5 いじわるなおぼろくん

5-1

 学校でおぼろくんの姿を目撃するたび、私は感動する。

 登校を見届けては、懲りずに毎朝「うおぉ来た!」と心の中で叫ぶ。彼が先に登校をしている日は「うおぉぉ居た!」と唸る。いつまで経っても慣れることがない。それどころか、感動は芋づる式に増す一方だった。


 だけど今日は冷静に見届けることができた。

 彼を窓ガラスの中に見つけた私は、おぼろくんのお出ましだ! と思っただけで叫ばなかった。この三日間で、だいぶおぼろくんに対する免疫がついたのかもしれない。


 気を良くした私は、百八十度首を捻る。そこには、ガラス越しで見るよりずっと鮮明なおぼろくんがいた。暑い中せっせと登校してきたせいか、頬が少し赤らんでいる。


「おはよう」


 ガラス越しでは気付けなかった朝の顔に声を掛けると、おぼろくんの目が驚いたように見開かれた。そんな表情もやっぱりじーんと胸に沁みて、私の口元はひとりでに緩んでしまう。


 それなのにおぼろくんは、目の大きさを元に戻すと「あぁ、うん」と呟くだけだった。それ以上の言葉は返ってこない。私から視線を反らし着席すると、そのまま前方だけを見据えて動かなくなった。


 私は時間差で「うおぉぉぉお!」と叫んだ。もちろん、心の中だけで。何が起きたのか理解できない。馴れ馴れしくなりすぎず、かといって他人行儀すぎるわけでもない、ごく一般的な朝の挨拶をしたつもりだったのに。


 訃報のあとにすっぱりと熱愛報道に切り替わる芸能ニュースのような豹変を見せるおぼろくん。昨日たくさん交わした言葉は、全てリセットされてしまったのだろうか。私なんてリセットどころか、昨日の一部始終が一ミリも色褪せずに困っているというのに。


 私は再び首を百八十度回して窓に顔を向け直す。頬杖をついた指先で頬を撫でた。いつもと違う手触り。指を動かすたび乾いた音が微かに鳴る。間違いなく、私の肌は荒れている。

 なかなか落ちない化粧を石鹸で擦りまくったせいで、肌がささくれたのだ。だから、昨日の出来事は夢じゃない。


 それならどうして? そう自問しかけたけれど、深く考えることはやめた。

 だって私は、誰にもいったりしないとちゃんと約束した。秘密を知っているからといって、学校でおぼろくんに警戒される要素は何もないはずだ。


 やっぱりおぼろくんは、宵越しの情は持たない主義なのかもしれない。そうだそうだ。私は頷く代わりに霞んだ目で瞬きを繰り返し、湧き上がる不安に蓋をした。


「おはよう鈴ちゃん」


 鼻に掛かった唯一無二の声が、隣から聞こえてくる。私の挨拶には曖昧な返事しかしなかったのに、おぼろくんはにこやかに友人を迎え入れていた。こんな日に限って、鈴木くんは珍しく「おっはよーう!」と無駄に元気な返事をした。

 朝の挨拶の成立を見せ付けられ、私はもう一度指先で肌の水分量を確かめる。カサカサという不気味な音は、体内で何かが剥がれ落ちる音に聞こえた。


「鮎子、おはよう」


「ちょっと小春、朝からなんて顔してんの」


 涼しげな顔で登校してきた鮎子は、私を見るなり急に暑さを思い出したような顔をした。肌荒れのことをいわれたのかと思ったけど違うみたいだ。隣の席に対抗して鮎子を爽やかに迎え入れたつもりが、上手くいなかったらしい。


 ひどい顔をしている自覚がなかった私は、与えられた動揺の大きさを改めて思い知らされた。挨拶が空振りしたって、鮎子が相手なら何とも思わないのに。だったあれだけのことに、どうしてこんなに絶望しているのだろう。


「分かった。さてはこないだ渡された進路のアレ、忘れてきたな。だからそんな辛気臭い顔してるんでしょ」


 私が答えるより先に「うわーやっべぇ。オレまだ半分しか書けてねぇや。お前はちゃんと書いたか?」と隣から暑苦しい声がした。おぼろくんを相手に話題を横取りした鈴木くんは、さすがにこればかりは写させてもらえないと観念したのか、坊主頭を両手で掻きむしっている。


 私は痛めつけられていく頭部ばかりをしつこく見つめた。おぼろくんの顔は、ガラス越しにでも見ることができなかった。


「忘れてないよ。ちゃんと持ってるもん」


 隣の席への無関心を装いながら、私は鮎子がいう『進路のアレ』を机の上にべろりと乗せて見せる。正式名称、進路希望調査用紙。


「うっそ白紙? 何威張ってんのよ、それじゃあ持ってきても意味ないじゃん」


「だって書きたくないんだもん。志望校はともかく、将来の夢とか、先生なんかに知られたくないよ」


 ショックで心が折れ曲がっているせいか、ついひねくれた言葉が口をつく。こんな私と喋ったって気分が悪くなるだけなのに、鮎子は前歯をチラつかせて意味深な笑みを浮かべた。


「ふぅん、そうなんだ。小春の夢って、公表できないくらい恥ずかしいことなんだぁ」


 反論しようと開いた口を、すぐさま閉じ直す。図星を突かれて言葉が出てこなかった。何を隠そう私は、専業主婦に憧れている。愛する夫や家族のことを考えながら家事をして、一日中ぽかぽか暮らしたいというのが、幼い頃からの生粋の夢なのだ。

 でも、将来の夢はお嫁さんになることです! なんて、今時幼稚園児でもいいそうにないことを、高校生の私がいえるわけがない。


「そういう鮎子はどうなの。恥ずかしくない夢、ちゃんと書いてきたの?」


 笑みと一緒に前歯をしまい込んだ鮎子は、やけに素直に頷いた。例の紙を目の前に突き出してくる。「ほれ」というぞんざいな言葉と共に目に飛び込んできた見慣れたはずの達筆に、私はまたしても言葉を失った。


『将来就きたい職業 美容師』


 驚いた。枠からはみ出さんばかりの自信に満ち溢れた文字にも、書かれた三文字の意味にも。


「この際、小春の兄貴の弟子にしてもらおっかな」


「だめだめだめ! 絶対だめだよあんな女ったらし! 鮎子なんてすぐに取って焼いて喰われちゃうよ」


 否定を込めて左右に振っていた首を止めるより先に、鮎子の表情が曇っていくのが分かった。案外本気で兄のことを慕ってくれているのかもしれない。

 稀に見る鮎子の垂れ下がった眉毛。夢だなんて口にした自分が恥ずかしくなった。私のお嫁さんは夢だけど、鮎子の美容師はすぐ先に見えている目標だ。鮎子なら、きっと兄よりアーティスティックな美容師になるだろうと、友の近い将来を思い描かずにはいられなかった。


「うわぁぁちょっと何するの!」


 隣から聞こえてきた叫び声で、パトリシアさん相手にカットの練習をしていた未来の鮎子の姿が脳裏から消え失せた。「しかもボールペンって……消せないよ」と続いたおぼろくんの声で、私はなんとなく事態を把握する。どうやら鈴木くんが、おぼろくんの用紙に勝手に何かを書き込んだらしい。しかも、あのおぼろくんが大声を上げて狼狽するほどのことを。


「なになに? あたしにも見せて」


 身を乗り出した鮎子は、何の躊躇いもなく隣の席のから騒ぎに加わってしまった。大胆な行動に驚いて思わず首を捻ると、すぐにおぼろくんと目が合った。

 しまったと思うより先に、彼の視線は鮎子に飛んだ。眼中から弾き出された勢いを借りて、私は顔の向きを正面に戻す。


 すがるように、昨日のおぼろくんを思い出した。私に笑いかけてくれた、おぼろくんの温かかな表情を。


「ねぇ見てこれ、勝手に書かれたんだ。川島さん、修正液持ってない?」


 突然参入してきた鮎子を、おぼろくんはすんなり受け入れている。そっか。確かふたりはご近所さんで、小学生の頃からの付き合いなんだっけ。私と違って、宵越しで消えてしまう、付け焼き刃な関係性じゃないのだ。


「なんだ、いいじゃん。朧にぴったりじゃん」


 愉快そうに声を弾ませる鮎子が、さりげなくこちらを見やったのが視界の隅からも分かった。そんな気遣いにも、私の首は固まったまま動かない。「小春も見てごらんよ」なんておせっかいな友がいい出しかねない気配を察し、机の上に突っ伏して目を閉じた。視覚を遮断したせいで、教室中の騒がしさがひどく耳に沁みる。


「いいだろ? 朧にぴったりだよな。オレもこれしかないと思うんだ」


「うん、地声がここまでへなちょこな男、そうそういないしね」


「ちょっと川島さんまでやめてよ。無理だよ声優なんて。ていうか、へなちょこってひどいよ」


「だってほら、ひどいよぅ、っていってる声がもう究極にへなちょこ」


「川島は人のこといえないだろ。女にしては可愛げのない枯れた声だもんな」


「顔もスタイルもよくて、その上声まで可愛かったら完璧すぎるでしょ。天使と間違えて早々天国に連れて行かれないように、しっかりバランスとってるのよ」


「おいおい、ちゃんと出っ歯のことも計算に入れないと、バランス崩壊して逆に地獄に連れて行かれるぞ」


「よくもいったな、自分だって泥団子みたいな顔してるくせに! 仕返しに朧も油性ペンで書いてやれ! ほらほら、サッカー選手とかなんとか」


「あの、それより川島さん、修正液持ってない?」


「残念でしたー。もう自分で書いたし。じゃーん! オレの将来はずばり、伝説のエースストライカー!」


「うっわ、自分で書いてるなんて反則。しかも伝説って何よそれ」


「笑うなよ! 結構本気で書いたんだぞ」


「ねぇ、修正テープでもいいんだけど……」


「ある意味声優より、先生の反応が気になるわ」


「あの、砂消しでもいいから……ねぇちょっと聞いてよ」


 次々に届く三種類の声が、真っ暗な頭の中をぐるぐると巡る。酔いそうだ。隣から響いてくるのは耳馴染みのある声ばかりなのに、知らない人たちの会話に聞こえた。目を閉じているのに、最後に見たあの顔が瞼から離れない。


 目が合うなり、おぼろくんは顔中に湛えていた笑みを抜き去った。ふっくらと持ち上がっていた頬が降下するこの上なく寂しい瞬間を、私は見てしまった。これじゃあ認めざるを得ない。学校でのおぼろくんは、明らかに私を拒絶している。

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