5-2

 赤く染まったスナック菓子を口に入れたおぼろくんは、二、三度噛んだきり唇を「ほ」の形に広げるとそのまま固まってしまった。

 じんわりと涙を溜めた目で、スナック菓子の袋に印刷された唐辛子キャラクターと見つめ合ったまま動かない。


 甘いものが苦手なくせに、辛いものもだめなようだ。見かねてティッシュ箱を押しやると、おぼろくんは何かお礼めいたことを口にした。だけど「ほ」の形のまま喋るから何をいっているのか分からない。涙目になってよく光る瞳は、猟奇的なスマイルを浮かべる唐辛子のキャラクターから離れて私に向けられた。


 何の約束もなしに再び私の家へやってきたおぼろくんは、ほんの数分前に教室で見た彼とはまるで違った。着替える間もなくてお互い制服のままだし、席だって隣から目の前に移っただけで、半径一メートルの微妙な距離感も変わっていない。


 それなのに、別人だった。


 狭い部屋でふたりきりというのも気まずくて、今日はおぼろくんの紅茶を頂く場にリビングを選んだけれど、結局は居心地が悪い。

 教室の中で散々わだかまったもやもやは、ぬくぬくの紅茶でも溶けなかった。もやもやの発信源は人の気も知らないでおっとりと笑っている。

 そんな顔を向けられたくらいで、すぐに落ち着きをなくす自分の心臓が情けない。


「小春ちゃんの家は、食べ物がいっぱいだね」


 お菓子がストックされているリビングの一角を、おぼろくんは感心したように見ている。だけど視線はすぐ私に戻った。反らされる虚しさを知っている私は、目の前にある濡れた瞳をひたすら観賞するしかなかった。おぼろくんのタイミングに合わせて瞬きをしながら、私はお菓子の山を一度も見ずに頷いた。


「みんながそれぞれに買ってくるから、いつも山盛りなんだよ。すぐどれが誰のだか分からなくなっちゃうし」


「だから名前が書いてあるんだね」


「そうそう。こうしておかないと、誰かに食べられちゃうんだもん。逆に、誰かが買ってきたやつにも先に名前を書いちゃえば、簡単に横取りできちゃうんだけどさ」


「これにはちゃんと、小春ちゃんの名前が書いてあるね」


 スナック菓子の袋を持ち上げたおぼろくんは、ひらがなでデカデカと書かれた「こはる」の文字を見て目尻を下げた。

 名前は書いてあるけど、これは私が買ってきた物じゃなかった。横取りパターンの方だ。別に食い意地を張ったわけじゃない。甘いものが苦手なおぼろくんに食べてもらいたかったから、悪に手を染めたのだ。


 またいつかおぼろくんが家にやってきたときのためにと、昨日名前を仕込んだばかりだった。まさかこんなに早く横取りが成功してしまうとは。


「お菓子に名前が書いてあるの、小学生の遠足みたいで可愛いね。というか、前々から思ってたけど、小春って名前自体、可愛いよね」


 前々っていつだろう。どれほど前から可愛いだなんて思ってくれていたのだろう。もしかしてこうして言葉を交わすようになる前から、おぼろくんは私のこと、ほんの少しだけでも気に掛けてくれていたのだろうか。


 だから小春ちゃんだなんて、親しげに私の名を呼ぶのだろうか。それなのにどうして、学校では挨拶することさえ許されないのだろう。


「だから私のこと、名前で呼ぶの?」


 膨らみ続けるもやもやの片鱗をぶつけてみたのに、おぼろくんは「うぅーん」と勢いのない声で唸ったきり、言葉を続けなかった。ゆったりと紅茶を味わった後、頬に手を当てて静止した彼は、私じゃなく違う誰かのことを考えている気がした。


 自分ばかりがこんなにドキドキと心臓を酷使しているのが馬鹿らしくなってくる。

 私は横取りしたスナック菓子を三つまとめて口に放り込んだ。何だ大して辛くないじゃないと思った矢先、鼻がもげるかと思うほどの衝撃が走った。ふたつめに手を伸ばさないおぼろくんに納得しながら、私は口を「ほ」の形にして返事を待った。


 しかし鼻の痺れが治まっても、答えは返ってくる気配がない。辛さで痛む舌を持て余した私は、待つことをやめた。


「おぼろくんだって、十分いいと思うけどなぁ」


「ん? 何が?」


「だから、その……名前。お洒落でいいと思う。小春より、おぼろくんの、下の、名前のほうが」


「そんなことないよ。僕はもっと、鈴ちゃんみたいな貫禄のある名前がよかったよ」


 なかなか外れなくて困っていた視線が、不意に離れた。テーブルに乗った小憎らしい唐辛子を覗き込むような格好で、おぼろくんは俯いてしまった。


「そういえば私知らないや。ねぇ何ていうの、鈴木くんの名前」


「虎之助」


「あ、なんか分かる気がする。確かに鈴木くん、虎之助! って感じの顔してるもん。でもおぼろくんには似合わないよ。やっぱりおぼろくんは……椿がいいよ」


 初めて声に出した椿という三文字は、とても口当たりがよかった。だけど、顔を上げたおぼろくんと目が合うと、後味は苦いものへと変わった。


「嫌だよ、女みたいで」


「どうして? いいじゃん、おぼろくんらしくって」


 悪気など微塵もなかった言葉に、おぼろくんは「だから嫌なんだよ」と憮然とした声をこぼしたきり口を結んでしまった。心の中は女の子なのに、女の子らしいことを嫌がるなんて、おぼろくんの気持ちはよく分からない。


 不機嫌なことを少しも隠そうとしないむっすりとした表情を観察していたら、得体の知れない優越感が抑えきれなくなった。私のひとことで、おぼろくんの表情がころりと変わるのだ。今まで窓ガラスの中の彼を見つめることしかできなかったのに。それが今、私はおぼろくんに関わっている。


「やだ小春ちゃん。何ひとりで笑ってるの?」


「おぼろくんが、変な顔してるから」


「僕が変な顔なのは今に始まったことじゃないよ。だけど小春ちゃんは、やっぱり可愛いよね。クラスの中でもとくに可愛いと思う。だから小春ちゃんのこと、下の名前で呼びたくなっちゃうのかなぁ」


 顔を上げたおぼろくんは、変な顔をやめている。ひっそりとした鼻声が何を語ったのか、すぐには頭に入ってこなかった。目の前のゆっくりした瞬きに合わせて、耳で止まったままの言葉を心の中でひとつずつ復唱していく。


 衝撃は、唐辛子の辛味と同じく、少し遅れてやってきた。最後まで復唱し終える前に、脳みそが破裂しそうになった。思わず両手で頭を押えると、おぼろくんがころんと首を傾げた。


「で、正解は?」


「え……なんの?」


「さっきの、だから私のこと名前で呼ぶのって質問には、こう答えればよかったのかな? って」


「ち、違うよ! 違うに決まってるじゃん! もう、どうして突然そんなこといい出すの」


「どうしてだろう。そういう慌てた顔が、見たかったからかなぁ」


 首を傾けたままのおぼろくんは、笑いを堪えるように唇をきゅっと尖らせた。頬にはしっかりとえくぼが現れている。


 今日初めて気が付いた。おぼろくんは結構意地が悪い。

 だけどその声も表情も、どこか親密な雰囲気を醸し出していて、私は何もいい返せなかった。それ以上、おぼろくんの顔も見ていられなかった。


 白旗の代わりに抱えた頭を振りながら俯くと、小刻みに息を吐き出す音がした。顔を上げなくても分かってしまう。きっとおぼろくんは、声を殺して笑っている。華奢な肩をくつくつと揺らし、口元に手を添えて笑っている。


 優越感が、鼻の高さを伸ばして戻ってきた。どうしましょう。やっぱり私は今、疑いようもないくらい、おぼろくんに関わっている。

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