても、その真相にはたどり着けなかった。

 すべてを知らされても尚、私は何もできない。こんなに好きなのに、私は何の力にもなれない。


「よかったら、これも食べて」


 甘くないパンも買えばよかったと後悔しながら、手元に残ったモンブランデニッシュを鮎子の机に押しやる。口の中のマフィンを片付け、ゆっくりと缶コーヒーを飲んでいる目の前の鮎子が、本当にお腹が空いていたのかさえ、私には分からない。だけど、何かせずにはいられなかった。


「あら。恋に目覚めた小春さん、まさかダイエットですか?」


「違うよ。鮎子をぶくぶくと肥えさせて、年上男との仲を引き裂いてやる作戦ですよ」


「知ってるでしょ。あたし、いくら食べても太らない体質だから」


「ずるい、不公平だ」


「食べても身にならないあたしがもらってももったいないだけだからね、これは小春ちゃんが食べましょうね。はい、あーん」


 ちぎったデニッシュを無理やり唇に押し付けてくる。抵抗したら口の周り中クリームまみれにされかねないので、素直に迎え入れた。食欲などどこかへ逃げていったはずなのに、反射的に顎が動く。さっくりとしたデニッシュは、こんなときでも濃密な糖度で舌をとろかせる。


 口を開け、鮎子が次のひとくちを与えてくれるのを待ちながら、イチゴミルク蒸しパンみたいな気持ちでありたいと、今度は誓うように思った。

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